第十六話 意味 II [両莽士月]
「そういうとこは大事にする…ね」
光に別れを告げ、真嗣も立ち上がり、歩き出す。
「そういうとこ…か」
照りつける真夏の太陽。
背に浴び、影の落ちる地を一瞬だけ見つめる。
後、目を伏せた。
あぁ。
夏休みを迎えた日から十四日。二週間前の自室での士月とのやり取りを思い出す。
士月は柔らかく微笑み、次いで告げた。
「ただ狙われるのが嫌いなら、こちらも攻めれば良い」
不敵な言葉とは裏腹に、あくまで柔らかい物腰は崩さない。
「…士月?お前、何を」
「待っていても状況は変わらない。そして、攻撃を受けるだけ。つまらないだろう?」
怪訝な顔で先を促す。だが、真嗣には彼の意図が見えるような気はしていた。。
「誰が本当の敵なのか分からない。『闇』と言う強大な組織自体も現状では怪しくて信用できない」
『闇』から狙われているとしても不思議では無いのかもしれない。
これまで『闇』の為に仕事をしてきたが、正直な所、狙われる心当たりが無い訳じゃない。
互いに、相手を利用してきたという思いは確かにあるはずだ。
だから、士月の言わんとする事は、分かっている。だが。
すぐには返答を出来なかった。そうだ、真っ当な人間ならこの感情は「躊躇う」と評するのだろう。
「俺に、本部に…行けと?」
「僕が行ったところで牽制にすらなりはしない。僕は君よりも本部には顔を出すし、君ほど強くはないし」
怖れられてはいない、と続く表現は敢えて口にしなかった。
「君が行く。そして、僕はその裏で見える限りの本部の挙動を見極める。それで、何か掴めるのならやる価値はある」
一片の迷いもなく士月は言い切った。
「もし、君が『闇』に狙われているとしてもそう簡単に手は出してこないさ。上だってまさか君が直接来るとは予想出来ないだろうからね」
「まだ、俺が狙われていると決まった訳じゃ…」
「選ぶ言葉が違うよ、真嗣。まだ、君だけが、見えない何かに狙われていると決まった訳じゃない。僕も、いや、もしかすれば『闇』すら狙われているのかもしれないんだ」
現段階では所詮、可能性の話以上は出来ない事を真嗣も士月も理解している。
それでも一つだけ確かな事があった。
『銀翼』榎本真嗣は狙われている、と言う確固たる事実を突きつけたのは、両莽士月。
真嗣を真っ直ぐに見詰める彼の瞳には射抜くような真摯さ。
真嗣は耐えられない何かに見られ続けている気がして顔を逸らした。部屋の隅に蹲る闇を眺めながら、それでも冷静さを保った声で問いかける。
それは素直な疑問。いつも、彼は自分の味方だった。
親を、兄を失い、独りになった真嗣と出会ったその時から。
今まで、どんな時でも彼は味方で居続けた。
残酷な言葉で、彼の心を傷付ける事は幾らでもあった。
だが、紛れもなく何も変わらずに彼は榎本真嗣の味方で在り続けた。
「士月」
「何だい?」
「お前は…何故『闇』の人間なのに俺を助けてくれるんだ」
士月は一瞬呆気に取られたような表情を見せたが、すぐに笑った。
彼にしか出来ないような、そして、どこかお伽噺の中で出てくるようなくすっと言う表現があまりにも当てはまる笑み。
「真嗣」
何でも無いことのようにそれを告げる。
「君が今はまだ見えない何かに復讐を望むのならそれを」
鼓動が外界に聞こえるかの様に一拍、大きく跳ね上がる。
「そして、君があの日の真実を望むのなら、それを」
息が止まる。拳を握る。刻む命の音がまるで別の生物の物のように聞こえる。
闇に沈む、いつも自分を庇ってくれた体。死に凭れかかる、いつでも包みこんでくれた体。
最後に、生きろと、見せた事の無い涙と、強いままの笑顔を見せたその光景がフラッシュバックする。
真実、復讐、意味、過去、幸福、笑顔、未来、絶望。
脳裏を奔る、欠けて埋められない自分と言う意味不明な存在。
士月が一歩前に出る。
「思い出したかい?君の原点を」
更に一歩、真嗣との距離を縮める。
