右向きヒヤシンス
給与まであと四日なのに、お財布には残り三千円だった。トースターとコーヒーメーカーを新調したからだ。新しい道具は素敵で、懐は寒かったのだった。
備蓄は貧相だった。冷凍庫には生姜とニンニク、ベーコンが少し。野菜室にはセロリの葉と玉葱。幸いお米と乾麺はあるし、いざとなれば災害対策用の缶詰とレトルトもある。
今夜はベーコンの切れ端とセロリの葉をみじん切りにして焼うどんでもしよう。ランチはおむすびを連投させよう。炭水化物ばかりが並ぶ。
「ミナさん、もう作ってる?」
ハラヘリ虫のカズキ君がトントンとやってきた。スナフキン系の小柄な銀行員。
「どうにも粗食です」
「そう思って、これ」
お勤めバンクのキャラ付きエコバックの中身は、全て特売シール付きの食材達だ。袋口からはネギとフランスパンが伸びている。
「消費期限が明日だけど有精卵があったぜ。食おう」
「六つ全部?」
「まずはオムライス。残りも使い切る」
言いながらカズキ君はサクサクと具材を刻む。あっという間にセロリと玉葱とベーコンが微塵になった。
「すっごく助かる! ありがとう!」
「花の香りがすごいね」
源は出窓に置いたヒヤシンスの鉢植えだ。先月買った三株植えのそれは、全部いい感じに満開になりつつあった。フサフサと重そうに桃色の頭を三方に垂れている。
「綺麗に開いたでしょ」
「うん、間に合ってよかったね」
明日は前社長のタカコさんの命日。お好きだった社内の休憩コーナーに飾る為に育てた鉢植えなのだった。
タカコさんは三代目社長だったご主人を働き盛りに亡くされて長井屋を継いだ、結構な女傑だった。
長井屋は創業百年以上の老舗と言うと立派だが、扱う商品は袋詰めの素朴な郷土菓子の小さな株式会社だ。でも当時幼かった現社長を抱え、パートを含めた数十名の生活も預かって舵取りをするのは、並大抵ではなかったと思う。
タカコさんは社長と呼ばれるのをとても嫌がっていた。
「肩書きなんて胡散臭いわね。私のことはそのままタカコさんとお呼び」
社員には必ずそう命令した。そしてそう言いながら
「誰がリーダーかも見抜けない様なヘボは要らないから」
私達を脅して遊ぶのだった。
実際、古い取引先から聞くタカコさんの兄貴エピソードもドラマティックだった。
社長交代の隙間を狙ったヤバい筋のユスリタカリにも怯まず踏ん張った話、持ち逃げされた損害をひっくり返した話、百貨店に進出するまでの開拓話。
こんな小柄な女性の中にそんな社会の縮図があったのかと、タカコさんを知る度に思い知らされた。ひとは見かけによらない。
タカコさんはいつも土と戯れてもいた。
きっかけは原材料の生産者探しだったそうだけれど、趣味の畑仕事で収穫された季節の野菜達は皆、濃く瑞々しく甘く、ほろ苦かった。愛用の軽自動車の床はいつも土が着き、段ボールも長靴も積まれ、働く車を呈していた。
若い女性が好む流行りのフレーバーティーや綺麗な洋菓子に対し「仕掛けが浅はか」と辛辣さを見せる事もままあった。その頑固さには腹も立ったけれど、敷居の高いレストランや老舗菓子の取り寄せ試食の機会も多く、誰もがタカコさんの信念に染まっていった。
「ちゃんと本物を理解した上でチープを楽しみなさいね。うちは本気で駄菓子を作ってるんだから」
それは零細企業なりの福利厚生も兼ねていたけれど、物知らずな私達には有難い経験だった。自分の器では開くことの出来ない扉も沢山あったから。
「今度の担当者は楽しみね」
最初にカズキ君を評価したのも、そのタカコさんだ。
メインバンクの前任はとても頼り甲斐のあるおっさんだったのに、いきなり風来坊系にチェンジしたその春、うちは本当は危ないのではないかと皆でこっそり危惧したというのに、
「あらあの子、ちゃんとうちの製品の原材料の産地の価値を知ってたわよ。嬉しいわ」
彼が思いがけず勉強熱心な事を、タカコさんは見逃さなかった。
