第1章
秋も一段と深まり、秋用のコートに身を包んでも肌寒さを感じるようになった11月初旬の頃。そんな時期に、私たち一家は裏野ハイツへと越してきた。
「なかなかいい条件よね」
私の言葉に、夫もうなずいて言った。
「駅まで徒歩7分というのがいいな。朝もゆっくりできそうだ」
「そうね。でも、安心して寝過ぎちゃ駄目よ」
「わかってるよ」
「私は、コインランドリーが近いのが嬉しいわ。なにかあった時に安心だもの」
「築30年というが、なかなか綺麗な感じだな」
「そうなのよ。ベランダがあって、日当たりも悪くないし。木造だからなのか、お家賃も安いしね」
そう言って笑い合う。ふと、引っ張られる感覚にそちらを見れば、幼い息子がある一点を見つめたまま、私のコートの裾をぎゅっと握りしめていた。
「どうしたの、陽ちゃん」
息子はずっとそちらを見ている。
「あれは、柊というのよ」
息子の視線を追って、私は答えた。
「あの葉っぱには棘があってね、昔からその棘で邪気…つまりね、悪い思いを払う木だと言われているの」
息子が裾を握る手に一層力を込めた。
「大丈夫よ、あの木が払うのは悪い思いなんだから。陽ちゃんが心配することなんてないのよ」
そう言うと安心したのか、私のコートから手を離した。
私は、徒歩20分くらい先にある保育園で、パートの事務員として雇われることとなっていた。平日10時から17時までの勤務で、その間は息子のことも預かってくれるというのだからこんなに良い職場環境はないだろう。
20代で子供が欲しかった私は、28歳で結婚し、29歳の時に息子を出産した。息子はたいした病気もなくすくすくと成長し、今年で3歳となる。息子は陽一という。外で遊ぶよりは家の中で遊ぶことを好む物静かな子だ。それでいて、とても暑がりな子でもあった。この季節に夏場のような半袖のTシャツに短パンという格好である。長袖を着せようとしても、いっこうに着てくれないのだ。お気に入りは空色のTシャツで、前面に大きなクマのプリントがされており、後ろの首周りには「KUMATAN」の文字が書かれている。
5歳上の夫は、電車で20分ほど揺られた先にある駅近くの商社に勤務していた。特に美男というわけではないが、温厚で優しく、常に私のことを気にかけてくれる自慢の夫だ。
「深雪、そろそろ行くよ」
部屋の中に荷物を運び込むなり、夫は背広を手に言った。今日は土曜日だ。本来ならば夫の会社は休みであるはずなのだが、なにか問題があったらしく、急遽出勤しなくてはいけなくなったとのことだった。
「純平さん、いってらっしゃい。挨拶まわりは任せといて」
「ああ、頼んだよ」
そして、夫はいそいそと家を出て行った。
「さてと」
夫の背中を見送ると、私の足にすがっている息子に目を向けた。
「荷物のお片付けもだけど、先にご挨拶を済ませちゃいましょうか」
私がそう言って微笑むと、息子はこくりとうなずく。
「まずは1階からね」
外に出ると、息子はまた私の服の裾をつかんだ。私たちの部屋である103号室のすぐ向かいに、あの柊の木が高く聳え立っていた。
「陽ちゃん、あの木が怖いの?」
息子は何も言わないが、裾を握る手に力が込められたのが伝わってくる。
「陽ちゃん、大丈夫よ。お母さんがついているからね」
そう言って頭を撫でてあげると、少し安心したのか裾から手を離し、代わりに私の手をそっと握った。
「順番に101号室からまわりましょうか」
私は息子の手を引いて101号室の前まで来ると、チャイムを鳴らした。ほどなくして扉が開かれる。
「どなたですか?」
50代くらいの男性が顔をのぞかせた。
「本日、103号室に越して来ました森川です」
頭をさげると、顔だけ出していた男性は扉を開け放ち、私を迎え入れるように笑った。
「私は山村と言います。どうぞよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願いします。夫は仕事に出ておりまして…そちらはまた改めてご挨拶にあがりますね。それと、これ、どうぞ召し上がってください」
差し出した菓子折りを、山村さんは丁寧に受け取ると気持ちの良い笑顔を見せてくれた。
「それでは」
帰り際、会釈ついでに扉の奥にふと目がいく。奥にある部屋の戸がわずかに開いており、そこからは人の腕がのぞいているようだった。
「山村さん、いい人そうね」
