1.塔に囚われた魔物
「僕と来るか、アイシャ」
そう言って、彼は手を差し出した。
今日初めて出会ったけれど、少なくとも彼の首に指を絡ませ、この手で息の根を止めてやりたいくらいのことは思った相手だった。
彼は私が彼にしたことも、彼が私にしたことも、まるでなかったような顔をして、私の決断を待っている。
凪いだ翠玉の瞳は謎めいて、私をまっすく見つめているようにも、興味なさげに私を通り越し、どこか遠くを見つめているようにも見えた。
彼にとってはどちらでもよい、ついでがあるから送っていこう、ここに残りたければどうぞご随意に――彼にとってはその程度のことだった。
だが、私にとってはそうではない。
私は立ち上がり、差し伸べられた手を取った。
彼が一瞬、安堵の表情を浮かべたような気がしたが、多分私の気のせいだろう。
「あなた、名前は何というの」
「ファーリース」
そう答えた時、彼の足はもう出口へ向かっていた。
私たちが塔に閉じ込められた時、私は十四歳、弟のライルはまだ十三歳だった。
ヤブイチゴを取ろうと手に手に桶をぶら下げて、皆とともに勇んで森に入った日のことだった。
霧の出る日は気をつけて
森の奥 異界の扉が開くから
お前は囚われ 閉じ込められる
だから決してその先は
足を踏み入れてはいけないよ――
その歌は勿論知っていたけれど、優しい調べに乗せられたそれは、小さな子供が森の奥に分け入らぬようあえて怖がらせ、踏みとどまらせる為の歌なのだと思っていた。
小さな頃から何度となく入った森だ。
たとえ急に霧が出ようと、あるいは土砂降りの雨が森を洗おうと、私たちはいつだって無事に帰ってきていた。
ライルはいつものように私の手を引いた。
少し仲が良過ぎるのでは、と皆が心配するほど私たちは仲が良い。
ちょっとした反発と悪戯心から、私たちは皆の懸念を否定しなかったが、彼らの心配は杞憂だった。
私たちの親密さは、同じ巣穴に住む雛鳥が、互いに身を寄せ合うようなものだ。互いがまとう気配が似ていて、単に心地良いのである。
私たちはどちらも赤みがかった褐色の髪と、淡い青灰の目をしていて、双子のようにそっくりだった。
性格は真逆と言ってよかった。
ライルは大人びていてしっかり者で、そのせいで私はいつまで経っても気楽な姉姫でいられた。
――姫様……?
――姉様!
あ、霧が、と思った直後、瞬きひとつの間にそれは私の体を包み、ライルが慌てたように私を胸に引き寄せた。
だが、それは私とともに移動し、ライルの体をも包み込んだ。
――姉様! 早く霧から出……。
彼が言い終わらぬうちに、確かにそこにあったはずの地面がぽっかりと口を開く。穴に落ちるように私たちは落ちた――はずだった。
何が起きたのか、本当のところは何も分からない。
強く閉じた目を恐る恐る開くと、地面にぽつりぽつりと埋め込まれた鉱石が、夜の星のように瞬いていた。
いつの間にか落ちていた地面の上で、だが体のどこも打ちつけることなく、私たちは雛鳥のように身を寄せ合って震えていた。
ここはどこ。
甘くかぐわしい私たちの森じゃない。
角も牙も尻尾もない、見た目は私たちと同じ人間のような、けれど見慣れぬ形の鎧をまとった男たちが私とライルを見下ろしていた。
――姉様に触れるな!
ライルが私を背に庇ったが、男たちは彼を押しのけ、難なく私たちを抱え上げた。
――姉様!
――ライル、ライル!
互いに伸ばした指先は届かなかった。
十三、四の子供がいくら暴れたところで、屈強な男たちはびくともしない。私はライルと引き離され、一人だけ神殿のような建物に連れていかれた。
私を肩に担いだ男が大きな階段を上り、私の体がゆさゆさと揺れる。
――逃げなくては。
上り切った頃を見計らい、不意打ちで体をひねってみた。だが、しっかりと私を抱える手は鉄のように固く緩まない。担がれたまま焦って視線を巡らすと、等間隔に並んだ円柱が見えた。曲線を多用した複雑な装飾が巻きついている。どことなく草花の群れを感じさせ、美しいとすら思った。
薄暗い内奥に入った瞬間、背筋がぞわりとした。
部屋の奥には祭壇があり、漆黒の衣に身を包んだ男が私を待っていた。彼から少し下がったところでは、似たような恰好をした者たちが彼に平伏している。彼が手を振り下ろし、その動きに従うように私の体が祭壇の上に降ろされた。
――離して! 嫌、止めて!
降りようともがく私の手や足や肩は容赦なく祭壇に押さえつけられ、漆黒の衣の男はゆっくりと霧を吐くように、呪文のようなものを唱え始めた。
――畏れは天に捧げ、贄は地に捧げる。
――嫌! 嫌……!
私は恐怖に駆られて叫んだ。私は代償として捧げられる贄か、何かを呼ぶ為の媒介だ。だが、どれほど暴れても、私を押さえつける男たちの手は深く突き刺さった矢のように動かなかった。
――風払う羽。我は告げる。すべての悪しきものはここに。
――アアアー!
禍々しい詠唱は荘厳な調べのように高い天井に響き、轟音となって私の上に降り注いだ。
私と世界の境界が壊れる。
すべての悪しきものは奔流となって私の体に流れ込んだ。
――あ、あ……。
内側から食い破られるような痛みだったが、恐ろしいことに私は死ななかった。
その事実に私は愕然とする。
この痛みに耐えられるのか。
正気を失うことさえ出来ないのか。
私は変わり果てた体で天井を眺めていた。
私はもはや人ではなく、理から外れた何かだった。
――この娘の世話は、耳の聞こえぬ者にさせるよう。
私に呪いを刻んだ者が、疲れたようにそう命じていた。
私はもう、ゆっくりとしか動けなくなっていたから、逃げたり暴れたりする恐れはなかった。それは彼らもよく知っていたのだろう。私を拘束する手はいつしかすべて離れていた。
朦朧とした意識の中、絡まり合う木の根のような細長い塔へと追い立てられ、狭い螺旋の階段を上ったことだけは憶えている。
行きついた先が私の檻だった。
帳も何もない寝台と、剥き出しの床。
格子を嵌め込んだ窓の向こうには空があった。