14.吟遊詩人の歌・王国の最後 (後)
霧の向こうに扉があった。
花と旅をする少年は、不思議な縁による導きで、悪しき王の治める地を訪れた。
優しい色の花が咲きこぼれ、風がよい匂いを運ぶ祝福の地。
かの王の心根には似合わぬ美しい国だった。
王と彼に連なる貴族たちは贅の限りを尽くし、民は貧しかった。
だが、誰も王には逆らえない。
王の一族は不思議な力を持っていた。
彼らは人が住めぬほど穢れた大地をどのようにしてか清らかにし、この国を建てた偉大なる始祖の末裔だった。
王は旅の少年を歓待した。
少年が実に見目麗しく、また、不思議な力を秘めていることが、王にも立ちどころに分かったからだ。
彼を娘と娶せたいと考えた王は、言葉巧みに少年と花を引き離した。
彼の左胸のそば、彼の一番大事な場所に、いつまでも居座り続ける花が王には目障りだった。
王は花を閉じ込め、地上の瘴気を吸わせてゆっくりと弱らせていった。
旅の少年は訝しみ、部屋にこもる花の許を幾度も訪れたが、扉の向こうから返ってくる答えはいつも同じだった。
――私はここで楽しくやっているわ。もう会いにこないで。
王に脅され、花は心ならずもそう言い続けていた。
年若い従妹が堪え切れずに涙ぐみ、吟遊詩人は彼女を慰めるように優しい音色を奏でた。
「……花は助かるの?」
彼は困ったように翠玉の瞳を揺らし、答える代わりに歌った。
――少年は花の言葉を信じなかった。
「いいぞ!」
「そうでなくっちゃ!」
歓声が上がり、物語は再び動き出す。
旅の少年は隙を突いて花の姿を盗み見た。
見るも無残なその様子に彼は驚き、声を失う。
彼はほとんど愛のような感情を花に抱いていたから、王への怒りは計り知れなかった。
――滅ぼさずにおくべきか。だが、今はまだその時ではない。
少年は勇敢であると同時に冷静だった。
彼は固い決意を胸に秘め、王の思惑に乗ったふりをした。
王はしめしめとほくそ笑み、腕を広げて少年を迎え入れた。
さて、突然現れた旅の少年が王に特別扱いされ、王の娘たちと親しくすることを、快く思わない者がいるのは当然である。
少年は命を狙われるようになった。
一度など、通りかかった厨房の娘のスカートの中に匿われなければ、本当に命を落とすところだった。
――危ないことはお止め。王宮で長生きをしたければ、目立たずにいるのが一番よ。
薬草をすり潰して少年の傷口に塗りつけながら、厨房の娘は諭した。鼻の周りのそばかすが可愛い娘で、彼女だけは少年を特別扱いしなかった。
――本当に懲りないわね。
毒入りの菓子を苦しげに吐き出し、ぜいぜいと息をする少年の背を、娘が呆れながらさすってやることもあった。
旅の少年は諦めなかった。
いつしか厨房の娘も、彼がただ栄華の為ではなく、理由があってそうしているのだと察して何も言わなくなった。
そのうちに旅の少年は成長し、もう少年と呼べる頃を過ぎた。
これからは彼を「旅人」と呼ぼう。
長い時間をかけて、旅人は王宮内のありとあらゆる人々の心に入り込んでいった。
その中には、彼がいずれ滅ぼす王やその取り巻きたちも含まれていた。
さて、皆々様。腐敗した悪しき王家の滅亡はもう目の前。
その前に、かの美しき花がどうなったかをお伝えしておこう。
少年は愛する花の許へ、信頼する園丁を送り込んだ。
不吉で恐ろしい見た目のせいで、皆から疎まれ、遠ざけられていた人物だった。
だが、旅人は、彼が不器用だけれど優しい人だと見抜いていた。大切な花を託すのに、これ以上相応しい人物はいない。
園丁は花を瘴気の中から抱き上げ、連れ出した。
悪しき王に背く行為。
もう生きては帰れないと知っていた。
花と二人、星の瞬きよりも長い旅路の果て、園丁は遂に彼女の仲間たちが揺れる花園にたどり着いた。
――さあ、元いた場所へお帰り。
随分とくたびれて、後は消えるだけとなっていた園丁は、最後の力で花を植え替えてやった。
