12.熱を伝える
額に水滴が落ち、目が覚めた。
私はファーリースに抱かれた状態でしばらく気を失っていたらしい。視線を上げるとすぐそばに蜂蜜色の長い睫毛があった。
慌てて身を起こし、周囲を見回す。
ここは……。
私たちはしっとりと柔らかい土の上にいた。
巡らせた視線の先には、思い思いに梢を伸ばした木々が立ち並んでいる。どうやらまだ森の中のようだ。落ちた先がよかったのか、ごつごつした岩場ではないのが幸いだった。
どうして。
切り立った崖から落ちたはずなのに、体のどこにも痛いところはなかった。ファーリースに庇われていたからだろうか。
彼は目を閉じ、ぴくりとも動かなかった。
滑らかな肌には擦り傷ひとつなく、眠っているようにしか見えない。だが、彼の体は薄く透き通り、粒子のこぼれは止めどなかった。
「ファーリース、しっかりして」
透き通っていく彼の体を揺さぶった。
――愚かなファーリース。禁呪を使ったか。
彼の体を一瞥した第一王子がそう言っていた。ならばこれは禁呪のせいだ。では禁呪とは何を指す? 決まっている。私の呪いを解いたことだ。穢れの姫を解放するなど、彼らにとっては最大の禁忌に違いない。
では、この禁忌を犯せば代償は?
――霧の手前までなら、丁度ついでがある。
私はファーリースの頬をひっぱたいてやりたくなった。
最初からついでなんてなかったのだ。私にかけられた呪いを解けば、彼自身は溶けてなくなる。彼はそれを分かっていて呪いを解いた。
「ファーリース、どうして……!」
彼と王家の間にある、何らかの確執のせいか。自らの命を投げ出してでも、彼らに一矢報いたかったのか。だが、きっとそれだけではない。
――好きだ、アイシャ。
卑怯者。最後だと思ってそう言ったでしょう。
溶けてゆく。彼がなくなってゆく。
「駄目よ、ファーリース! 私はまだあなたのことを何も知らない!」
私は子供のようにぼろぼろと泣きながら、ファーリースの顔の横に手をついた。
彼は私に魔力があると言った。よく分からないが、ひとつの国の大気の毒素を一身に引き取ることが出来るのなら、それは恐らく膨大な力なのだろう。ならば、私も彼と同じことが出来るはず。いいえ、出来なければ許さない。
私は荒い手つきで涙を拭った。息を吸って、唇を開けば、内から湧き出る思いがそのまま詠唱となる。
「花は天に捧げ、歌は地に捧げる」
ファーリース、戻ってきて。目を開けて私を見て。
憎まれ口でも何でもいいから何か言って。
もう一度――アイシャ、と。
「波を打つ尾びれ。私はここ。愛しい――愛しい私のファーリース!」
私はファーリースに唇を押し当てた。
その唇は柔らかいけれど、鉱石のように冷ややかだった。生気のないその冷たさに、意識を吸い取られそうになる。私もこんな風だったのだろうか。強く押しつけて熱を伝える。元は彼から分けられた熱を、もう一度彼と分け合う。容赦なく溶けゆく粒子が私のそばで踊り、私の涙を嘲笑う。
私は構わず、粒子を押し戻すように一層強く唇を押しつけた。
ファーリースが起きていたらきっと、随分積極的だなとからかったことだろう。
ひどい……。
唇への口づけは、するのもされるのもあなたが初めてだったのに。
最初はもどかしいほどゆっくりとした変化だった。
ファーリースはいつしか光り輝くのを止め、体の縁からこぼれていた粒子が徐々に体に戻り始める。
ああ、出来たんだわ……。
私はファーリースに口づけたまま、へなへなと崩れ落ちそうになった。
壁を溶かしたり、豆粥をただでもらったり、王子様の呪いを解いたりと、私の持つ魔力とやらは、一体どれほど強大なのか。自分では何をどこまで出来るのか、まったく分からないから使いようがないが。
もう、離してもいいだろうか……。
彼が境界線を取り戻したことを確認し、私は恐る恐る唇を離した。
「ファーリース、目を覚まして」
彼は答えず、彫像のように目を閉じている。
私は彼の胸に耳を当て、心音を確かめた。
聞こえる。
ファーリースが確かに生きている音が。
安堵で再び涙腺が緩みかけた時、カサカサと葉がかき分けられる音に続き、呆れたような男たちの声がした。
「そこで何をしている」
「よそ者か? この森は立ち入り禁止だと知らないのか」
嘘でしょう、まるで計ったように……。
彼らが今、目にしているのは、森の奥で寝そべる男にしなだれかかり、彼の胸に顔を埋めている女の後ろ姿である。
私はどうもファーリースと一緒にいると、あらぬ解釈をされがちな状況に追い込まれているような気がするが、気のせいだろうか。
釈然としないまま振り返ると、男たちが私の顔を認め、驚きの表情を浮かべた。
「まさか……姫様……?」
「え……?」
私もまた、彼らの姿を認め、目を瞬いた。よく見ると、彼らが着ているのは見慣れた我が国の騎士服である。何人かは顔も知っていた。
「ここは……」
私は改めて周囲を見回した。
小鳥のさえずり、木々の葉擦れ、透ける木漏れ日。
茂みの向こうにヤブイチゴの赤い実が見える。その瞬間から森が歌い出した。日々の営みを。耳に馴染んだ生命の歌を。騒がしい――ここは私が知っている森だ。
私は、「帰って」きていたのだった。
男たちのうち一人が進み出、私の前に膝をついた。
「よくぞ、ご無事で……! 今までどちらに?」
残りの者たちは後ろで同じように膝をついている。
「異界に……落ちていたようなの……」
「ずっと、お捜ししておりました」
「本当に……? あれからずっと……?」
さすがに忘れられてはいなかっただろうが、もう諦められていると思っていたので驚いてしまう。
「無論です。陛下はこの森を立ち入り禁止とし、我らにずっと捜索に当たらせておりました」
その言葉を聞いた途端、体中から力が抜け、私はファーリースの上に崩れ落ちた。不可抗力である。起きていられないほどくたくただったのを、私の体が思い出したのだ。
「あ、あの、そちらの方は……」
「この方は、命懸けで私をこちらに帰してくださった方。このお方の助けなくば、私は戻ることが出来なかった」
訊きにくそうに尋ねられた問いに、私はファーリースの上で、口調だけは重々しく取り繕って答える。
「異国の身分ある方であり、私の命の恩人でもある。ゆめゆめ粗相のないように――」
まるでファーリースのように、言いたいことだけ言ってしまうと、私は意識を手放した。
もう大丈夫と思い、気が緩んでしまったのだろう。




