第2章
「陽ちゃん、そろそろ保育園に行く時間よ」
8時頃に夫を会社へと送り出し、食器の片付けや掃除、洗濯を9時までにひと通り終わらせる。そして、9時半頃に息子を連れて出勤するのが、平日朝のお馴染みの風景となっていた。
「陽ちゃん」
クローゼットの前にうずくまっている息子を呼ぶ。
「陽ちゃん、もう行くよ」
息子はうずくまったまま、なにかを懸命に探しているようだった。
「まだ見つからないの?」
尋ねると、息子はこちらを振り向いて小首を傾げた。
「あとでお母さんも探してあげるから。とにかく服を着ましょう」
相変わらず半袖短パン姿の息子に、セーターを持って近寄る。すると、なにか危険を感じ取った小動物のように、息子は即座に探し物をやめて逃げ惑った。そして、窓の端に束ねてあるカーテンの中へと隠れてしまった。
「もう…そんなかっこうじゃ風邪ひいちゃうよ」
一旦こうなると息子は梃子でも動かない。そうこうしているうちに時間は過ぎ、時計の針は9時40分をさしていた。
「もう、わかったわ。そのかっこうでいいから、早く保育園に行くよ」
そう言うと、息子はやっとカーテンの中から出てきてくれて、私の手を握った。
「寒かったらちゃんと言ってね」
私はバッグの中に息子のセーターをしまい込むと、息子の手を引いて急いで玄関へと向かう。
息子に靴を履かせ、私もパンプスに片足をはめた時、ふと不安の波が押し寄せてくるのを感じた。
「…窓っ」
私は履いていた左足のパンプスを脱ぎ捨てて奥の洋室まで急ぐと、内側の薄いカーテンを捲し上げて窓の鍵を確認した。
…右側も左側も、しっかりと閉まっている。
ひとまず安心して玄関に戻る。再びパンプスを履いて立ち上がった時、すぐ脇にあるキッチンの奥の壁に目が釘付けとなった。その壁の向こうには浴室がある。
「あ…っ」
またもパンプスを放り投げんばかりに脱ぎ捨てると、私は浴室へと急いだ。乱暴に浴室の扉を開けると、湯船の奥に見える窓に飛びつく。そして、鍵を確認する。そこも、しっかりと鍵はかけられていた。ほっと息を吐き、腕時計を見る。
「…たいへん!」
いよいよ時間がなくなり、私は浴室の扉を乱暴に閉めるのも構わずに玄関へ急ぐと、靴ベラを使うことなく適当にパンプスを履いた。そして、待ちくたびれている息子の手を取って玄関の扉を開ける。外に出て扉を閉めると、鍵をかけた。その上で、数度、引いては押してを繰り返して鍵がしっかりとかかっていることを確認する。
「よし…。さあ、急ぎましょう!」
私は、自転車の荷台の籠に息子を乗せると、一心不乱にペダルを漕いだ。
「今日は本当に遅刻するかと思っちゃったよ」
帰宅途中、自転車に乗りながら後ろの息子に語りかける。
「毎朝ごめんね。でも、鍵のかけ忘れって怖いのよ。何度も確認しないと不安なのよ、お母さん」
息子は相変わらず無言だ。毎朝、戸締りの再確認のせいで遅刻ぎりぎりなことに呆れているのかもしれない。だが、どうしても不安になるのだ。火の元栓とか電気の消し忘れがないかとか、そういうことはあまり気にならないのだが、鍵の閉め忘れだけは気になって仕方がなかった。
「それにしても、陽ちゃんは本当に元気ね」
息子は結局、一日中半袖短パン姿で過ごしていた。
「子供は風の子って言うけど…」
寒さを我慢している様子もなく、鳥肌がたっているようでもない。むしろ、その肌には薄っすらと汗すら浮かんでいた。
ハイツに着き、自転車を停めると、私は息子の手をとって自宅を目指す。部屋の鍵を開けて入ろうとした時、
「森川さん、こんにちは」
と、声をかけられた。振り向いた先には、101号室の山村さんがにこやかに立っている。
「あら、山村さん。こんにちは。今お帰りですか?」
「ええ、今日は早く上がれたんですよ」
「まあ。たまにはそんな日があってもいいですよね」
そんなことを話しながら、「それでは」と、山村さんが101号室に帰って行こうとする。そこで、私は思い切って呼び止めた。
「山村さん」
山村さんは笑顔のまま振り返る。
「あの、私たちが越してきてから3週間が経つのに、一緒に住んでらっしゃる方にまだご挨拶ができてないんです。ご挨拶に伺ってもよろしいですか?」
すると、その瞬間、山村さんからはふっと笑顔が消えた。
いや、違う。…それは夕日の影が見せた幻影だったのだろう。
ただの気のせいだったかもしれない。
そう思えるほど、それはほんの一瞬の出来事だった。
「同居人は私の母ですよ」
「お母さま…?」
「ただ、長らく体調を崩しておりましてね。床に臥せっている状態なので、あまり人に会いたがらないんですよ」
「まあ…そうなんですか」
「森川さんのことは、引っ越されてきた日にすでに伝えてありますよ」
「そうでしたか。あの、私にできることがあればなんでも仰ってくださいね。同じハイツに集まったのもなにかのご縁でしょうから」
「その言葉、母が聞いたらとても喜びますね」
そうして、山村さんは笑顔のまま私たちに背を向けると、101号室に入って行った。
いつも気持ち良く挨拶をしてくれる山村さん…そんな彼から、一瞬でも笑顔を奪ったのはいったいなんだったのか。なにか、良くないことでも言ってしまったのだろうか。
今まで安心感を抱いていた山村さんに対する一抹の不安…。
気のせいとして片付けることができないまま、私は息子の手を引き、103号室の扉を開けた。