第4章
「相変わらず閉めきっているのね」
パートから帰ってきた私は自転車を片付けると、102号室のベランダに目を向けた。
このハイツに越してきて1ヶ月半が経つが、いまだに一度として102号室のカーテンが開けられているのを見たことがない。それどころか、姿を見たのは挨拶の時の一度きりで、あの時には名乗ってさえもらえなかった。102号室の男性が望月さんというらしいことを知ったのは、田中さんからの情報である。外出している姿を見かけたことがないのだが、夜中には出かけているらしい。コンビニから食料を調達してきているのだと田中さんが教えてくれた。
「でも、年中閉じこもっているなんて、お仕事はどうしているのかしら」
おそらく無職なのだろうと結論づける。では、生活費は誰が…?
年中閉じこもっている望月さんだが、年末の2日間は必ずどこかへ出かけるらしい。その時にお金を無心してきているのだろうか。そう言えば、今年もあと10日ほどで終わる。
そこまで考えて息子を見ると、相変わらずの半袖短パン姿でこちらを見上げていた。
「さあ、早くお部屋に入りましょう」
まったく寒がってはなさそうだが、私はいそいそと鍵を開けると、息子の手を引いて家の中に入った。
今年もあと1日で終わろうという晦日の真夜中のことだ。
私は、またも物音に目を覚ました。
がた…みしっ…ごとっ…。
その音は、確かにこの真上から聞こえていた。1ヶ月ほど前のあの晩と同じように。
「陽ちゃんも聞こえたのね?」
息子もあの音で起きてしまったのだろう。私の傍らで天井を見上げていた。私は息子の体をぎゅっと抱き寄せる。音は数分続いたかと思えば、その後ぴたりとやんだ。
「お父さんはよく寝てるわね」
眠り続ける夫を横目に、私は起きてしまった息子を寝かしつけることに専念する。幸いにも息子は寝起きも寝つきもいい。ただ、困ったのは、私自身が眠れなくなってしまったことだ。
やはり、間違いない。
真上の部屋にはなにかがいる…。
その日の夕方、パートから帰った私は、荷物を置くとすぐに203号室に向かった。本当に空室なのか、また、空室であるならば音の正体はなんなのか、それを確かめずにはいられなかったのだ。
部屋に置いてきても良かったのだが、息子をひとり残してくることに不安を覚えた私は、息子の手を握りしめて慎重に階段をのぼった。
「あ…」
私は息をのんだ。
「山村さん?」
予想していなかった展開に間の抜けた声が上がる。その声を受けて、山村さんがこちらに振り返った。
「やあ、森川さん。こんにちは」
いつもどおりに挨拶をしてくれるが、その声からはどこか動揺が感じられる。2階にいる山村さんに私が驚いたのと同じように、いるはずのない私たちが2階にのぼって来たことに山村さんも驚いたのだろう。
「今日も早くお仕事が終わったんですね」
挨拶がてらそう尋ねると、
「大晦日なので、今日から冬休みなんですよ」
との答えが返ってきた。見れば、山村さんの服装はパーカーにチノパンというカジュアルなものだった。
「あら、そうなんですか? いいですね。うちの主人は明日からお休みなんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。ところで、山村さんは2階になにかご用でも?」
「え、ええ、まあ」
「もしかして、そちらにも聞こえていたのかしら。夜中に音がしましたでしょう?」
「え、ああ、そうでしたか? 私は気づきませんでしたね。そんなにうるさい音でしたか?」
「うるさいというわけではありませんが、がたっとかごとって、確かに音が聞こえたんです」
「気のせいなのでは?」
「いえ、これで2度目なんです。1ヶ月前にも同じような音を聞いたもので、確かめてみようと思いまして」
「それは…。ですが、確かめようにも鍵がかかっていて入れませんよ。もしかして、管理人さんが様子を見に来たのではないですかね」
「まさか。そんな夜中になんて、考えられないですわ」
「しかし、鍵がかかっているのではどうしようもないでしょう」
「そうですね…」
私はそう言いながら、念のためにと思い203号室のドアノブに手をかけた。すると…。
「あら、開いてるわ」
「え…っ?」
山村さんはひどく動揺した声を上げたが、私は構うことなく203号室の扉を開けた。
「なにか、臭いますね」
そこはしばらく入居者が不在だったのか、部屋中に淀んだ空気が立ち込めていた。だが、私が臭うと言ったのはそのためではない。なにか、鼻につく、腐ったような臭いも一緒に充満していたのだ。
玄関で靴を脱ぎ、私は部屋の中に入ってみることにした。
「森川さん、やめたほうがいいですよ」
山村さんはそう言うが、私は物音の正体とこの臭いの出どころを突き止めずにはいられない衝動にかられていた。