花が生気を取り戻し、美しく咲き誇るのを見届けて――彼が静かに消えゆこうとした時だった。
花は彼に絡まり、地上に止まらせた。
言葉はいらない。
つないだ手の温もりと、互いを見つめる眼差しがあったから。
花と園丁がその後どうなったか? さあ、その先は誰も知らない。物語の外の物語なれば。
今ここで語られるべきは旅人の物語。ならば、話を旅人に戻そう。
その頃、王国は瘴気に包まれていた。
ずっと花に吸わせていた瘴気をどうやって消したらよいか、王には分からなくなっていた。
旅人が囁く――私が瘴気を消してあげましょう。それまで安全な地下室に隠れておいでなさい、と。
王とその一族、彼に連なる貴族たちは、それを聞いて大喜び。民を見捨てて迷わず地下室にこもった。
旅人は彼らを閉じ込めると、大急ぎで王国に遍く息を吹きかけた。
すると不思議なことが起こった。
今にも死出の旅に出ようとしていた人々が目を開け、何事もなかったように起き上がったのである。
彼の優しい息吹は弱っていた人々を生き返らせた。
命を救われた人々は旅人に心から感謝した。
皆がすっかり元気になったのを見届け、旅人は王を迎えにいった。
「そのまま閉じ込めておけ!」
物語に引き込まれ、うっとりと聞いていた大叔父が顔を真っ赤にして叫んだ。
「そうだそうだ。旅人よ、早まるな」
続いて普段は冷静な父の友人までも。
だが、周囲の反応を見る限り、皆も二人と同じ思いのようだった。
このまま黙って聞いていれば、悪しき王たちは破滅どころか、何の咎めもなく迎え入れられてしまうのではないか――。
吟遊詩人は答える代わりに弦をつま弾いた。
皆の願いも虚しく、そこから聞こえてきたのは地下室の扉を開ける音だった。
地上に戻った王は歓喜した。
花咲き乱れ、鳥舞い歌う。彼の美しい王国で、人々は瘴気の影響を受けることなく皆生き生きとしている。
王は少しの息苦しさを感じたが、気のせいだと思った。
ずっと地下にこもっていたせいだろう。そうだ。そうに違いない。
だが、宴が始まれば嫌でも気づく。美食も美酒も、どうしたことか喉を通らない。苦しい。体の先から焼けてなくなっていくようだ。
王とその周囲の者たちは、それから十日ほどの時間をかけて、ゆっくりと死んでいった。
何故? 瘴気は消えたはず。だが彼らは手指の感覚を失い、青く爛れ、もがき苦しみながら為す術もなく息絶えた。瘴気が彼らを取り囲み、弄んだとしか思えない死にざまだった。
ここで、そろそろ種明かしをしよう。
旅人は瘴気を消したのではなかった。
彼の呼気で人々を覆い、瘴気の毒を通さぬ体にしていたのだった。
王は旅人の呼気に守られず、彼に相応しい死に方をしただけである。
おや、時ならぬこの轟音は雷か、それとも王のあるべき末路を語った者への拍手喝采か――。
旅人は新たな王となった。
愛する花を手放した悲しみは胸にあったが、いつかは離れなければならない運命だった。
それに、彼はもう生身の愛を知っている。
そう――あの厨房の娘。
彼は娘に跪き、どうか人生をともに歩んでくださいと希った。
娘は笑って彼の手を取った。
人々は新しい王と王妃を喜んで迎え入れた。
すべての悪しきものは滅び、朝焼けのような平穏が訪れた。
聞き終えた皆が、しばしの放心の後、割れんばかりの拍手を送った。
「不思議な物語だ」と口々に言う。
「だが、引き込まれる」と。
吟遊詩人は軽やかに一揖し、悠々と広間を退出していった。
私は瞬きもせずその背中を見送った。
それから、満足げに余韻に浸っている父の隣に忍び寄り、彼がしばらくこの城に滞在することを聞き出した。
私は是非とも彼を部屋へ招き、お喋りしたいとねだった。
父を始め、皆は今、私にとても甘い。
どことも知れぬ異界に落ち、ようやく帰ってきたばかり。その上、恋人は未だ目を覚まさない。
引っ張りだこの吟遊詩人との、お茶の機会はまず私に与えられた。




