15.吟遊詩人の歌・六番目か七番目の王子 (前)
翠玉の瞳を持つ吟遊詩人は優雅に腰を折り、ウターリドと名乗った。
私は彼を促し、回廊をともに歩きながら尋ねた。
「ウターリド、あなたは『扉』の向こうから来たの?」
「ええ、扉の向こうから来ましたよ。たった今も」
含みのある私の問いを軽くかわしながら、ウターリドは人当たりの良い笑みを浮かべる。
「……旅人は元気?」
「ええ、元気ですよ。お伽話の最後は勿論、みんな幸せにならなくちゃ」
「ウターリド、お願い」
私は彼をまっすぐに見つめて懇願した。
「どうかはぐらかさないで。私は物語に出てきた人々の消息を、無邪気に尋ねる聴衆の一人ではない」
彼は耳慣れない言葉を聞いた人がするように、漆黒の髪をさらりと揺らして小首を傾げた。
「……あの塔は、まだある?」
「いいえ」
今度は即答だった。
私が驚いて彼を見上げると、ウターリドは柔らかく笑った。
「ご安心なさい。旅人が跡形もなく壊しましたから」
ああ、と私は胸を押さえた。
私を捕えた空の檻。繰り返される罪の入れもの。
穢れの姫は一人であるはずなのに、塔には対になる二つの部屋があった。おぞましいその理由に思い当たったのは、こちらに帰ってからのことだった。
あれは私のような娘が摩耗し朽ち果てる頃、次を用意し、入れておく為の部屋だ。
ほんの少しの空白も作らぬように。
「花を閉じ込め、苦しめた塔を旅人が残すはずがない。……彼は誰より花を愛していましたから」
ウターリドはまるで、旅人が花に特別な思いを抱いていたと言わんばかりだった。
自分が「花」と呼ばれるのもさることながら、彼が旅人の物語を語っている時から、正直そこは引っかかっていた。ライルは勿論私を愛していたが、それは共に育った姉に対して抱く自然な愛であり、それ以上でも以下でもない。
「旅人が姉を……そういう意味で愛していたなんて嘘だわ。彼に直接確かめた訳でもないんでしょう? いい加減なことを――」
「人の心の深淵は誰にも分からないものです。だが彼にとって花は特別で、他の誰にも渡せない存在だったことは確か」
彼は歌うように答え、翠玉の瞳で私を見た。
「でも手放した。彼にも分かっていたのです。その思いは歪だと」
私は思わず足を止めた。
ウターリドは苦笑し、私に手を差し伸べた。
「気にすることはありません。男なんて薄情なもの。今は可愛いそばかす娘にすっかり夢中ですよ」
にこにこと笑う彼につられ、私の肩の力が抜けた。
そうだ。結局男はそうなのだ。あんなに「姉様、姉様」とついて回っていたくせに。
私は彼に手を取らせ、再び回廊を歩き始めた。
柔らかい風が吹き抜け、私やウターリドの衣がなびく。
「……一応確認するけれど、ライルは自分の好みの女の子に魅了を使ったのではないでしょうね」
「あの娘に彼の魅了は効きませんね。目が見えないので」
「まあ。それなのに厨房で働いていたの?」
「彼女は誰よりも上手にパイを焼きますよ」
見てきたように語るのは、実際に面識があるからか。
だが、それを尋ねるのは野暮だろう――。
「旅人は彼女をとても愛していて、大切にしているのね」
「それはもう」
「ふふ……。それは私が聞いていた話と違うわ」
――ライルはこの国に枷が出来た。
愛する人を「枷」だなんて。
ファーリース、あなたって本当にひねくれている。
「ウターリド、あなたに会ってほしい人がいるの」
「誰です」
「あなたの甥」
あるいは、年の離れた従弟。
少し迷ったが、私は甥で言い切った。ウターリドは目を見開いて私を見る。彼と同じ、翠玉の瞳が驚きに揺れていた。
「目の色が同じだわ。それにあなたの髪の色。本当は黒じゃないでしょう」
確信があった。染め粉を落としてしまえば、きっととろけるような蜂蜜色が現れる。
「――まいった。何故分かったのです?」
吟遊詩人兼、異国の王弟は朗らかに笑った。
「どの王家にも、変わり者の『叔父』がいるものよ」
