メタモルフォーゼ
歯を食いしばるのが癖になっていました。頭痛と肩凝りがどうしようもなくなり数件の診療所を受診し、ようやく頭痛外来にたどり着いた時
「一日中奥歯に力が入っている状態です。それでほら、」
思いがけず顎関節症の指摘まで貰い、初めてその症状に気付きました。
そういえば顔のラインが変わってきた気がします。入社当時の私はもっと頬がスッキリしていた筈です。
(やだ、余計ブスになってるじゃない)
顎の筋肉のせいで小顔とは真逆。鏡を覗く度にウンザリします。
(気をつけないと)
それがまた無意識に歯を食いしばらせます。
「まずその癖を直してください。そうしないと頭痛も肩凝りも顎も治りませんよ」
ドクターに何度そう言われても、力を抜く方法がわかりません。
「だからそんなに奥歯を食いしばらない様に。もっと力を抜いて」
同じ言葉だけを繰り返すだけの再診にもウンザリして、そのうち通院も辞めてしまいました。
だけど私は普段は歯を食いしばっているつもりは毛頭無いのです。ただ、今の環境で気を抜くと、恐ろしく無愛想な仏頂面になってしまいます。私はもう感情を外に垂れ流す学生の小娘ではありません。
だから笑わなければ。周囲に気を配らなければ。顔見知りに。同僚に。クライアントに。幼い頃から器量自慢の母親には
「貴女は綺麗じゃないのだから、せめていつも笑顔でいなさい」
そう言われ続けて育ってきたのです。笑わなければ。
無意識にまた歯を食いしばります。堪えるのが癖になっていました。
「ホリウチさんって、自分では笑ってるつもり? 顔めっちゃ怖いよ。いつも何怒ってんの?」
先日の事です。同僚の一言で何かが崩れるようでした。堪えていた私の本音がどこかに蹲ります。心が外に出られなくなりました。
だけど笑わなければ。
その時期の不人気な某所への異動は、私へのリストラ勧告かなと思いました。街は賑やかです。駅への狭い路地もひしめく可愛いお店も長居の出来ない小洒落たコーヒースタンドも、私にはもう余所のモノです。
でもクビだとはっきり言われないだけ幸せなのかもしれません。今からでは再就職の方がきっと辛いもの。今の職場の福利厚生は恵まれているもの。働かなければ生きていけないもの。
彼だと思っていたひとが実は他のコと長く続いていた話も、これを機に、無かったことにすればいいのです。
前任者は心身症でわずか一年で異動になっていました。事務所兼住宅の引継ぎ案件は滞っています。通りには僅かな商店街に銀行や他社の支店や郵便局。特に事務所の隣が駐在所なのが、女の私にとっては救いでした。これでもここは集落のメインストリートだそうです。
「前のひと、大変そうでしたもんね」
手土産を持って挨拶に行くと、二人の警察官から昨年の様子を聴けました。社内では聞けなかったエピソードが色々ありました。
「ここ、温暖だけど冬場はスタッドレスタイヤ要るよ。替えられる?」
初老の小柄な警察官が都会風味の私を脅します。
「雪道じゃなくても谷間の道がブラックアイスバーンになるんですよ」
お若い大きな警察官の方も更に詳しく脅します。
ペーパードライバーの私には仕事以上にクリアしなければならないミッションがあります。都心部とはかけ離れた地域の常識も伺い、うっかりまた奥歯を噛み締めてしまいました。
「それからご近所の注意事項ですが、動物は怖くありませんか?」
お若い警察官が私の顔を覗き込みます。
「ここの商店街は猫の外飼いが多いんで、車の下やボンネットの中に入り込んでないか気をつけてくださいね。犬も多いですよ。通りの端の家から白猫のめぐちゃん、床屋のトイプードルのチャイちゃん、ひとつ飛ばして茶トラのどんちゃん……」
「待ってください、えっと、めぐちゃんチャイちゃんどんちゃん、」
「そう、続けて柴犬のサムちゃんと梅ちゃん、二件空けて黒白猫のうしちゃんとサビのみりんちゃん、ミケのミャーちゃんがいます」
「わー待って待って!」
貴重なご近所事情です。スマホの入力が追いつきません。
「皆さん、何かを飼うのがデフォなんですか?」
「過疎地で高齢の方も多いので子供代わりかもしれませんね。後この辺りは馬刺しが名物です。馬と共に歩んできた歴史のある土地ですからアレルギーでなければ苦手でも食べてくださいね。命を粗末にしないように、お願いしますね」
大切なお話が聴けました 。ご近所へのご挨拶はペットのおやつがいいでしょうか。
「あと、うちの駐在所にはこの仔がいます」
裏から尻尾をクルリと巻いた焦げ茶の犬を連れてきてくれました。真っ赤な首輪がよく似合います。
「わあ、尻尾がドーナツだね!」
「この仔はパン太といいます。ここは代々犬も居る駐在所で、主に通学路を担当します」
パン太くんは尻尾を振って私にもご挨拶をくれました。ちゃんと撫でさせてもくれました。
仕事内容がかなり変わりました。営業の担当区域は広く山道も多いので、細かい道路情報も教えていただきます。
「営業車には防寒着や非常袋も入れときなさい。エンストされても救助に時間もかかるから」
「脅しじゃなくて?」
「過去にあったんです」
あまりの異文化ぶりに目を白黒させていたら、帰りがけに初老の警察官の方に耳打ちされました。
「それから……実はあの若いの、最近バツイチに成り立てなんです」
「え」
「いやね、ここに単身赴任してる間に同期に奥さん取られちゃってねえ。こどもがいないのが幸いだったけど、でも私達もなんて言ったらいいか、もう、ねえ」
「え」
「だから独身の女のかたが来てくれて私は嬉しいですわ。ヨロシクお願いしますね。長く赴任してね」
「えっと……」
どこまでがご近所情報なのか困りました。奥歯を噛みしめるのも忘れました。
「優しくて根が真っ直ぐでいい奴なんですよ。でも元機動隊でオンナ慣れしてなくてボンヤリでね」
返事にも困りました。
(これって、警察との癒着では)
思いつく限りの規約を掘り起こしていたら、
「週末期限のホームセンターの割引券がありましたよー。持っていってくださいー」
駐在所の奥から声が聞こえました。パン太くんの鳴き声も響きました。
おしまい