13.吟遊詩人の歌・王国の最後 (前)
自室の寝台の上で目を覚ましたのは、実に久しぶりのことだった。
私は丸一日眠っていたそうで、その間、城は大変な騒ぎだったらしい。
目を覚ました私は存分に甘やかされた。
お好きだったでしょう、とヤブイチゴがうず高く盛られた器が寝台まで運ばれ、豆粥が食べたいと言えば即座に用意される。
分かっていたが、ファーリースと食べたあの粥とは少し味付けが違うそれを食べ、私は「美味しい」と皆に笑ってみせた。
侍医の診察を受け、私の体のどこにも異常がないことが確認されると、気遣われながらの長い問いと答えが始まった。
私はライルとともに異世界に落ちたこと、神殿に連れていかれ、姫と呼ばれて塔で暮らしていたことなどをぽつりぽつりと語った。
かの地の建物に見られる、曲線を多用した美しい装飾のことや、森の中の宝石のような青い泉のことも。
徒に皆を悲しませる必要はない。私が彼らにされたことは、永遠に私だけの秘密だった。
ライルは異世界で望まれて王となり、私は彼の取り計らいにより帰郷することが出来た――と、私の口は告げた。
恐らく、これは事実からそう外れてはいない。
――その時が来て君を帰すまで、君の話し相手になってくれと言われた。
――彼が魅了し、いつか掌握する。夜明けとともに滅ぼすだろう、腐敗した悪しき王国を。
彼の言う「その時」というのは恐らく、ライルが宮廷を完全に掌握した時のことだろう。ライルは敵だらけの宮廷で見事に本心を隠し、卒なく振る舞ってみせていたが、あの時点では未だ「その時」に至っていなかった。ライルへの警戒を解かず、故に魅了もされていなかった第一王子がいい例だ。
だが、掌握は時間の問題だった。ファーリース曰く、ライルはとてもうまくやったそうだから。
何も全員を魅了する必要はない。魅了された者が圧倒的多数となってしまえば、少数派を抑え込むのは造作もないことだった。
掌握の暁には、ライルは王に取って代わることだろう。残った彼が悪しき王国を滅ぼすというのはそういうことだ。ああ見えて苛烈な一面を持つライルが、あの王家の存続を許すとも思えなかった。
こうして語るべき物語を語り終えると、それまで黙って聞いていた母が静かに尋ねた。
「真ですか」
この人と私はよく似ている。
本当はライルがとっくに死んでいて、私が皆の心を慰める為に、優しい嘘を吐いているのではないかと疑っているのだ。
私は母をまっすぐに見つめ、「はい」と答えた。
ライルは確かに生きていて、彼の計らいで私がこちらに帰されたことは紛れもない事実だった。
母は頷き、目を伏せた。
微かに震える母の肩を父が抱いた。
死んでいないと分かっても、会えないことに変わりはない。私は一緒に帰ってくれなかったライルに文句のひとつも言えず、ただ首を垂れるだけだった。
ファーリースに関しては言い訳がましい説明は不要だった。
彼の高貴な顔立ちと、身に着けていた装束の美しさが、彼の出自を嫌というほど物語っていた。
彼は異世界の国の王族であり、ライルの友だった。彼はライルに乞われ、彼自身、命の危険があると知った上で、私を連れ戻してくれた。
私が皆に告げたその言葉は何ひとつ嘘ではなかった。
そうよね? ファーリース。
それから――ライル。
叶うならば、最後にもう一度あなたを抱きしめたかった。
――霧出づる深き谷底こそお前に似合い。
ライルはあの時そう言って、本物の魔法円の位置と、彼らが既に霧を呼び、「扉」が開かれていることをファーリースに伝えたのだった。
――魔物蠢く地の底を永久にさまようがいい。
随分な言いようだが、「魔物蠢く地の底」というのは、彼らにとっての「魔物」である私たちが住む世界のこと。
ライルの背後にあった魔法円は、第一王子の目を誤魔化す為に彼らが作り出した幻だったのだろう……多分。
答え合わせなど出来はしないが、切り立つ崖から落ちた私とファーリースが生きてここにいるということは、そういうことだと思うしかなかった。
ライル……疑って悪かったわ……。
あの時の彼の迫真の演技ときたら。彼らに魂を売り渡したかと、私は本気で絶望していた。
あなたに、もう会えないのかしら――いいえ、そんなことはないわよね?
