楽しかった思い出、それから……
ある日、僕がいつものように教室に行くと、あの子の机に沢山の紙が置いてあった。机の上にも、中からも悪口の書かれた趣味の悪い紙きれが覗いている。教室には他にも生徒がいるのにも関わらず、誰一人として彼女の机の状況に気付いていないかのようだ。くしゃくしゃにして捨ててやろうかとも思ったが、こんなところで力を使ったら大騒ぎになる。
それにまだ、消えるわけにはいかない。消えたくはない。
そして、教室にやってきた彼女も、何事も無いかのように椅子に座ると慣れた手つきで机の紙を整理し始めた。
『おはよう』
「うん、おはよう」
小さく返答したその言葉がなぜか少し、僕の心チクリと刺した。
『なんなの、これ?』
「たまに、あるんだよ」
『この紙は他の人にも視えているんだよね?』
この紙も彼女や僕にしか視えない物なのかもしれない。だから誰も気にしていないんだ。
「もちろん」
返ってきた言葉は理解不能なものだった。
『でも、誰も気づいてないみたい』
「気付かないふりをしてるんだよ」
『何で……?』
そこで、こちらを見てクスクスと笑っている女子の集団が目に入った。
嫌な笑いだと思った。知ってる笑いだ。この子が授業で失敗をしたときに教室を包む乾いた笑い。それと似ていた。どうやら人間が笑うのは楽しいときだけではないらしい。
『やったのは、彼女たちなのかい?』
「だと思う。私の味方をすると次は自分がターゲットになるかもしれない」
だからみんなが気付かないふりをしてるって言うのか?
『くだらない』
その文字を読んで、淡々と作業を続けていた手が止まる。
『言いたいことがあるならちゃんと口で言うべきだ。人間にはそれが出来るんだから』
「確かに、そうだね」
『それに、見て見ぬふりなんておかしい。なんで誰も止めようとしないんだ?』
「関わり合いになりたくないんだよ。みんな、私のことが嫌いだから」
彼女は俯くと、零す様に言った。
「私が、ブスで根暗で空気が読めないから」
その言葉は、僕の心を深く抉り取った。理由はわからない。僕のことを言われたわけでもないのに。
ただ、彼女が自分のことをそんな風に言うのが、どうしても嫌だった。
『誰がそんなこと言ってるの』
「みんな言ってる」
『そんなの嘘だ!』
急に語気を荒げたせいで驚かせてしまったかもしれない。僕の顔を見て、目をぱちくりさせている。
『君はブスなんかじゃないし、明るくて楽しいよ』
彼女は机の上の文字を目で追う。
『空気を読む必要なんかない。僕は君の作る空気が好きなんだ』
「…………」
『僕は……』
そこまで書いて、止めておけば良かったと思った。僕は君が好きだ、なんて言ったらきっと彼女を困らせてしまうから。
『……僕だけは、いつでも君の味方だから』
「ありがとう。私のために怒ってくれて。心配してくれて」
あの感情が『怒り』なのか。僕は今、彼女を『心配』しているのか。人間じゃない僕にも、人間の感情が当てはまるのかは分からないけれど。
彼女に出会ってから、僕は多くのことを知った。
『おいしそうなお弁当だね』
昼休み。
自席で一人昼食を食べる少女にそう話しかける。今まで休み時間は友達と過ごしているものだと思っていたから、授業中以外には極力違う所に行くようにしていたんだけど、彼女は休み時間も一人だったんだ。
僕は自分の事ばかりで、彼女の事には全然気づいてなかった。
「ありがと。自分で作ったんだよ?」
いつものように君は笑う。それだけで息が苦しくなる。
『僕も食べてみたかったな』
その台詞を読んで、彼女は少し悲しそうな顔をする。
『ああ…ごめん、困らせるつもりじゃ無かったんだ』
「ううん。私こそごめんね」
首を横に振ってから「良いことを思いついた」とでもいう風に声を上げる。
「あ、そうだ。今日、一緒に帰らない?」
そんな彼女の申し出を断る理由は、当然、僕には無かった。
*
『でもどうして、急に一緒に帰ろうなんて?』
人気のない通学路、彼女の手に持ったスマートフォンの画面上に浮かび上がった文字に、
「嫌だった?」
『そ、そんな事、全然ないよ!』
僕の慌てる様子を見て彼女はコロコロと笑った。
「ごめんごめん。冗談だよ」
目の端に浮かぶ涙を拭いながら、謝罪すると続けて「本当はね」と言った。
「あなたに色んな事を経験してほしくって」
『色んな事?』
「私があなたにしてあげられることはあんまりないけどさ。こうやって一緒に帰ったり、遊んだりすることはできるでしょ?」
『ひょっとして、昼ご飯の時の事、気にしてるの?』
「それもあるにはあるけど、それだけじゃないんだよ?」
その意味が分からず聞き返すとこんな言葉が返ってくる。
「今まで、自分を視える人がいなくて、外から眺めてるだけだったでしょ?せっかく私みたいのに会えたんだから、たくさんの事知って欲しいの」
『ありがとう』
「お礼を言うのは私の方。いっぱい元気づけてもらったからね」
その日から僕は、彼女のいる学校に通うようになった。あの子の心の支えになれるのが嬉しかった。
*
