第3章
「どうしたんだ、深雪?」
その声にはっとした私は、天井を見上げていた目を夫に向けた。
「ぼうっとしてると、こぼすぞ」
見れば、手にした器が傾いていて、もう少しで中のスープがこぼれるところだった。
「あ、ごめんなさい」
「上に気になるところでもあったのか?」
天井をまじまじと見つめる夫に、私は首を振った。
「そうじゃないの。天井じゃなくて、この上の階のね」
「上は空室だろう」
「えっと、その隣のお部屋のことよ」
「202号室か」
「ええ。今日も仕事から帰ってから行ってみたのだけれど、またお留守みたいだったの。ここに越してきてから1ヶ月近く経つと言うのに、まだご挨拶できてないのよ」
「本当は空室なんじゃないのか?」
「違うと思うのよね。だって、隣の空室にはそれとわかるように書かれているのに、202号室にはそれがないもの。それにね、中から微かに物音が聞こえるような気がするの。冷蔵庫や空調が動く音みたいなものも聞こえるしね」
「そうか…それなら、あまり隣人と関わりを持ちたくない人なんじゃないのか?」
「そうなのかしら。でも、だったら、ご挨拶の時に一度顔を出してしまった方がいいんじゃない? 私、今日で6回目なのよ、チャイム鳴らしたの。出なかったらまた来るんじゃないかって、いい加減に思うと思うのだけれど」
「…そうだな」
「明日、また行ってみるわ」
「おい、出たくないだけかもしれないんだから、そう頻繁に行くものじゃないよ」
「でも、同じハイツに住んでいるのよ。どういう人がいるのか把握しておかなくちゃ。不安じゃないの」
夫はひとつため息をつき、
「あまりしつこくするんじゃないぞ」
と言うと、グラスの底に溜まっていたビールを飲み干した。
翌日、仕事から帰った私は息子の手を引き、再び202号室を訪れた。
チャイムを鳴らす。やはり、返答はない。私は、そっと扉に耳を当てた。やはり、機械音が聞こえる。この扉の向こうには、確かに人がいるのだ。
もっと中の様子を伺おうと、扉にさらに密着する。その時、がちゃりという音が聞こえた。
「森川さん?」
隣の扉が開き、出てきたのは201号室に住む田中さんだった。
私は、突然の田中さんの登場に、今の自分の姿を考えてすぐさまたたずまいを直した。きっと、私の顔は羞恥で赤くなっていることだろう。そんな私を見て、田中さんはにこりと笑う。そして、
「よければお茶でも飲んでいかないかい?」
と、私たちを部屋に招き入れた。
田中さんの部屋はよく手入れが行き届いていた。テーブルや椅子、テレビ、冷蔵庫など、必要な物以外はきっちりと収納されているようだ。また、毎日念入りに掃除をしているのだろう、フローリングの床には塵ひとつ見当たらない。
「少し散らかっているけど、適当にかけてもらえるかい」
「とんでもないですよ。これで散らかってるだなんて、我が家はとても見せられませんわ」
私は苦笑すると、丸テーブルを囲むように置かれている木製の椅子に腰をおろした。
田中さんがお茶の用意をしてくれている間、私は何気なく部屋を観察する。そして、違和感を覚えた。
「はい、どうぞ」
お盆にのった温かい緑茶と綺麗に切りそろわれた羊羹をテーブルに置くと、田中さんも椅子に腰かけた。
「あ、ありがとうございます」
そう言ってお茶に手を伸ばして気がつく。そこには、2人分のお茶と羊羹しかなかったのだ。はじめ、田中さんは食べないのかなと思ったが、腰かけるなり羊羹に手を伸ばしたのでそういうことではないらしい。田中さんはとても親切そうなおばあさんだし、自分から呼んでおいてそんな意地の悪いことをするような人ではないと思うのだが…。そんなことを考えながら、ちらりと傍らを見る。すると、そこにいたと思っていた息子の姿はなく、奥の洋室でなにやらひとりで遊んでいる様子だった。
なるほど、と私は納得した。遊びに夢中になっている子供には遊ばせておいた方がよいということだろう。まあ、欲しくなったら言ってくるだろうし、その時には私のをあげればいい。私はそう思い、お茶を啜った。
「田中さんはご家族とお住まいなんですか?」
「いや、私はひとり暮らしだよ」
