第1章 本性
グレーゴル・ザムザは歩いていた。
何もない、真っ白な世界をただ一人2本の足で歩いていた。
池を見つけた。
青年は自分の姿に辟易して、鏡はおろか手足を見ることさえしなかった。ありのままの自分を見ることが怖かった。
けれど、なぜか、この時ばかりは彼の心は強い好奇心の前に敗れた。恐怖と奇妙な高揚感をひた隠しにしながら、グレーゴルはそっと水面を覗き込んだ。そして、彼はまた絶望した。
人間の姿だが、尻の頭からムカデの尻尾が生えている。背中には傷痕があり、背骨から林檎の木の枝が浮き出している。
顔の左上は甲虫の皮膚になっていて、林檎の葉が涙のようにした目からはみ出ている。
だが、グレーゴルは驚かなかった。
虫になった時でさえ、彼は驚かなかった。
この姿は、自分の内なるものを映していることを知っていたからだ。
父に傷つけられ、林檎が当たった背中、そしてこの虫の姿。まさに己の全てを体現していた。
彼はこの化け物を芸術的だとさえ思った。
ただそれは、どれだけ悔やみ、郷愁を覚えようとも決して消えることのない現実を思い出させる残酷な姿でもあった。
振り返ると、目の前に"普通の人間だった"頃の自分がいた。
"普通のグレーゴル"は怪物のグレーゴルに向かって、こう言った。
「私は日本では専らカミといえる存在である。
お前たちキリスト教徒が崇拝する"神"とは違う。聞け。」
カミはグレーゴルの声で言い放った。
「グレーゴル・ザムザ…
享年は25、衰弱死…
何とも、むごたらしい最期。」
グレーゴルは少しイラッとしてカミを睨んだ。
カミが少し、からかうような言い方をしたからだ。
しかし少し経って、また自分の死の間際を思い出し、彼の瞳はまた苦痛で歪んだ。
「かくも醜く、かくも美しい。
儚く散った夢のように残酷で淡い。
それがお前だ。」
カミは大きな鏡を持ってきて言った。
「お前の本性の姿はどのようだったかな」
グレーゴルは鏡を見つめた。
鏡には、完全な人間だった頃のグレーゴルがいた。布地のセールスマンらしく少し糸屑を乗せた上品なスーツに身を包み、情熱と希望に満ち溢れていた。カミが鏡をくるりと回すと、今度は見覚えのある褐色の巨大な毒虫になった。気色の悪い液体を口から吐き、ダラダラと部屋をうろついたり、ゴミを食べたりしている。
鏡の中の映像が終わると、男が現れた。
人間でも、毒虫でもない、全てが中途半端な今の自分だ。
だが、グレーゴルは少し喜んだ。
半端であったとしても、人間の部分が少しずつ戻りつつあることに気づいたのだ。
このまま「人間」に戻れるかも知れない。
グレーゴルは絶望に塗装された瞳に、一点の光を生み出した。
「嬉しいか、グレーゴル。
ようやく"人間"に戻る気力が湧いたか。
なぁ聞くが、そんなに良いものかな?
"人間"というやつは…」
「良いに決まってます。
まっすぐ夢に向かって努力し
愛する人と共に生き、社会に貢献する。
僕はいつだって、そうなるべく生きてきた。」
「だが、お前は別の生き方を選んだな。
誰とも交わらず、外の世界にも出ず
狭い部屋の中でただ生物として最低限の行動をしていたのみだ。」
グレーゴルは、またイラッとした。
自分はこれまでの人生、貧しい家族のため、身を粉にして働いた。会社にも休むことなく、毎日出勤して、優秀社員として選ばれたことだってある。その自分を、カミなどという出鱈目なこの男にひどく否定されたような気がしたのだ。
「あんた何なんだ!
カミって言ったり、そうじゃないとか何とか
誰なんだよ!
俺を惑わそうとしてる悪魔か!?」
とうとうグレーゴルは、激昂した。
「私は神であり、門であり、妖であり、魔であり、そしてお前自身である。」
自分自身…?
グレーゴルは考えた。
この男はグレーゴル自身であり、悪魔のようなものでもあり、セイレーンやグリフォンのような妖しい存在であり、何かを分け隔てる門でもあり、そして神でもある。
考えれば考えるほど、青年は混乱した。
彼はこの意味不明な空間の中で、特にすることもないので、とりあえず、先ほどカミなるものに言われた言葉を少し冷めつつある頭の中で反芻した。




