月を見失った男の話し1
薫と初めて会った時の事は、覚えていない。
物心がついた頃には、既に隣にいた。
孤独だった記憶など残って居ない。
対等な存在に渇望したほんの小さな頃の事など、覚えてはいない。
楽しくない記憶に蓋をして、幸せな日々にだけ目を向けて。
『家』に関する重苦しさも、家族との縁の薄さも、それらが気にならなくなるほどの愛情を与えてくれていた事実からも向き合ったことがなかった。
『家』は息苦しかった。
けれども、薫が居れば何も気にならなかった。
彼女が俺を気にかけて、親身になり、時には子供らしいイタズラで笑って、退屈も寂しさも感じない様に心砕いてくれていたからだ。
出来うる限りで尽くしてくれていた。
だから、気付かなかった。
どれ程大事で、得難い存在だったのかを。
薫が居たことが、最大級の幸運だったことを。
当たり前に在りすぎて、見失ってしまっていたのだ。
他者であるがゆえ、時に永遠に寄り添うとは言えぬ事態があることすら匂わせてくれていたのに。
今居る友人は、薫が居たからこそ得られたものだ。
自分で得た友人ではあるが、そもそも薫が居なければ受け入れる度量が備わっていなかっただろう。
見せ掛けだけの愉快さを演じていた最上稔は、もう一人の俺だった。
立場的に時々顔を会わせていたが、同じ学校に通っているとは思えないほどに学内では顔を会わせなかった。
薫のこと以外が似た環境にありながら、自分達は全く似ていないと思っていた。
年が近いため、周囲がライバルだと勝手に言っていたが、同じ土俵には上がってこずにどうしてあんな風に成長したものかと思っていた。
ままならぬ様々な事を抑えるために道化になっていただけで、本質は恐ろしいほど似ていたのに。
その事にすら気付かぬほど恵まれていたのだ。
薫の事は、無意識に俺のものだと思っていた。
だから、彼女に気持ちがあると思わずに、相川茜の仕掛けたゲームじみた行動に連動した感情を、恋だなどと思ったのだろう。
相川茜は、昔の俺の孤独に気付いてくれた。
薫と出会うまでに強く感じていた飢餓感を救う言葉をくれた。
俺は、もうとっくに孤独などでは無かったのに、なぜ満たされたと思ってしまったのだろうか。
小さな子供のころの俺が『最も欲しく効果的に心に響いたであろう言葉』を一言貰ったからと、どうして盲目的に彼女を欲したのだろうか。
薫は、時間をかけて実際に俺を掬い上げてくれたのに。
ただ単に、俺が、不快な記憶を忘れていただけなのに。
どうして救われてないだなどと思ったのか。
根気よく俺を救ってくれた薫が、俺の孤独に気付いていないはずがなかったのに。
楽に流されずに、考えれば良かったのだ。
後悔は尽きない。
恵まれていることに気付かなかったから、彼女が待って居てくれるとどこかで慢心していたのかもしれない。
巡り合わせの運が、ほんの少し俺にあっただけで、後から出会った最上稔が、月の隣を待ちわびているなどと思いもせずに。
明るい昼間に慣れきっていた俺は、月を見失って自ら手を離した。
似ているからこそ分かる。
薫の事をずっと渇望していた最上稔が、彼女の手を離す事などあり得ないと。