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石田光希が人生初めての恋人となる男性と出会ったのは、今は閉鎖された秘密の駐輪場だった。
「朝、同じ時間の電車だったから、駐輪場へやってくるタイミングは重なっていたんだ」
声をかけてきたのは大学生の彼のほうだった。話し上手で、気づけば朝に友人へするように挨拶もしていた。そして駅までいっしょに歩いた。くちづけはなんとなくの流れだった。
「はっきりしたかたちではないけれど、交際ははじまっていたんだ」
「で、一方的に絶縁を申しこまれたんですね」
「まあ、そんなところ」
つきあっている彼女に気づかれかけているから、もういらない――男の言い分を短くいえばそういうことだった。「どうやら、女子高校生の彼女がほしかったんだってさ」
「変態ですね」
「変態だよ。変態とつきあってしまったんだよ」
笑ってくれてかまわないと石田光希はいう。鼻で笑ったら白眼視された。「ともかく、私は今、ひじょうに心をいためているのだよ。つけ入り放題なのだよ」
「コンビニに売っていればいいですね、心の良薬と新たな出会いが」
無人のホームに電車がすべりこむ。ながい間隔でたつ街灯ぐらいしか人工のあかりがないなかを歩いていく。遊水地の入り口までくるころには、文明の痕跡すらないというほど夜だった。鉄格子を乗り越えて敷地内へ侵入する。
「まっ暗だ、変態だ」
「いやな言葉をマイブームにしましたね」
地理を把握している僕にとって、暗がりのなかを歩くことなど造作もないことだった。だから石田光希の手を引いて先導した。つないだ手がかすかな燐光を発してもおかしくない気がした。
遊水地には橋でつながる緑地島がある。灌木が芝生にそってならび、喬木が漫然と屹立する。芝生に横たわって観望するのが好きだった。視界いっぱいをしめる空に、遠近法を意識させる物体はなく、眼前に星の胎動を錯覚することができる。雄大で宏遠な、総毛立つ景色だ。
風は吹かない。こんな夜にだけ見えるものもある。幻覚なのではないかと不安になるほどの光景、それが見たくてなんどでもここへきた。
「きっと、腰を抜かしますよ」
「おぶって帰ってくれるんだろうね?」
「それはちょっと」
橋を半分わたったところでたちどまる。つないだ手に力がこめられた。空を見あげれば湧水みたいに次々と恒星が輝きはじめた。
いったいどうしたのと石田光希は問う。すぐに空を仰いで、星の森へ迷いこんでいたことを知る。
だけどまだ、彼女は気づいていない。僕たちがどんな場所にたっているのかを、理解できてはいない。見えているものに理解が追いついたとき、いったいどんな感情が彼女の心をしめるだろう。
風は沈黙している。広大な水面は静止している。遠くかすかに電車の走る音が聞こえてくる。星のまたたきが声となってささやきあうのが聞こえてくるような空間だった。
「ちょっと待て」石田光希の緊張した声に、おのずから口もとはほころんでいた。
地上に星が――彼女の言葉に、ゆっくりと僕は手を引き、橋の欄干へ近づく。欄干は冷えていて、場違いにあたたかいふたり分の手をのせた。天上の図絵が落下して水面に写り、僕らを見あげていた。めったに見ることのできない現象だった。
しばらく天も地もない世界に埋没してから橋をわたった。
「駐輪場と同じ香りだ」
放心していた石田光希は、灌木の列をとおりかかったときにそういって正気づいた。彼女のいうとおり、島には駐輪場の生け垣と同じ芳香を発する植物が植わっていた。木に近づいた彼女が、葉をむしりとるのが気配でわかった。
芝生へ横たわって空を仰ぐ。石田光希のちいさな歓声が静寂を一瞬じゃました。
「ありがとう。こんな景色を見せてくれたこと、ほんとうに感謝してる」
起きあがる気配があった。目をむけると突然視界に影がひろがる。なにが目のまえにあるのか判断するよりもさきに、顔に髪の毛が触れ、唇にひらたいなにかがおしつけられた。すぐに植物の葉であるとわかった。葉のさきのぎざぎざが鼻柱をかすめる。鼻どうしが接していた。感触は間もなくきえたが、石田光希はなにもいわなかった。夜空を見あげる彼女の目が、かすかな星芒を照らしていた。
数日後、図書館で駐輪場に植わる植物についてしらべた。その正体がカンツバキであると石田光希がつきとめた。帰りに駄菓子屋でコンペイトウを買って食べた。彼女はうれしそうだった。
閉鎖から一年が経ち、いまだ駐輪場は拡張されていない。
お読みいただき誠にありがとうございました。