終章
翌朝、私は外にいる望月さんの姿を初めて見た。
昨日の出来事が頭から離れず、結局一睡もできないまま早朝5時頃に起き出した私は、外の空気を吸おうとベランダからの景色を眺めていた。そこに、ボストンバッグを持ってハイツに向かってくる隣人を見つけたのである。そこで見た望月さんは、長かった髪をばっさりと切り、無精髭もなく、清潔感溢れる姿をしていた。
「望月さん、おはようございます」
「どうも」
「今お帰りなんですか?」
「…まあ」
「田中さんから聞いたのですが、毎年年末には旅行に行かれるそうですね」
「別に、旅行なんてもんじゃない。ただの帰省ですよ」
「あら、そうだったんですか」
私は、初めて望月さんと会話らしい会話をかわすことができたことに小さな喜びを感じた。そこで、気がつけば10分ばかり、望月さんに立ち話を強いてしまっていた。迷惑そうにしていたが私の話に付き合ってくれるだけ、望月さんは意外に優しい人なのかもしれない。
「あ、そうそう。望月さん、しはらくは騒がしくなるかもしれませんよ」
「…どういうことです?」
「たぶん、警察から事情聴取を受けることになると思いますから。実は、昨日事件があって…」
私は、望月さんに昨日ハイツで起きたことを語って聞かせた。…息子のことだけは省きながら。
「望月さん、相当ショックを受けていたみたいよ」
私は、起きてきた夫に朝食の準備をしながら話した。
「それはそうだろう。隣人がそんなことになったら」
「私はなんだか意外だわ。望月さんって、もっと淡々とした人ってイメージがあったから。あ、それからね、少しだけ望月さんについて知ることができたのよ。望月さんって、実は小説家なんですって」
「へえ」
「売れない小説家だって言ってたけど」
「それにしては、誰か訪ねて来る様子もないな。原稿とかはどうしているんだ」
「最近はね、インターネットや電話でのやりとりだけでなんとかなるらしいのよ」
「しかし、売れていないならたいへんだな。他に仕事はしていないのかな」
「していないそうよ。なんたって、望月さんのお父さんは大きな会社を経営する社長さんなんですもの」
「へえ! だから引きこもっていられるのか。こう言ってはなんだが、いい身分だなあ」
「望月さんはお父さんからの金銭的援助のおかげで作家活動を続けていられるのは確かだけど、それをよしとしているわけではないのよ。望月さんは売れる小説を書いて、お父さんに認めて欲しいのだと思うわ。年末には帰省しているそうなのだけど、その時に細かく活動の報告をしてくるそうなの」
「その話を聞いていると、真面目で義理堅い人のようだな、望月さんって」
「私もそう思うわ。やっぱり、話してみないと分からないものよね」
望月さんの話がひと段落したので、渇いた喉を潤そうと味噌汁を口に運んだ。
「なあ、深雪」
呼ばれて、私は器から口を離して夫に目を向ける。
「君は大丈夫なのか?」
夫の言おうとしていることは分かる。だから、私は笑顔で答えた。
「もう平気よ」
だが、夫の目からは疑いの色がなかなか抜けないようだ。
「ねえ…それより、山村さんのパーカーから出てきたクレヨンだけど」
「ああ…」
「やっぱり、あの人が陽ちゃんを…」
「今、そのことについても警察が捜査してくれている。なにか分かれば、瀬戸さんが知らせてくれるだろう」
「そうよね」
そして、その後は、久方ぶりになる2人きりのひと時を噛みしめた。
朝食の後片付けをしている時、チャイムが鳴った。
夫はコンビニに出かけている。私は洗い物の手を止めてすぐに玄関に向かった。
「どちらさまですか?」
声をかけると、
「私だよ」
との返答があった。私は田中さんの声に安心すると、鍵を開けて迎え入れる。
「おはようございます」
「おはよう」
「どうされたんですか?」
「いやね…森川さんがどうしてるかなと思ったものだからねえ」
田中さんは私のことを心配してくれていたらしい。そのことが純粋に嬉しかった。私は、田中さんをリビングに招き入れる。
「田中さん、今度は我が家でお茶していきませんか?」
「そうかい。なら、お邪魔させてもらおうかね」
私は田中さんに椅子をすすめると、お湯を沸かしてお茶の準備を急ぐ。そして、買ってあった饅頭を皿に移すと、それを手にリビングに向かった。
「こんなものしかないんですが、よろしければどうそ」
「いいよいいよ、なんにも気を使わないでおくれ。突然来て悪かったね」
「いいえ、そんなことありませんよ」
「森川さん、今日はね、ちょっと聞いてもらいたい話があったんだよ」
神妙な顔持ちの田中さんを前に、これは腰を落ち着けて聞くべきかなと思った私は、
「わかりました。ちょっと待ってくださいね」