「毎日私のところに来てくれてありがとう」
放課後、一人の教室で押し付けられた掃除をこなしながら少女は言った。
『僕は、僕が来たいから来てるだけだよ』
彼女が運ぶ机に文字を映して答える。ふと、不安になって尋ねた。
『ひょっとして、迷惑かな?』
「ううん!そんなことないよ。すごく嬉しいよ?」
答えてから、でも、と言葉を続ける。
「他に行きたいところもあるんじゃないの?」
『無いよ。もう、一人で街を歩くのには飽き飽きなんだ』
「そうなんだ」
『街には面白いものなんかないじゃないか。誰も彼もどうでもいいことで争って、どうしようもないことで泣いて、楽しくもないのに笑ってる』
「そう……だよね」
彼女の表情が沈んだのを見て、僕は慌てた。気に障ることを言ったのかもしれない。傷つけてしまったかもしれない。必死に言葉を探して、取り繕うように書きなぐる。
『別に、君の生きる世界を馬鹿にしたわけじゃないんだ』
そんな様子を見て、また、クスリと笑った。
「わかってるよ。ただ、あなたにとってはこの世界の全てが退屈なのかと思って」
彼女は、僕のことを想ってあんな表情をしてくれたのか。そう思うと、無性に嬉しくなった。
頭を左右に振って答える。
『退屈なんかじゃないよ。今は君がいてくれるから。君となら、いつだって、どこに居たって楽しいよ』
「ふふ、ありがと」
お世辞を言ったと思われたのかもしれない。
でも、君が笑ってくれるなら何だって構わないさ。
*
彼女と遊園地に行った。
「どうしたの、その恰好?」
自動販売機で飲み物を買いながら、そう聞いた。
いつもは制服姿なのに、今日はラフな服装だからだろう。自販機の側面に文字を走らせて答える。
『遊園地に制服もおかしいでしょ?』
「着替えられたんだね」
『見た目は基本的に自由に変えられるんだ。小物も出せるよ』
右手に帽子を出現させて、被ってみせる。
僕のキメ顔が面白かったのか、楽しそうに笑い声をあげた。嬉しくなって、声は出ないけど、僕も一緒になって笑った。
「なんでいつも制服なの?」
『初めてあった時がそうだったから、なんとなく』
「初めの時はどうして?あれのせいで、違うクラスの人が忘れ物でもしたのかと思ったよ」
『ちょっと、学生気分を味わいたくてさ』
そんなことを言うと、可笑しそうに笑った。
不満そうな僕の表情を見て、余計に笑ってから「ごめんごめん」と謝る。
「もっと学生っぽいこと、たくさんしようねっ」
ズルいよ。そんな顔でそんなこと言われたら、何も言い返せないじゃないか。
「それにしても、その体意外と便利かもね。入場料いらないし」
『休みの日には映画館に無料で居座ったりしてるよ』
冗談を言い合いながらアトラクションを回った。
「私ね。友達が出来そうなんだ」
歩きながら、彼女がそんなことを口にする。手にはイヤホンを刺したスマホ。傍から見れば通話をしているようにでも見えるんだろうか。
『そうなんだ』
「言いたいことがあるなら言うべきだって、言ったよね。ずっとその言葉を考えてたんだ」
ぽつぽつと言葉を並べる。
「それは私の方も同じだったんだよね?嫌ならそう言うべきだった」
『君は悪くなんかないじゃないか』
「ううん。いじめられてるのは私のせいじゃないかもしれないけど、現状を変えられない原因は私にもあったんだよ」
僕が返す台詞を見つけられないでいると、彼女が言葉を次ぐ。
「思ったことを素直に口に出すあなたを見てたら何だか勇気を貰えたの。それで私、正直に自分の気持ちを伝えたの。そしたら、本当は向こうも悪いと思ってたって、謝ってくれて」
彼女が言うには、いじめはやりたくてやっている奴ばかりでもないらしい。それを先導するリーダーのようなものがいるんだとか。
『なら、いじめはもう無くなるんだね?』
「そう簡単にはいかないよ。でも、段々といい方向には向かっていくと思うんだ」
隣を歩いていた少女はトン、トン、と前に駆け出ると振り返ってとびっきりの笑顔を僕に向けた。
「あなたのおかげだよ」
その笑顔に、僕の心はまた撃ち抜かれてしまった。
「ほら、次はあれ乗ろうよ!」
呆けていると、彼女はアトラクションを指さしてこちらに手を伸ばした。
彼女に触れることはできないけれど、別に悲しくは無かった。
同じ時間を共有しているというだけで、あの子の笑顔が僕に向けられているというだけで、とても満たされていたんだ。
そして、彼女の言葉通り、物事はいい方向に転がり始めたらしい。
時が流れて、少女を取り巻いていた嫌な雰囲気は徐々に薄れていき、友達と呼べる人たちも増えて行った。一人でいる時間も少なくなった。本当に良かったと思う。
……心からそう思っているのに、胸の奥がざわつくのは、どうしてなのかな……?
そんなある日。いつも通りのある日。
いつも通り、僕は机の上に言葉を記す。
『おはよう』
いつもと何一つ変わらない。
そのはずなのに。
彼女は、不思議そうにあたりを見回すと、一言呟いた。
「……あれ、今日は来てないのかな?」
ピキリ、と。
世界から隔絶される音がした。