「これはこれは。型にはまらぬ生き方を自認していたが、それすらひとつの型だったか」
私は口調を改めて尋ねた。
「この国の宮廷にお立場をご用意するよう、父に口添えしましょうか」
「一介の吟遊詩人に何をおっしゃる」
ウターリドは優しく、だが即座に首を振った。
「お気持ちはありがたいですが、今の暮らしが気に入っております」
「そう……分かったわ」
私は肩をすくめて引き下がった。元よりそんな気はしていたのだ。
「それより甥とはどの甥です? 実のところ、私には随分沢山甥がおりまして。大きな声では言えないが、彼らの名前もあやふやだったり」
「あなたに似て、綺麗な顔立ち」
「顔立ちは皆、猫の子のように似ております」
「年は私と同じくらいか、少し上」
「心当たりがなくもないが、もう一声」
私はぐっと言葉に詰まった。人の悪いことだ。旅人の物語に出てきた「園丁」が誰かなんて、勿論分かっているだろうに。
私はここぞとばかりに彼の特徴を並べ立てた。
「人の話を聞かない。言いたいことしか言わない。意地悪で素直じゃなくて、分かりにくいけど優しい人なの」
ウターリドは噴き出した。
「どうやら、私の心当たりと同じ甥のようだ」
私たちはファーリースの部屋の前に着いた。
部屋の主には今のところ寝台しか使われていないが、花が飾られ、卓も椅子もしかるべく調えられた美しい部屋である。
ファーリースは寝台の上で相変わらず眠っていた。
ウターリドは彼の寝顔を見ると、ゆっくりと踏みしめるような足取りで彼に近づいていった。
彼は寝台の前で身を屈め、父が子を慈しむような優しさでファーリースの額に口づけた。
「彼は、どうして目覚めないの……?」
同じ異世界人であるウターリドは、こちらで問題なく生活している。ならば、ますますファーリースが目を覚まさない理由が分からなかった。
「ちょっと休憩しているんでしょう。元々あまり活動的ではなかった子が、今回は大活躍だったようだから」
ウターリドは彼を見つめ、寂しげに微笑んだ。
「王は彼を守らなかったが、彼を手放したがらなかった。彼が霧を呼べる息子だったから。私が長い放浪の旅から帰ってきた時、事はすべて終わっていて、ファーリースの瞳からは子供が皆持っている輝きが消えていた」
彼は独り言のように続けた。
「周囲は王に倣い、彼を幽霊のように扱った。そこにいるけれどいないもの。ほんの少しだけ恐れられるけれど、決して愛されないもの」
ウターリドはため息をつき、振り返って悪戯っぽく肩をすくめた。
「顔色も悪くないし、眉間に皺も寄っていない。きっとあなたのおかげでしょう。彼はあなたのそばで、ようやく心の安らぎを得たのです」
何を言っているのだろう。ファーリースが私のそばで安らいでいた節など一切ない。
こういうところは血筋なのだろうか。こちらに分かるような言い方をしないというか……。
「ほら、そんな顔をしないで座って」
私は彼に促されて卓についた。彼と二人、のんびりお茶をしにきた訳でもないのだが、ここでそっぽを向くのも大人げない。私は部屋の主の為に用意された水差しから果実水を二人分注いだ。
卓の上には果物とちょっとしたお菓子もある。
向かい合って座ったウターリドは私の為に葡萄の皮をむいた。
彼はすっかりくつろいでいて、私はまるで叔父に甘やかされる小さな姪のようだった。優しい叔父から葡萄を受け取り、瑞々しい果実の奥にある、小さな苦味ごとゆっくりと味わう。
ウターリドは手を清め、太った猫を撫でるようにリュートを構えた。
「あなたに語るべき物語がもうひとつ――聞いてくれますか? 不吉な王子と呼ばれた、六番目か七番目の王子の話を」
ファーリースのことだ。
待ってと言うより早く、長い指が弦を弾く。
私の心の準備も待たず、連れていかれたのは宴の場。美しい踊り子が舞台に上がる。
足輪についた鈴の音が弦からこぼれ落ち、物語の始まりを告げた。




