雪明かりに花咲く(2)
ファリス家の家紋が描かれた馬車が、アーランド家の屋敷に向かっていた。
昨日から降り続いた雪は止み、空は晴れていたが、ぬかるみに車輪を取られないよう馬車はゆっくり進む。心地良い揺れに、カインは少しまどろんでいたらしく、気が付けばアーランド家の屋敷の近くまで来ていた。
花嫁を迎える準備、結婚式の様々な手配に追われ、ここしばらく忙しかったためだろう。久しぶりにゆっくりする時間が取れたと考えると、アーランド領までの遠い道のりも悪くなかった。
見慣れたのどかな田園風景を眺めながら、カインはここに初めて来た時のことを思い出していた。
◇
ファリス伯爵家の一人息子であるカインは、相応しい女性を妻に迎える必要があった。
アーランド伯爵の令嬢は、父の友人の娘であり、家柄や条件も申し分ない。彼女との婚約が決まった時、貴族の男子として、カインは特段驚きもせず、それを受け入れた。
「ロザリー嬢はまだ幼いから、結婚は七、八年は先になるだろうがな」
父から、ロザリーは十歳の少女だと聞いたが、それにもカインは特段何も感じなかった。
今では自由恋愛の風潮も強くなったが、それでも貴族同士の結婚は家の都合が優先されるのが常で、幼い時に婚約者が決まることも、結婚相手との年が離れていることもそう珍しくない。
カイン自身もまだ若いし、結婚するのは、自分が一人前になるその位でむしろちょうどいい、と思ったくらいだった。
父に連れられ、アーランド家を訪ねた。そこで対面した婚約者の少女は、カインを見て一瞬ぽかんとした顔をした後、緊張した様子でドレスの裾をつまんで挨拶をした。
「お会いできて、嬉しいです。カイン様」
その後、しばらく両家の当主同士が話す間、亜麻色の髪の、幼い顔立ちの少女は、緊張しているのか、顔を真っ赤にして俯いたままだった。
「まあ、二人で庭でも散歩したらどうかな」
「では、そうさせていただきます。先程遠くから見ましたが、さすがは花の領主アーランド家の庭です」
アーランド伯爵の勧めに、カインは素直に従った。
父達は、政治や商売の話をしている間、子供達が退屈すると気を利かせたのだろう。カインはロザリーの案内で庭に出た。
……さて、どうしようか。
本来なら婚約者のロザリーと和やかに談笑などすべきところだろうが、生憎、普段からカインの周りには大人ばかりだったので、年下の、しかも女の子の、子供と何を話せばいいかが分からない。
ロザリーの方は明らかに緊張した様子でもじもじするばかりだった。無難な話題を探し、カインは庭の美しさを褒めた。
「美しい庭だ。まだ春も早いのに、こんなにもたくさん花が咲いていて」
すると、ロザリーはぱっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます。今はプリムラがきれいに咲きました」
「プリムラ?」
ロザリーは軽やかに石畳を歩き、可愛らしい小さな花を示した。
「あちらも、こちらも、全部そうですわ」
「随分、たくさんの色があるんだな」
カインは特段花に詳しくないが、ロザリーが示したプリムラという花は、ずいぶんたくさんの色や形があるように見えた。その感想を素直に口にしたところ、ロザリーは、嬉しくてたまらないというように、顔をぱっと輝かせた。
「はい!」
それから、ロザリーは庭を回って、咲く花のひとつひとつの、名前を教えてくれた。カインはそれに相槌を打つしかできなかったし、正直に言えば、それらの名前をすべて覚えてはいられなかった。
ただ、本当に花が好きなのだろう、ロザリーが終始楽しそうに笑っていたのが印象に残った。
帰りの馬車で、カインは父に尋ねられた。
「お前の目から見てどうかな、ロザリー嬢は」
カインは、ロザリーのあどけない笑顔を思い浮かべた。
「……愛らしいと思いますが」
例えば、妹がいたらこんな感じかもしれないな、と思いながら、カインは花畑に目をやった。さっきロザリーに教わった花――プリムラの花畑が、遠くまで続いていた。