「そうなんですか」
ふと、部屋の隅に置かれたものに視線がいく。それに気がついたのか、
「私には孫がいてね」
と言い、私の視線を追って隅に置かれた子供用の椅子に目を向けた。
「男の子でね。3歳になるところなんだよ」
「あら、それじゃあうちの子と同じくらいですね」
「え…そうなのかい?」
田中さんはとても驚いた顔をしていた。
「あ、だから椅子が3脚もあるんですね。田中さんと、お孫さんのご両親の分ですよね」
私がさきほど感じた違和感が、これで解決した。丸テーブルは4、5人で取り囲めそうなほどの大きさだし、椅子の数を見ても誰かのために用意しているとしか思えなかったのだ。
「ああ、息子夫婦だよ。優しい息子でね。嫁も気立てが良くて、よく私の世話をしてくれていたよ」
「とてもよい息子さんとお嫁さんなんですね」
テレビの脇に小さな台が置いてある。その上にのっている写真立てに、田中さんは目を向けた。
「あちらがお孫さんの写真ですか?」
私は、息子と同じ年頃のお孫さんがいるということにわくわくしながら、椅子から立ち上がる。今度、息子と友達になってくれないかななどと考えながら、近くで見ようと写真立てに近づいた。そこで、また新たな違和感が生まれる。
「田中さん、この写真…」
「もう、しばらく会っていなくてね」
「…そうなんですか」
私は、田中さんの家族についてこれ以上聞いてはいけないような気がして、口を噤んだ。
その後、無言の時間が数分あった。
それを破ったのは、田中さんのひとことだった。
「202号室について、随分と気にしているようだね」
そう言うと、田中さんは急須を手にキッチンに引っ込む。そして、お湯を入れるとすぐに戻ってきた。空になっていたそれぞれの湯飲みにお茶を淹れると、それをひと口啜り、ひと息つくように目を細めた。
「田中さんは、お隣についてなにかご存じなんですか?」
「なにか、とは?」
「お隣、いつもお留守のようなんです。いいえ、本当はいるんです。だって、誰かがいるような感じがするんですもの。なのに、いつ行っても出てきてくださらないんです」
「森川さんの言うとおりだよ。隣は空き部屋なんかじゃない」
「それなら、どうして出てきてくれないんでしょう? 私は、ただご挨拶をしたいだけなのに」
「まあ、事情があるんだよ。私が言えることはね、そっとしておいてあげなってことくらいだね」
「田中さんは、お隣の方にお会いされたことはあるんですか?」
「あるよ。だから言えるんだけどね、なかなかの好青年だよ。お隣の人となりは私が保障するよ。まあ、小さなお子さんがいるんじゃあ、そりゃ近所にどういう人間がいるのか気になるよねえ。でも、心配はいらないよ。ここの住人たちは私も含めて変わり者が多いかもしれないけど、悪い人なんかいやしないから。まあ、いい人かどうかはわからないけどね」
そう言うと、田中さんは声を上げて笑った。それは田中さんなりの冗談なのかもしれないが、私には到底笑う気になどなれなかった。
「あ…私、そろそろ帰らないと」
腕時計を見ると、もう18時30分を回っていた。もうじき夫が帰ってくる時間だ。
私は息子の姿を探す。奥の部屋に呼びにいこうとした時、ふと右手を引かれて立ち止まった。いつの間にか、息子は私のすぐ傍に来ていた。私は息子の手を握る。
「それでは、田中さん。お邪魔しました。お茶と羊羹、ごちそうさまでした」
「はいはい、またいつでも来ておくれね。あと、お子さんも一緒にね」
奇妙な感じがぬぐえないものの、やはり田中さんは親切でよい人だと思う。私は笑顔でお辞儀すると、田中さんに手を振った。田中さんは、私たちが階段をおりるまでずっと見送っていてくれていた。
「できあいのものでごめんなさい」
私は、息子を寝かしつけると、帰ってきた夫に夕食を出しながら言った。結局作っている時間がなく、今日はコンビニの惣菜がメインの夕食となってしまったのだ。
「今日ね、202号室に行ってみたの」
「ああ…どうだった?」
「同じ反応だったわ」
「やっぱり出てきたくない事情があるんだろう。もう行くのはやめておいた方がいいよ」
「そうね。田中さんにもそう言われたし」