ライルならば、あの「扉」を改良し、自由に行き来出来るようにしたりするような気がする。いつかきっと。
それまで、待っているわね――。
私は昼の正餐の衣装を早めに整え、一輪の花を片手に部屋を出た。
回廊を渡り、ファーリースのいる部屋へと赴く。
彼の許へ向かう度、皆から温かい視線を投げかけられるのは決して気のせいではなかった。
私が最初に、「彼は私を命懸けでこちらに戻してくれた恩人」と宣言していたことと、私たちが発見された時の私の体勢のまずさから、皆は私たちが相思相愛の恋人同士だと思っていた。
皆の憶測が育んだ物語の中では、ファーリースは命の危険をも省みず、彼の最愛の女性である私を帰還させた、愛深き異国の王子である。
ファーリースはあれから一度も目を覚ましていなかった。
賓客用の部屋をあてがわれ、広々とした寝台に横たえられた彼は、昼も夜もずっと眠り続けている。
何故、という問いは、このまま目を覚まさないのだろうかという不安と隣り合わせだった。
彼にとって異世界であるこの国では、彼は目を覚ますことが出来ないのだろうか。それとも、もしかしたら、彼の体を元に戻すのが遅過ぎたのだろうか。
彼を診察した侍医たちも、理由は分からないと言った。
ただ……と彼らは首を捻って付け加えた。
我々が診る限り、体のどこにも悪いところは見当たらないようです、と。
となると、単にぐうたらしているだけかもしれなかった。
「さっさと起きなさいよ。……この怠け者」
美しい寝顔に上質な寝具がこよなく似合っている。こういうところも腹立たしかった。
ファーリースはあの時、ライルの意を受け、私が確実に帰れるよう私を抱いて扉に飛び込んだ。
私が目を覚ます頃までには、自分の体は跡形もなく消えてなくなっていると踏んだのだろう。
お生憎様。あなたも認める私の魔力のおかげで、あなたはこうして溶けることもなく無事に生き残っている。
「……後は、目を覚ますだけでしょう」
心地よさそうに眠っているファーリースは、何かのはずみでふと目を覚ましそうに見えた。
蜂蜜色の長い睫毛が上がり、あの翠玉の瞳が私を見つけ、今にも「アイシャ」と呼びそうな。
だが、いつまで待ってもその時は訪れなかった。
「……そろそろ行くわ。今日の正餐には吟遊詩人が来るの。とても評判の語り手なのですって」
どこからともなく現れたという、謎めいた吟遊詩人。数多の宮廷で引っ張りだこだという彼の語る物語は、奇想天外な異国の香りに満ちていて、とても不思議な味わいなのだという。
「きっと面白い物語が聞ける。起きていたら、あなたも一緒に聞けたのに。残念ね」
こんな意地悪ばかり言ってしまうから、ファーリースは目を覚ましてくれないのだろうか。
私は見舞いの花に口づけて彼の髪に挿し、彼の部屋を出た。
黒髪に翠玉の目をした、甘い雰囲気の男がリュートをつま弾いた。
「では、お聞かせいたしましょう。遠い遠い昔、旅の少年が悪しき王を滅ぼし、代わりに王となった話を」
今日の正餐には大勢の親戚や友人たちが集まり、彼の登場を今か今かと待っていた。
葡萄酒で陽気になった男たちは華やかに手を叩いて物語を促し、女たちは期待に満ちた眼差しを麗しい語り手に向ける。
「――物心ついた時から、少年は花と旅をしていた」
甘い声と震える弦が、ひとつの世界から別の世界へ、自在に旅をする少年と、彼の心臓のそば、左腕に絡まる美しい花を描き出す。
少年はまだあどけなさを残す年頃。だが、しっかり者で賢く、勇気がある。
「少年と花は常に一緒だった。少年がそう望んだから――」
歌うような、囁くような声が、少年の物語の幕を開けた。