「農学部出身なんですか?」
「活字中毒でパッケージも隅から隅まで読むんですって。姫あられ戦略の提案もくれたわ」
(へえ)
やはりひとは見かけによらない。タカコさんの収穫した野菜を喜んで担いで帰る新人銀行員は、そのままどこかで野宿でもしそうだったのだ。
タカコさんはことある毎に私にカズキ君を褒めた。あまりに頻繁なので、
「タカコさん、随分あのコを気に入ってるんだね」
私が同僚にそう話すと、
「え、そう? 私は説教してる所を見たよ」
ひとによって印象が違う様だった。取り敢えず可愛がっているんだねと頷きあった。
「嫌ね、私は見る目はあると思っているのよ」
私達の不躾な疑問にタカコさんは笑うと、
「そうそう新年明けの金平糖と卵ボウロの包装ね、一部節分用にもリニューアルしてね。カズキ君からのリクエストなの」
そしてそれはまたいい感じで伸びた。きっとカズキ君はタカコさんと相性がいいのだろう。ひょっとしたら亡きご主人にどこかが似ていたのかもしれないと、勝手に思ったりもした。
カズキ君が会社のお花見の手伝いに来てくれた時、私と二人で使い走りをさせたのはタカコさんだ。
「私の車を使いなさい」
泥だらけの軽自動車で追加注文の巻き寿司を取りに行った。
その時に初めて、カズキ君と沢山話した。そしてその時に初めて、彼の会話の変化球の多さに大いに驚いたのだ。とにかくボールがどう飛ぶのか検討がつかない、だけどきちんと納まる所に着地する不可思議なやり取り。
「僕との会話は面倒じゃないですか?」
「いいえ、楽しいですよ。どうして?」
「賛否両論なんです。自分じゃこれが自然なんですけど、単語の選択が突拍子もないとか捻くれてるとか、そんな風に叱られたりもしますから。タカコさんは良く受け取ってくださるけれど」
私もいいと思いますよと伝えるとホッとした様に笑うので、風来坊系も実は大変なのだろう。私とそんなに変わらない上背も気にならなかった。
「やっぱりやりとりは面白いわよねえ。モノも言葉も」
晩秋、急に体調を崩して入院したタカコさんを見舞った時、タカコさんはか細い声でそう言った。
「ずっと横になっていると身体が固まるのよ。流通させたいわ」
「タカコさんがお休み出来るのは今の内だけですよ。退院したらまた大忙しです」
「お口も動かなくなるわね」
「今は休んでください」
「先月と今月の帳簿持ってきて」
「休んでくださいってば!」
タカコさんは笑った。だけどそれは仕事中の張りのある発声とはまるで違った。
「あの子とのやりとりも楽しいでしょう?」
タカコさんは私にそうも聞いた。聞かれてやっと、このレールはタカコさんが引いていたのかと気付いて照れた。
「先日両親に挨拶に来てくれました」
「そう、順調で何より。ところで最近の病室は植物が置けなくて嫌ね」
タカコさんは花の中ではシクラメンが一番お好きなのだけれど、それはお見舞いには一番適さない品だ。そもそも土の匂いのない所はタカコさんにそぐわない。
年明け暫く頑張って、タカコさんはあっさりといってしまった。シクラメンの季節は終わってしまっていた。小柄で愛らしい所が似ていると、ヒヤシンスを眠るタカコさんの祭壇に皆で置いた。
もう一年立つのかと思いながら朝起きたら、窓際のヒヤシンスが全部右向きになっていた。朝日に反応したのだ。
「このヒヤシンス、見事に曲がってるよね」
「うん? 茎のカーブも自然でいいけど?」
「いっそ球根ごと掘り起こして洗って飾るかな。鉢がひっくり返りそう」
「じゃあ大きい瓶が要るね。何かあったかな」
カズキ君が片付いていない荷物を漁る。言葉のやりとりは楽しい。
硬くなった割引フランスパンは夕べから卵に浸しておいた。フライパンでフレンチトースト。コーヒーと共に二人で食べる。モノのやりとりは楽しい。
週末にカズキ君の残りの荷物がこの家に届く。やっと新居が整う。生活は楽しい。土の匂いは愛おしい。
おしまい