「君と言う人間が死に、今の君と言う存在が生まれた時を」
ゆっくりと、士月は真嗣に歩み寄る。
距離は既に零に等しい。
擦れ違い様、耳に唇を寄せ呟く。
「そう、例え何を望むとしても君は前に進むしかない」
そのまま通り過ぎて、また一定の距離を取り、体を反す。
「僕は君の味方だよ、真嗣」
装った冷静さは簡単に剥がれた。
「っ、何故だ、何故俺を助ける士月!」
振り返り、叫ぶ。心からの叫び、余裕など、冷静さなど一ミリもない感情の発露に士月はまた笑って答える。
「君の手が何かに届くのか」
真嗣に向かい手を伸ばし、その指の隙間から覗く。
独白なのか、それとも真嗣に向けた言葉なのかは不明。
だが、次の言葉ははっきりと真嗣に向けて紡がれた。
「君が、その果てに何を得るのか興味がある、それだけじゃ、ダメかい?」
まるで冷や水を全身に浴びたように真嗣の全てが止まる。
言葉は出ない。
思考出来ない。感覚が麻痺してしまった。
そう思ったが、口から呟きだけが零れ落ちた。
「俺は…」
弱々しい響きとは裏腹にその瞳には燃えるような感情。
「ごめん、真嗣。少し追い詰めすぎたかな」
心の底から申し訳なさそうに士月は謝罪を告げる。それでも、何処か軽い感じだけは拭えない。
だが、そんな言葉を掻き消すかの如く強い感情が迸る。
「俺は、その日の真実を知りたい。何が、俺から全てを奪い去ったのか」
「けど、今は君の力になれたようで」
「俺は止まれない。その為に生きてきた」
誰に向けた物でもなく、己自身に言い聞かせるようにはっきりと言い放つ。
「何よりだよ」
唇の端を吊り上げ、士月は満足げに微笑んだ。
止まれないんだったな。
真嗣は太陽の暑さに顔を顰める事で現実に引き戻され、再び歩き出した。
目指す場所は真嗣が所属する鬼籍院を暗殺機関として持つ組織、通称『闇』、その本部。
この希市の中心、数々の企業ビルがそびえ立つ中でも更に中心部。そこにそれは存在する。
大企業として名を馳せる、とある会社の本社。
そして今、真嗣の目の前にそれは存在していた。
ラフな格好で自動ドアをくぐる。視界に開ける広大で静かで、清潔感の溢れるエントランスホール。
人の数は不思議な程少ない。これだけ大きなビルの平日、昼過ぎの光景とは思い難い程だ。
大理石の床を真っ直ぐに進み、受付に座る女性にIDカードを渡す。互いに無言、無表情。
軽い会釈の後、受け取ったカードを無駄のない動作でコンピューターに識別させると、女性は今度はゆっくりと丁重にお辞儀をしてパソコンが吐き出したカードを返却する。
女性には目もくれず無造作に受け取ると真嗣は先に進んだ。
受付の少し奥、通常使用されるエレベーターから目立たない程度に距離を取った場所に、全く存在感の無い別のエレベーターの扉があった。
周りの壁に溶け込むかのような色彩でさり気無く存在する扉。
その目の前に行き着くと扉は音も立てずにすっと開いた。
全く躊躇なく乗り込み、開いた時と同じく音もなく扉は閉まる。
エントランスホールは変わらず静まり返ったままだった。
乗り込んだエレベーターはまるで動く気配を見せない。
だが、確実に上階へ彼を運んでいた。
やがて、味気のない到着音と共に扉が開かれる。
ある小部屋に直接繋がったエレベーターから降りると予め用意された服に着替える。それは、小さな部屋の隅に掛けられている。
彼らの正装とも言えるそれ。
死を運ぶ彼らにこそ相応しい黒いスーツ。
暗殺を行う時と同じ黒のスーツ。
違うのは、今日はきっちりと着こなしていると言う所だろう。
全身、黒。ネクタイも黒。カッターシャツの白色だけが不自然な程浮いていた。
着替え終わり、一度目を閉じる。
感慨が無いと言えば嘘になる。
ここに来たのは何時以来になるのか。
思い、目を開く。
そこへと続く扉に手をかけた。
何も見えないとしても、瞳に光が映らないとしても、今は、ただ前へ。