リビングにはなにもない。
私は、さらに奥へと歩みを進めた。そして、洋室の扉に手をかけた時、
「森川さん」
と、背後からの山村さんの声に振り返った。
「山村さん…っ?」
私は驚愕し、その後の言葉を紡ぐことができなかった。なぜなら、山村さんの手の中に握られた研ぎ澄まされた包丁の輝きが、私の思考を停止させてしまったからだ。
「なぜ、知ろうとするんです。なぜ首を突っ込んでくるんです」
山村さんは私に包丁を突きつけると、徐々に距離を詰めてくる。
「興味本位でかき回してさえくれなければ、こんなことをしなくてもよかったのに」
逃げなくては…。
そう思うのだが、強張った体がなかなか言うことを聞いてくれない。私は、洋室への扉に背を預け、死を覚悟した。
がちゃり。
ふと、背後の扉がひとりでに開いた。私は驚き、そちらに目を向ける。
「陽ちゃんっ」
出てきたのは息子だった。だが、最初にこの部屋に入ったのは私だ。どうやって先に洋室に入れたのだろう。もしかして、この部屋の鍵を開けたのは息子のしわざなのだろうか。しかし、私のそんな疑問をよそに、息子はまっすぐに山村さんの方へと歩いていく。
「陽ちゃん、だめっ」
私は慌てたが、山村さんはなぜか動きを止めている。息子は私が止めるのも聞かず、ゆっくりと山村さんに歩み寄った。すると、山村さんはしだいに青ざめ、震え出す。
「な…なんで…」
歯が噛み合っていないような、がちがちと震えた声を上げた。息子は、そんな山村さんに手を伸ばす。そして、
「返して」
そう言った途端、
「うわあああっ」
山村さんは叫び、包丁をその場に落とすと一目散に逃げ出した。それから間もなく、
「ああっ…」
という短い悲鳴のあと、大きな衝撃音とともにハイツ全体がわずかに揺れた。慌てて203号室から外に出るがそこに山村さんの姿はなく、恐る恐る手すりから下をのぞくと…、
「あっ…」
柊の木の根本に、山村さんが仰向けに横たわっているのが見える。
「どうしたんだい?」
201号室から、騒ぎを聞きつけた田中さんが出てきた。
「た、田中さん…」
私は鳴りやまない心臓に手を添え、必死に落ち着こうと浅い呼吸を繰り返す。そんな私の様子に、
「まずは落ち着きなさい」
と、田中さんは私の背を優しくさすってくれた。
「いったいなにがあったんだい?」
「や、山村さんが…」
「うんうん、山村さんが?」
「ほ、包丁を持って迫ってきて…」
「え、なんだって?」
「でも、なにかに驚いて、逃げるように走り出したと思ったら…」
そのあとの言葉を紡げなくなった私は、震える腕をなんとか持ち上げ、柊の根本を指さした。それを見た田中さんは、私の背中をさするのをやめ、手すりから顔をのぞかせて下を見る。
「あ、山村さんっ」
田中さんが叫び声を上げた時、これまで頑なに閉ざされたままだった202号室の扉が開いた。
「今、救急車と警察を呼びました。じきに到着するでしょう」
そう言って出てきたのは、まだ20代と思われる青年だった。
「あ、瀬戸さん」
田中さんが言う。青年は瀬戸さんというらしい。
「森川さん、今あなたが田中さんに語ったことが事実なら、これは事件です。今から来る警察に、そのことをありのままに伝えて下さい」
そう言うと、瀬戸さんは足早に1階におりて山村さんの脈をとっている。そして、呼吸を確かめる。
「まだ息がある!」
瀬戸さんが叫ぶ。
「清潔な布はありませんか?」
その声に弾かれたように、田中さんは201号室に引き返すとすぐに戻ってきて、綺麗に畳まれた布の束を1階の瀬戸さんに届けた。
「頭を強く打ったようです。出血が多い。とりあえず、救急車が来るまで止血を試みます」
「手伝えることがあったら、なんでも言っておくれね」
いまだに震える体を支え、階段の手すりにつかまりながらなんとか1階におりてきた私は、田中さんと瀬戸さんのやり取りを呆然と見つめることしかできない。それに気づいたのか瀬戸さんが、
「私は瀬戸と言います。刑事です」
と言う。
「森川さんが何度も訪ねて下さっていたことは知っていました。ですが、出るわけにはいかなかったんです」
申し訳なさそうに語る瀬戸さんに、田中さんは、
「瀬戸さん、こうなったら話してもいいわよね?」
と確認をとると、返事を待たずに、
「実はね、瀬戸さんは張り込み中だったのよ」
と小声で伝えてきた。
「向かいのアパートになんかの事件の容疑者がいてね、それで張り込んでいたから出られなかったのよ。張り込み中は無用の接触は避けるべきだってドラマでも言ってたし…ね、そうでしょう? 瀬戸さん」
問われて、瀬戸さんは苦笑する。
「その容疑者、瀬戸さんの監視が外れたのを機に逃げちゃったりしないかね」
「田中さん」
瀬戸さんがたまらず制止の声を上げれば、それに気づいたらしい田中さんはようやく口を噤んだ。