扉が閉まると、私は息子に語りかけた。
「奥で誰か寝ているようだったけれど、奥さんかしら」
息子は私の顔をじっと見つめ、ただ首を傾げるだけだった。
次に、私たちは102号室の扉の前に来た。チャイムを鳴らす。しばらく待ったが応答がない。
「お留守かしら」
次の部屋に向かおうとした時、がちゃりと扉が開いた。
「あ、隣に引っ越してきました、森川といいます。夫と息子の三人家族です。どうぞよろしくお願いします」
チェーンロックの隙間からぎょろりとした目がこちらを見据えている。反射的に、私は息子を引き寄せた。初めは女性かと思ったが、顔つきから男性だと気付く。手入れのされてない伸ばし放題の髪、それに骨が浮き出るほどの痩せ型であり、長身であることが特徴的な男性だった。年齢は40代ぐらいだろうか。夫よりも幾分か上のような気がした。
「あの、これ、良かったら召し上がってください」
菓子折りを差し出すと、男性はチェーンロックを外すこともなく、その隙間から受け取ると無言で扉を閉めた。中から鍵をかける音がいやに大きく聞こえる。
「なんだか怖い感じの人ね」
そう語りかけるが息子は特にそう感じていないらしく、次の部屋に行こうとひとり歩き出していた。だが、すぐに戻ってきて私の左足にしがみつく。裏野ハイツは2階建てで、それぞれの階に3部屋ずつしかない。次に向かうべき部屋は2階になるのだが、2階への階段は私たちの103号室のすぐ目の前にあった。つまり、2階まで伸びている柊の木と一緒に歩いてのぼるようなものである。
私は、息子の手をぎゅっと握りしめながら、息子を落ち着かせるように元気に階段をのぼった。
「さあ、奥の部屋から行きましょう」
201号室のチャイムを鳴らすと、扉の奥から「あ、はいはい、ちょっと待ってね」という声があり、少しして扉が開かれた。出てきたのは、白髪の目立つ70代ぐらいのおばあさんだった。
「どちらさま?」
「あ、はじめまして。この下の階の103号室に引っ越してきました森川です。よろしくお願いします」
菓子折りを差し出しながら言うと、おばあさんは人の好さそうな笑顔を見せた。
「そうかい、そうかい。森川さんね。私は田中ハツエって言ってね、年金暮らしのばばあだよ。このハイツのことには他の住人の誰よりも詳しいはずだよ。もしかしたら、管理人さんよりも詳しいかもしれないね。ははは、何かあったらいつでも訪ねてきておくれね」
「田中さん、よろしくお願いします。夫は仕事で今はいないのですが、そちらにはまた改めてご挨拶に伺わせますね」
そう言って、お互い笑顔で扉を閉める。
「ここのおばあさんもいい人そうね。話し出すと長そうな気はするけど、いろいろと教えてもらえそうだわ」
そう話している間に、息子は隣の部屋の前まできていた。そして、扉に張り付き、バンザイの格好をして何やら頑張っている。私は微笑むと息子を抱えあげ、チャイムが正面にくるように連れて行ってあげた。息子は喜び、手のひら全体でチャイムのボタンを押す。だが、誰も出てこない。私は、息子にもう一度チャイムを鳴らすよう言うと、息子は喜んで再びボタンを押した。扉の奥からはチャイムの音が聞こえている。
「お留守なのかしら」
私は抱えていた息子をおろすと、そっと扉に耳を近づけてみた。なにかが明確に聞こえたとは断言できない。だが、誰かがいるような気配はあった。
「空き部屋…ではないわよね…?」
私は首を傾げると、すでに隣の部屋に移動していた息子のもとへと向かった。息子は、またもチャイムを鳴らしたいらしく、私に抱っこをするようせがんだ。私は息子を抱えあげようとして気づく。
「陽ちゃん、この部屋には誰もいないみたいよ」
息子は言われていることの意味がわからなかったらしく、きょとんとしてこちらを見上げている。
203号室のポストはガムテープで封鎖されており、また「空室」の表札が掲げられていた。
「このお部屋には誰も住んでないの。だからチャイムを鳴らす必要はないのよ」
そう言うと、息子は少しばかりがっかりしたようで、うつむきがちに階段をおりた。もちろん、のぼってきた時と同じように、私の手をしっかりと握りしめながら。
私たち一家は、こうして裏野ハイツでの生活を始めることとなった。
そして、これから、奇妙で不可解な事件へと遭遇していくことになる。
このハイツに誘われるように集まった、奇妙な住人たちとともに―。