とひとこと断りを入れると、キッチンに向かった。ちょうど沸いたお湯を茶葉の入った急須に注ぐ。急須と湯飲みを2つお盆にのせると、田中さんのもとへと戻った。
「どうぞ」
「ありがとう」
淹れたてのお茶を口にした田中さんは、少し渋い顔をした。
「これは…熱湯を使ったね?」
「え、ええ」
「駄目だよ。紅茶にはそれでいいかもしれないがね、煎茶には駄目だ。茶葉が死んでしまう」
「そうなんですか?」
「煎茶っていうのはね、ぬるいくらいがちょうどいいんだよ。それが一番、香りも旨みも出るんだから」
「すみません…」
謝った私に、田中さんははっとして、
「あらやだ!」
と、大げさに申し訳なさそうなそぶりを見せる。
「ごめんなさいね、私ったら。別に説教するために来たんじゃないっていうのに」
「いえ…美味しいお茶の淹れ方がわかってよかったです。田中さん、ありがとうございます」
そう言って私が笑うと、田中さんも笑った。
「それで、聞いてもらいたいことっていうのはなんなんですか?」
尋ねると、田中さんはことりと湯飲みを置く。そして、短い息を吐くと重い口を開いた。
「私のことなんだけどね」
「田中さんのこと?」
「前に私の部屋に来ただろう? なんか変に思わなかったかい?」
「ええ、まあ」
「なにが変だった?」
「写真、ですね。なんであんなにぼろぼろなのかなって思いました」
「そうだよねえ」
田中さんはなにかを思い出すように遠い目をした。
「実はね、あの孫の写真なんだけど、あれは10年前のものなんだよ」
「え…それじゃ、お孫さんは今は13歳ってことですか」
「…生きていればね」
私は湯飲みを持ったまま固まった。なにかあるとは思ったが、その答えは想像していなかった。
「森川さん、あんたと同じだよ」
「え?」
「孫はね、殺されたんだ」
「そんな…」
「そして、息子夫婦は刑務所に入ったんだよ」
「…どうして」
「虐待さ。それで、孫は死んだ」
なんて声をかけるべきなのだろう。まるで言葉が出てこなかった。
「なんで気づいてやれなかったかねえ。気づいて、息子夫婦を止めることができていたらねえ」
「田中さん…」
「いい夫婦だったんだよ、本当に。息子は優しいし、嫁も人あたりがよくてね。なのに、本当、なんでなんだろうねえ」
「どうして、それを私に?」
「こんな話、誰にもできないって思ってたんだけどね。なんか、あんたになら話してもいいというか、聞いてもらいたくなったんだよ」
「息子さんたち、いつ出てこられるんですか?」
「今年だよ」
「そうですか。…少し時間はかかるかもしれないけど、また明るい家庭を築けるようになったらいいですね」
「……」
「私、息子さんたちが根っからの悪人とは思いません。田中さんの子ですし、田中さんも息子さんとお嫁さんのことを良く思っていたのでしょう? たぶん、少し間違えてしまったんですよ。ただ、それだけだったんですよ、きっと」
「そうだね。…あんたがたいへんな時に、私ったらなにを話してるんだろうね。本当はあんたを勇気づけてやるために来たっていうのに」
私は思わず微笑んだ。
「私はいつも田中さんに勇気づけてもらってましたよ。お互い様です」
そう言うと、田中さんはどこか申し訳なさそうに笑った。その時、再びチャイムが鳴る。扉を開けると、瀬戸さんがそこに立っていた。
「森川さん、おはようございます」
「おはようございます」
奥からも「おはよう」という声が上がり、
「ああ、田中さんもいらしてたんですね」
と瀬戸さんが微笑む。だが、その笑顔もすぐに引っ込んだ。
「あの、昨日のことでお伺いしたのですが、ご主人は…?」
「あ、今は出かけているんです」
「そうでしたか」
「瀬戸さん、私に話してはもらえませんか? 私、もう大丈夫ですから」
瀬戸さんは少しばかり思案していたが、覚悟を決めたようで話し出した。
「あなたの息子さんを殺害したのは、山村で間違いありません」
なんとなく気づいてはいたが、その言葉は想像以上に重く私にのしかかる。
「山村は、病気の母を抱え金に困っていました。また、詐欺にあったことも相まって借金を背負ってしまった。そこで、数年前から繰り返し空き巣に入っていたようです。そして、5ヶ月前、森川さんのアパートにも…」
「近くのコンビニに出かけている、ほんの20分の間のことだったんです」
「森川さん…」
「昨日、陽ちゃんは死んだんだって夫にはっきりと言われて…ようやく思い出したんです。あの時、私はしっかり鍵をかけて出ました。それなのに、帰ったらなぜか鍵が開いていたんです。そして…」
「山村は、空き巣に入るうちに鍵開けを覚えたようですね」
「203号室の死体って、それも山村さんと関係があるんですか?」