「ところで森川さん、なぜ山村さんに襲われたんですか?」
瀬戸さんに聞かれたが、それはこちらが尋ねたいことだった。山村さんに包丁を向けられる理由にまったく心当たりがない。
「わかりません。突然よくわからないことを言って包丁を向けてきたんです。そして、息子を見た途端、叫び声を上げて逃げ出しました。そのあと、2階から転落してしまったようで…」
「そうですか…」
「あ…」
「どうしました?」
「2階のあの部屋…203号室から異臭がしました。なにか、ひどく腐ったような臭いがしたんです。その臭いの出どころを探している時に襲われたので、もしかしたらそれが関係あるのかもしれないわ」
「異臭? それは、気になりますね」
「ちょっと調べてこようかね」
私の話を聞いていた田中さんが、階段をのぼりはじめる。田中さんをひとりで行かせるのに不安を感じたが、情けないことに田中さんのあとを追う勇気が私にはなかった。せめてもとの思いで、田中さんの背を目で追う。田中さんは、開け放たれた扉から203号室へと姿を消して行った。ほどなくして、
「ひゃあ…っ!」
と、田中さんの短い悲鳴が上がる。どたどたと慌ただしい足音が聞こえ、田中さんが203号室から出てきた。そして、手すりから顔を出した田中さんは青い顔で、
「死体だよ!」
と叫ぶ。しばらくの沈黙のあと、
「なんてことだ!」
と、瀬戸さんの舌打ちが聞こえた。私はと言えば、この短時間に起きたことに対する脳内処理が追いつかず、ただ茫然とするしかなかった。その時、「おかあさん」と聞こえた気がして、はっと我に返る。
そうだ、息子はどうしただろうか。
山村さんに襲われた時以来、姿を見ていない。
「あの、田中さん」
私は、2階にいる田中さんに声をかけた。
「そこに、私の息子は…陽一はいませんか?」
私の問いかけに、田中さんはきょとんとした様子で、
「さあね、それらしいのは見えないけれど。息子さんってどんな子だい?」
と言う。そして、
「私はまだ息子さんに会ったことがないからねえ」
田中さんはそう続けた。
「なに言ってるんですか。お会いしましたよね?」
「え? あんたの息子さんにかい?」
「はい。ご挨拶の時も一緒にいましたし、お部屋にお邪魔した時にも連れていたじゃないですか」
田中さんはいよいよ怪訝そうな顔で私を見る。
「いなかったよ」
「え…?」
「あんたはひとりだったよ。挨拶に来てくれた時も、私の家に来た時も」
「なにを言って…」
「家に来た時、3歳の息子がいるって言ってただろう? その時、初めてあんたに息子がいるってことを知ったんだよ。だけど、私は一度もあんたの息子さんには会っていないよ」
呆然とする私の耳に、
「これはどうしたんですか?」
よく聞き慣れた声が聞こえてきた。
「純平さん…」
私は人前だというのも忘れ、ほとんど無意識のうちに夫に抱きつき、その胸に顔をうずめた。なにがあったかまるで呑み込めていない夫に、私に代わって田中さんと瀬戸さんが状況を説明してくれた。それを聞き終えた夫は、私の体を優しく引き離すと、田中さんと瀬戸さんに向けて深々と頭を下げた。
「みなさん、妻のおかしな言動をどうか許してやって下さい」
私には夫の言葉の意味がわからなかった。
私のおかしな言動とはなんのことだろう。
「妻は今、心を病んでいるのです」
夫はそう言い、私に向き直る。
「深雪、そろそろ現実に目を向けるんだ」
「純平さん…わからないわ。さっきから、なにを言っているの?」
「陽一のことだよ」
「陽ちゃん?」
「そうだ。陽一は、もういないんだ」
「…? いるわよ?」
「いないんだ」
「いるわ」
「いない」
「どうして…」
「陽一は死んだ…殺されたんだ。5か月前に」
夫は、いったいなにを言っているのだろう。
息子が死んだ…? 私の子が…?
どうして…?
それどころか、最後に夫はなんと言った?
息子は…殺された…?
その時、「おかあさん」という声が再び聞こえた気がした。見ると、いつの間にか私の足元に息子が立っており、にこにこと私に両手を差し出している。その手のひらには、折れた空色のクレヨンがのせられていた。
「なんだ、これは?」
それとほぼ同時に、瀬戸さんが声を上げる。瀬戸さんの目線を追い、手が離せない瀬戸さんに代わって夫が山村さんのパーカーのポケットに手をかけた。すると、そこからは青い欠片と円筒状の小さな紙が落ちる。
「これは…陽一の大切にしていたクレヨンのラベルだ」
その時、遠くからサイレンが聞こえてきた。ほどなくして、パトカーと救急車が到着し、瀬戸さんは山村さんの容態を救急隊員に伝えるとともに、警察にことの経緯を説明した。私はといえば、なにもなすすべがなく、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。