「田中さん?」
「今日ね、田中さんのお宅でいろいろとお話を伺ってきたのよ」
「へえ」
「田中さんは202号室の人のことを知っているみたい。好青年だから安心していいって言うの」
「そうなのか。田中さんってとても親切で面倒見の良さそうなおばあさんだろう? なら、本当に安心していいんじゃないのか?」
「ええ、そうね。それについては私もひとまず安心したのだけれど」
「なんだ? 他にまだなにかあるのか?」
「今度は、その田中さん自身のことで気になることがあって」
夫は、ぷしゅっという音とともにビールのタブを開けると、グラスいっぱいにそれを注ぎ込んだ。
「田中さんね、陽ちゃんと同じ年頃のお孫さんがいるらしいの」
夫は、口元に置いたグラスを再びテーブルに戻した。その行動に多少の違和感を感じたが、私は気にせず続ける。
「お孫さんの写真を見せてもらったんだけどね、それがぼろぼろだったのよ」
「…? どういうことだ?」
「とても最近撮ったとは思えないくらい年数を感じたわ」
「なら、以前撮っていたものなんだろう」
「だって、お孫さんは3歳よ。その写真に写っていた子は、3歳くらいの男の子だったわ。それにね、田中さん言っていたの。孫にはもうしばらく会っていないって。これって、変じゃない?」
「そうだな。だが、あまり詮索するものじゃないよ。田中さんはいい人なんだろう? なら、それでいいじゃないか」
興味なさげに手にしたグラスを傾ける夫に少しばかり不満を感じたものの、しだいに夫の言うことももっともだと思えてきた。
「そうね。人には知られたくないことだってあって当然よね」
夫に聞いてもらったら、どこか霧が晴れるようにすっきりとした気分になった。私は、そんな健やかな気持で食卓につく。
「純平さん、ビールのおかわりはいかが?」
「お? 今日は大サービスだね」
「だって今日はできあいのものばかりで申し訳ないし。それに、なんか今日はそんな気分なの」
「じゃあ、1本頼むよ」
「はい。でも、あと1本だけよ」
私たちは笑い合った。
夜中の2時頃、私は物音に目を覚ました。
「陽ちゃん…?」
いつの間に起きていたのか、息子がクローゼットのあたりにうずくまっている。なにかを探しているようだ。
「陽ちゃん、また探していたのね。でも、明るくなってから探した方が見つかると思うよ」
もう一度寝かしつけようと息子に手を差し伸べた時、また物音が聞こえた。
「…陽ちゃん?」
だが、息子はじっとしたまま動いた様子はない。
がたっ…ごとり…ずずずっ…。
そんな音が、聞こえてはやみ、やんでは聞こえてくる。それは、近いようで、それでいて遠くから聞こえてくるようだった。
「陽ちゃん、なにを見ているの?」
息子は探していた手をとめ、なにかを見上げている。
「天井…?」
息子に倣って見上げてみるが、天井にはなにもない。だが、音の出どころがわかった。
「まさか、この上…?」
認識してしまえば疑いようがない。音は、確かに真上から聞こえていた。だが…。
「どうして? だって、この上は…」
この上は、203号室だ。
そう。…空室である。
「純平さん、純平さん」
私は隣に眠っている夫を揺すった。
「…どうしたんだ、深雪」
目を擦りながら起き上がる夫に、私は天井を指さして言う。
「音が! 今、この上から物音が聞こえたの」
「この上って、空室だろう?」
「でも、確かに音が聞こえたのよ。がたがたとか、ずずずって…」
私の訴えに、夫はしばらく天井を凝視していたが、それ以降物音が聞こえてくることはなかった。
「深雪、僕は明日も早いんだよ」
「でも、本当に聞こえたのよ。陽ちゃんだって一緒に聞いていたんだから」
そう言うと、
「わかったよ。でも、もう音はやんだみたいだし、今日はもう眠ろう」
と夫が言い、私を抱き寄せて優しく頭を撫でてくれた。さきほどまでの恐怖が和らいだのを感じる。夫の腕の中で、私はクローゼットの前にいた息子を目で探した。そこに息子の姿はなかった。ふと見ると、いつの間に戻ったのか、息子は私の隣に来てすでに寝息を立てていた。それを見た私も安心し、再び深い眠りへと落ちていったのだった。