第3章 過去
グレーゴルは哀しかった。
虫であった時は、さほど辛いわけでも、具体的な悩みを抱えていたわけでもなかったのに、死の間際、誰からも看取られず、道端のゴミのように死んだことが哀しかった。
その哀しみは死後、より強いものになった。
彼が過去を振り返ってしまったからだった。
(以下、グレーゴルの回想)
「母さん、これ」
「どうしたのこれ…
良い香り!あの店の香水じゃない!」
「ずっと欲しがってたでしょ。」
「でもグレーゴル、こんな高い物買って大丈夫なの?」
「昇進したんだ。給与が上がったからちょっとね。今まで苦労してきたでしょ。」
「ありがとうグレーゴル。
ごめんね、父さんと母さんが会社失敗しちゃって、こんなに借金まみれになって…
挙句お前に、こんなに苦労させて」
「良いんだよ。
もう少し頑張れば、父さんの治療費も払えるようになる。グレーテも大学に行けるかも知れない。少しでも家にお金を入れないと。」
「でも、無理しないでね。
お前最近、出張ばかりでろくに休んでないでしょ。こんなに痩せて…目の下にクマができてるじゃないか…」
「平気だよ。
お金のことも気にしないで。
俺が何とかするから…」
*
「私も兄さんみたいになれるように、勉強頑張るね!」
「グレーゴル、お前は父さんの自慢の息子だ。」
「ザムザ君、君なら優秀社員に選ばれるよ。」
「グレーゴル」
「兄さん」
…
「放り出しちゃうのよパパ!これが兄さんだなんていつまでも考えてるからいけないのよ」
「あたしたちがいつまでもそんなふうに信じこんできたってことが、本当はあたしたちの不幸だったんだわ。」
「しっしっ!
あっちに行け!部屋に入ってろ!」
(違うよ父さん!
俺はただグレーテを助けようとしただけなんだ…)
「お前は我が家の恥だ!
さっさと失せろ!」
グレーゴルは、リンゴと父の杖で傷つけられまともに動けなくなった身体を引きずりながら部屋に戻った。結局、背中に刺さったリンゴは取れず、グレーゴルは猛烈な痛みに日々耐えることとなった。
「父さん、この家とアレを捨てましょ。
新しい生活を始めるの。」
死に際の自分が目の前にいた。
道端に捨てられたゴミのように、痩せ衰え、傷だらけになって倒れていた。
誰からも看取られず、ただ優しかった頃の家族の愛を思い返し、一筋涙を溢して眼を開けながら冷たくなった。




