インビジブル
こずえはそう言うと、俺の手をとって、果物ナイフの柄を握らせた。その時触れた手は氷のように冷たく、生きている人間とは到底思えないものだった。
「どうしたの?私と付き合いたいんでしょ?」
こずえが一体何を考えているのか、どんな精神状態なのかさっぱり理解ができなかった。
くりくりとした大きな猫眼でじっと俺を見つめている。手のひらの中が尋常じゃないくらいに汗ばみ、心臓の鼓動が早くなるのがわかった。
「できるわけないだろ、そんなこと」
俺は握っていたナイフを投げ捨てた。
「本来、誰かと誰かが好きになって付き合うのってさ、お互いを傷付け合うことだと思うの。傷つけられたり、もしかしたら傷つけたり、そういう覚悟がなきゃ恋愛なんてする資格ない。そう思わない?」
「俺はただ・・・」
「いいんだよ別に、私はなんの期待もしないの、周りの人のことも、この先の人生のことも、ただ今日は退屈だったから遊びでこういうことしただけ、私、帰るね」
こずえが去っていくのをただ見てることしかできなかった。なにか大切なものを失ったんじゃないかという喪失感と、軽はずみな発言をした自己嫌悪で胸がいっぱいになり、ただ、苦しかった。
月の明かりに照らされ、真っ直ぐに伸びた自分の影が、どこまでも続いているような、終わりのない絶望感にさいなまれ、俺は、誰もいない公園をあとにした。
その夜は眠ることができなかった。