「ええ。203号室で見つかった死体は、山村の母親のものでした。死因は病気によるものですが、1ヶ月も前に亡くなっていたようです。山村は、母親の年金を不正受給しようとしていました」
「そんな…」
「そして、森川さんが夜中に聞いた物音ですが、あれも山村の仕業です。一度目は死体を隠すために、二度目は様子をみるために。そして昨日、いよいよ隠し通せないと思った山村が遺体遺棄を計画して部屋に赴いたところ、森川さんと鉢合わせしたようです」
「息子さんが知らせたんだねえ」
いつの間にか私の隣に来て話を聞いていた田中さんが口を挟んだ。
「山村さんのパーカーから見つかったっていう、クレヨンのことだよ」
と田中さんが続けた。
「山村のパーカーのポケットから見つかったクレヨンと思われるものの欠片とラベルは、息子さんを殺害した時になんらかの拍子に入ってしまったというのが警察の見解です。昨日着ていたパーカーは、5ヶ月前の犯行時に着ていたものだったのでしょう。ですが、欠片やラベルだけがポケットに入ってしまうというのは考えられません。クレヨン自体はどこへ行ってしまったのかと疑問を持った刑事もいましたが、どこかで知らずに落としたのだろうという見方が強いのが現状です。欠片でも出た時点で、山村を容疑者として捜査できますから」
「息子です」
「え?」
「息子は、ずっとなにかを探していました。それは、お気に入りのクレヨンを探していたのだわ。あの時、山村さんに返してって言ったんです。そのあと、息子の手の中にはクレヨンが…」
そこまで言うと、
「森川さん…」
と、田中さんが優しく私の肩に手をかけた。また、瀬戸さんはどこか哀れんだような目を私に向けている。
「今のところ、わかっているのはそれくらいです。またなにかわかったら連絡します」
そう言って出て行こうとする瀬戸さんに、私は声をかけた。
「あの、山村さんはどうしていますか?」
「山村は一命をとりとめ、療養中です。意識も取り戻し、質問に答えることもできるようですが、なぜか老婦人を見るとひどく怯え、不安定な状態になるようです」
瀬戸さんが出て行ったあと、私は田中さんに尋ねた。
「田中さん、昨日、203号室でなにを見たんですか?」
「言っただろう。死体があったんだよ。腐乱したね。今の瀬戸さんの話じゃあ、山村さんのお母さんだったみたいだねえ」
「山村さん、あの時なにかに怯えたように部屋を出て行ったんです。そして、転落した…。私は、息子を見てパニックを起こしたのだと思ったのですが、みなさんには見えていなかったんですよね。今、山村さんは老婦人に怯えながら暮らしているようですし」
私の話を聞き、田中さんは少し思案する。そして、
「死体はね、寝袋に入れられていたんだよ。その袋の口が開いていて、ちょうど片目がね、こちら側に向いていたんだ。ただの閉め忘れか、それとも誰かが故意に開けたのか…」
と言った。
私の脳裏に息子の姿が浮かぶ。
なぜ203号室の扉の鍵が開いていたのか。
また、なぜその部屋の洋室から息子が出てきたのか。
「森川さん」
田中さんが改まった口調で言う。
「忘れろとは言わない。けどね、一緒に生きたいなんて思ったら駄目だよ。あんたの息子は死んだんだ。残念だけどね」
「……」
「生きている人間と死んだ人間とが一緒にいるのは、どちらも不幸になる道だよ」
「田中さんは、お孫さんのことを忘れられましたか?」
「忘れてたら、あんな写真なんか飾ってないさ。ただ、孫が死んだことは受け入れてるよ。生きている側が受け入れてやらないとね、死んだ人間は自分が死んだことに気づけないものなんだ。お互いに受け入れることができて、初めてそれぞれの道を歩き出すことができる」
それを神妙な面持ちで聞いていると、田中さんは安心させるように笑った。
「まあ、でも、あんたの息子はお気に入りのクレヨンをどこにやったか、それが気になってただけかもしれないよね。それが見つかったんだから、晴れて天国に行けたんじゃないのかねえ。探し物が見つかったって、笑ってたんだろう?」
「…ええ」
田中さんは「よかったねえ」と笑うが、私は到底笑顔にはなれなかった。なぜなら、息子は今もなお生きているのだから。
息子は、自分が死んでいることに気づけないまま、5ヶ月もの間を生きてきてしまった。私が、息子の死を受け入れられなかったばかりに。
…息子があの世に行くタイミングを、すっかり逃してしまったのだ。
息子の探し物は見つかった。だが、これから先、もっと大きなものを探さなければならない。自分が本当にいるべき場所はどこなのかを…。私は、愛する息子をそこに向かわせてやることがはたしてできるのだろうか。
右手の中の空色のクレヨンを嬉しそうに見つめながら私の手を握る息子…。その姿に目を向けながら、私は今後のことを考えていた。