◇
屋敷に到着したカインを出迎えたのは、ロザリーと、ロザリーの兄でありアーランド家の長男のエドガー、その妻のフローラだった。
「すまないね、父と母はどうしても王都で外せない用があって、出かけてしまったんだ」
「いや、こちらも到着が遅れてしまったから」
「雪で大回りしたんだろう? 今年は例年より寒いみたいだから。代わりに僕が話を聞くよ」
軽く世間話をした後、カインは結婚式の準備や、式の工程など、細かい打ち合わせに入る。
招待客の席次。振る舞う料理。テーブルの飾り。カインの説明に、エドガーとフローラは素敵な式になりそうだと笑顔でそれを聞いていた。
だが――
「……ロザリー?」
「えっ?」
名前を呼ばれ、ロザリーははっとして顔を挙げた。
「何か、気になることが?」
「な、何もございません」
ロザリーは否定したが、カインは、ロザリーがどこか浮かない顔をしているように見えた。
まあ、カインはどちらかといえば、女性の感情の機微に疎いのだが、それでもロザリーに関してだけなら、子供の頃から見ているので、さすがに表情が読める自負はあった。
だが、当のロザリー自身が否定してしまったので、カインもそれ以上は聞かなかった。
その時、フローラが、式について書かれた羊皮紙を手に取り、声をかけた。
「カイン様、詳しい式次第については、こちらにまとめてくださっているのですよね?」
「ええ」
「では、義父も不在ですし、後は私達の方で、よく確認しておきますわ。遠いところをお疲れでしょう。どうぞゆっくりなさってください。……ねえ、あなた」
「うん? そうだね。じゃあ、僕はちょっと外すよ。フローラも手伝ってくれるかい」
「はい」
そう言って、エドガーとフローラはささっと席を外した。客であるはずのカインを置いて、給仕まで部屋を出ていき、応接間には、ロザリーとカインが二人で残された。カインは紅茶に手をつけようとして、カップが空になっていることに気が付く。
「あっ、私が淹れます」
「ああ」
フローラの目くばせで給仕まで出ていったということは、この後に他に客を迎える用事でもあるのだろうか、とカインが考えている横で、ロザリーは丁寧に紅茶を注いだ。
カインが紅茶の香りを楽しんでいると、ロザリーが緊張した様子で口を開いた。
「あ、あの、カイン様」
「どうした」
「その……」
言いにくいことなのか、ロザリーは桜色の唇をぎゅっと結んでしまっていた。先ほどの様子を思い出し、カインはカップを置き、テーブルを挟んで真正面からロザリーの顔を見た。
「何か気になることがあれば言ってくれ。結婚や式に関することであれば尚更だ」
「あ……」
ロザリーは顔を横に向けて、カインから目を逸らした。この反応は、どうやら図星であるらしかった。
そのままカインが黙ってロザリーの言葉を待っていると、ロザリーは大変言いにくいことを絞り出すように、真っ赤になりながら言葉を零した。
「その、……あの、結婚……を、つまり……」
「……。」
「その……誓いが、ええと……私……」
ごにょごにょと、何を言っているのか聞こえなかった。
だが、膝の上で握られた手を見るに、どうやら、結婚に対して何やら不安を覚えているらしい。
「何も心配することなどない。最初は慣れないこともあるかもしれないが、父も母もロザリーを歓迎している。母などもうロザリーを自分の娘だと思っているくらいだ」
それは事実である。母は娘が欲しかったらしいのだが、男の子しか生まれなかったということで、ロザリーについては、自分の娘のように――ひょっとすれば実の子のカイン以上にだ――可愛がっている。嫁姑の確執など微塵も心配する要素はないし、何かあれば皆助けてくれるだろう。
「……はい、あの……」
「何か問題があるのなら、言って欲しいのだが」
カインは心の底からそう言ったが、ロザリーは、何もありません、と俯くばかりだった。




