第二十三話 穿つ藍色[三国幸利]
俺は、お前を殺す。
呟いてみる。
しかし、現実感は既に無い。今の呟きは、本当に言葉になったのか。
いつも見ていた、いや行っていた行為そのものが悪夢だった。
真嗣は初めて、そして唐突に、今まで理不尽に奪い、背負ってきた命の重みと向き合った。
彼女もこれまで目的のために踏みにじってきた命と同じように踏みにじらなければいけない。
でなければ、自分は今まで何のために生きてきたのか分からなくなってしまう。
知らない振りをしてきた重さに潰される。
俺が、殺すのか。俺が、飛鳥を殺すのか。
何故?
答えは簡単だ。見られた、鬼籍院として仕事をする場を見られた。不用意、注意力散漫、気が抜けていた、慢心していた。
言い訳など幾らでも出てくる。
結局は周囲への注意を怠っていた不始末故の結果だ。
彼女が何故ここにいるのか、などと言う事実、それこそ幾らでもあるだろう。
ここはただの一般ビルの屋上なのだから。
無意識の内に歩みを進めた体と、飛鳥との間合いは最早幾許も無かった。
まだ、武器はしっかりと握れていない。
「死ね、」
飛鳥。
声を出したつもりだったが、出なかった。
震える手を宙に振り上げる。
その瞬間、本能が掌に凶器を掴ませる。
煌めいた。
だが、やはり握るべき手に力は入らなかった。
「あんたになんか殺されないわよ」
あの日彼にかけた言葉は強がりではなかった。
今は、強がりだ。唯の虚勢に過ぎない。
本当は殺される覚悟も、自分を殺す彼を見る覚悟も有りはしない。
けど、引けなかった。
きっとこの馬鹿を受け止められるのは自分しかいない。
私も馬鹿ね。
何の意地なんだか。
飛鳥は、一歩、前に踏み出した。
甲高くも乾燥した味気のない音がした。
手から滑り落ち、地に跳ねた後その刃は姿を消した。
振りおろそうとして、その手の刃が彼女を貫く事は無かった。
膝を折る。
飛鳥に支えられるようにして、抱きとめられる。
「お前は、お前は、俺が…」
「真嗣…」
「なんだぁ、その様は」
不意だった。気配などある筈も無い。
温もりは消え、どん、と言う衝撃が胸を衝く。
「が、はっ」
「そんなんだったら、血に狂ってた方がマシだったぜぇ」
胸を蹴りあげられ数メートル吹っ飛んでいた。
瞬時に態勢を整えて、今、自分が居た場所に視線を向ける。
体から力が抜け切り、倒れる飛鳥
と、その横に立つ長身痩躯の男が一人。
「何で殺さねぇ?こいつは目撃者だろう」
「飛鳥っ!」
自分と同じ体中から、血と死の匂いがする男。
間違いない、こいつは。
「答えはないみたいだな。つっても答えなんて最初から必要ねぇけどな」
真直ぐに自分を見据える視線と己の視線が交差したと真嗣は思った。
「『闇』直属の暗殺組織、鬼籍院、新筆頭『穿藍』三国幸利だ。てめぇは任務を一般人に見られた事、そして、その始末を誤った、だから、その地位は剥奪の上、処刑だ」
そう言われても特に感慨はなかった。
遅かれ早かれこうなる事は目に見えていた。責任を取らせる形での処刑と言う名の厄介払い。
最近の状況を鑑みれば、このタイミングはあまりにも当然だと言える。
そう。真嗣はこうなる事を既に知っていたのだ。
今日、この場で飛鳥を見た時に心のどこかでこうなると分かってしまった。
自分が飛鳥を殺せない事。それを理由に自分に刺客が向けられる事。その刺客が自分以外の鬼籍院の者である事。
特に三番目の事実は良く理解しているつもりだ。
何故なら、自分も全く同じ事を行った事があるから。
鬼籍院同士での殺し合い。その屍の上に鬼籍院としての地位があるのだ。
「心配するなよ、まだこの女は気絶してるだけだ」
それでも、抗おうとした。自分が歩んできた血の道に、背負ってきた物に。
無理だと分かっていたのにな。
自嘲が心に染み込んでいく。
飛鳥を巻き込んだのは俺か。大切な物から、平穏を奪ったのは、他の誰でもなく、この俺か。
彼女と出会ってしまった時に覚悟しなければいけなかった。
こうなる事を。
そして、瞬間、真嗣の思考はかき消された。
飛鳥の事も。
血が、体を駆け巡る。
「俺の前に」
陰惨な笑みと共に体が跳ねる。
「立つなっ!」
銀閃一線、だが、獲物は飛鳥を抱えて跳び退る。
ドアに飛鳥をもたれさせると振り返る。
「くく、いいねぇ。血に呑まれた状態でそれなんだから、『銀翼』として覚醒すれば…」
「おい」
真嗣は笑った。
「あ?」
「そんな余裕ぶっこいてる暇なんか、無いだろ?」
その時、幸利は気付いた。
短刀が自分目がけて飛んでくるのを。
舌打ちして、更に飛び退く。
コンクリートにその足跡を残すかの様に突き立つ刃達。
「へぇ。自ら触れなくても自在に飛ばせるってか、おもしれぇ」
「みたいだな。俺も、今気付いたよ」
酷薄な笑みがいかにも愉快と言った風に踊る。
「ぬかせ」
同じく笑みが幸利の顔を彩ったが、真嗣のそれとは幾分違った表情だった。
楽しくて、しょうがないと言った顔だ。
子供が興味深い玩具を与えられた時のような顔はまさしく、そんな顔だろう。
「おもしれぇええ。完全に血に溺れたなあ!」
互いに構える。
そのままの体勢で幸利が思い出したように口を開いた。
仕方なくと言った風に告げる。
「っと、殺り合う前に一ついいかぁ」
「何だ」
真嗣はぴくりと反応したが、幸利が身動ぎしなかったので、やはり静止したままだ。
「そこに転がってる女。実は餌なんだわ」
くっくっと喉を鳴らして笑う。
「お前を釣るための餌って訳なんだがよぉ。さて、どうしたもんか」
真嗣は未だ理性を失いきった訳では無い。
そこにはかつての榎本真嗣として確固たる人格を維持している。
例え、それが揺れる棒の上に爪先で立つような不安定さだとしても。
「何が、言いたい」
冷たく感情の籠らない一言を言い放った。
「もう、用済みだから、こちら側としてはいつ殺しても良い訳だが」
「黙れ」
踏み込み、コンマ数秒で間合いを零とする。
右手で切り上げるが。幸利は事も無げにかわしてみせる。
「おや、見誤っていたかぁ、完全に血に呑まれた訳じゃないみたいだな」
「女は関係無い。ただ、もう我慢出来ないだけだ」
「くくく、まぁ、中途半端だな。血に呑まれ切った訳でもなければ、『銀翼』として覚醒した訳でもない」
「かっ、は、ははっはは」
笑う。真嗣は笑う。飛鳥の姿に感慨を覚える事はない。そう思った。
気分が良い。
もう道は無い。歩いてきた道は何の意味も無く、そしてあっさりと崩れ去った。
過去が壊れたのなら、どうして、未来があろうか。
「うざい、来いよ。ご託なんてどうでもいいんだよ。俺を、殺してみろ」
「く、それもそうだな。俺も柄でもねぇ事をよぉ。まずは、今のお前を殺すとしようじゃねえの」
微妙にニュアンスの違う言葉を交わした後、同じ血の道に縛られた者達の舞台は始まった。