ゆきちゃん
出会いは初雪の舞う夕方だった。愛猫トラちゃんがしきりに外に向かって鳴くので、様子を見に庭に出たそうだ。
「そしたらさ、居たんだよ」
道の駅パートから帰った私を迎えたタカシ君は、キラキラした瞳で詳細を語った。
その仔は古布を敷いた段ボールのなかでブルブルと震えていた。真っ白な毛に覆われた愛らしい生き物だ。
タカシ君は既にゆきちゃんと名付けている。
「でもなんだろうね。イヌ猫ネズミとは違うし」
二人で首を傾げる。体長はおよそ十五センチ。まるでゴマフアザラシの赤ちゃんの手足が退化した、楕円のお餅という感じ。目と鼻先が丸く黒く、親でも探しているのか、ずっとキュウキュウ鳴いている。
お湯で濡らしたタオルで身体を拭くと気持ちよさそうだったので、鼻先を拭きつつ口の中も確かめた。
「歯は生えてないよ」
「きっと赤ちゃんなんだ」
お湯入りペットボトルをタオルで包み、箱の隅にいれてみた。牛乳耐性は不明なので、無調整豆乳をぬるくして口元においた。するとゆきちゃんは、お皿に口をつけてコクコク飲んだ。
見ると舌をチロチロと出している。
「わー可愛……」
舌の先が割れている。
「!?」
見た目とのギャップに狼狽える。
ネットの海を検索しても見当はつかず、怪我を疑うにも動物病院まではここから車で一時間半。詳しい検査が必要となれば、更に遠くの街になる。
私たちは顔を見合わせ、暫く様子をみようと決めた。
この山奥に移住したのはその年の早春。母の実家にあたる古民家を相続したのがきっかけだ。
昨今の不景気はタカシ君の心身を酷く揺らした。だまし騙しの都会暮らしと、スローライフを天秤に掛けた。
タカシ君のリモートワークの隙間に、虫と闘いながら古民家の補修。暗い土壁に白の漆喰を、傷んだ窓枠にはペンキを塗った。天井を片付け、床板も貼り直した。井戸を含む水回り工事では予算オーバーしたけれど、実母の同級生のお陰で身元の保証が効き、パートのツテをいただけた。
数十メートル先のお隣さんに手ほどきを受け、小さな田畑を開墾。メインの茶畑も整った。
「良かったねえ。これでご先祖様も喜ぶよ」
お隣さんが褒めてくれた。茶畑はこの地域の象徴だ。
晩秋、ほころぶ白い茶花を穏やかに眺めるタカシ君の背中を見て、私の眉間の力が抜けた。良い事ばっかりじゃないけれど、きっと、これで良かった気がする。トラちゃんだって古い家の欄間や押し入れ、広いお庭が大好きだ。
「さて、ゆきちゃんはどんなふうに成長するんだろうね」
タカシ君が未来の話をするので、私の頬も緩くなる。
冬のあいだずっと家の中で過ごしたゆきちゃんは、季節が緩み始めるのと引き換えに、どんどん引っ込み思案になっていった。
家の中では段ボールから出てこない。外に出せば、軒下や草むらに隠れてしまう。
「明るい所が苦手みたいだ」「もしかして夜行性?」
毛並みも白から茶色に変わってきた。
「夏毛になるのかな」「オコジョや雷鳥みたい」
二人で首を捻り続けた。
ゆきちゃんはズリズリと腹這いで動く。時々横にコロコロ転がり、場合によってはバウンドする。ご飯は雑食で、トラちゃんのお皿に顔を突っ込んでいるのを何度も見た。
「でもまだ歯が生えてないよね」
「丸呑みしてるよね」
トラちゃんのご飯のおかげもあってか、ゆきちゃんは既にふたまわりは大きくなっている。
古い家はストレスフリーで、二匹はどんどん逞しくなった。トラちゃんは筋肉質になってきたし、ゆきちゃんに至っては、野生に近くなったせいか、とうとう家に入りたがらなくなった。身体も触らせてもらえない。毛並みは汚れも相まって、すっかり焦茶になっている。
「大丈夫かな。ゆきちゃんの毛並みパサパサだ。お腹なんて毛が擦り減ってザラザラで」
「でもちゃんと大きくなってるよね。換毛期かなあ」
ゆきちゃんの正体は未だ不明だったけれど、私たちなりに考察し、深く考えないようにした。
その日は突然やってきた。旧暦のおひな祭りの支度にと、ヨモギ摘みに出向いた朝だった。
二日前に降った雨は、緑の成長を促した。
ヨモギの群生する畦道に、タカシ君と私はしゃがみこむ。採取に余念がない私たちの背中をトラちゃんがスリスリし、その後ろではゆきちゃんが転がっていた。
ゆきちゃんは偶然そこにいた。なんてタイミング。みんなで揃ってお出掛けみたい。なーんて和んだ瞬間、
ぼたん。ぼろぼろぼろぼろ。
後ろで何かが落ちる音がする。足元にはトラちゃんがいる。ということは。
「ゆきちゃん!?」
ゆきちゃんが消えている。先日の大雨は田畑のあちこちにぬかるみを作っている。
まさか水路にでも落ちたんじゃ。タカシ君は全力で坂を降りた。そして大声で私を呼んだ。
「早く! 早くきてくれ!」
私も慌てて降りた。けれど、トラちゃんの方が速かった。
佇むタカシ君の前には、田圃の土手があった。ぬかるんだ土くれの中には何やらうごめくモノがある。目を凝らすと、可愛い黒目がキラキラ光る、全身が土にまみれた……幻と言われる生き物にそっくりなモノが居た。
ノグチとかツチンボとかバチヘビとか呼ばれている何か。
私たちはデクの棒と化した。トラちゃんは目を三角にし、尻尾をブンブン振っていた。
ゆきちゃんであろうその生き物は、暫く可愛い黒目でこちらを見ていると、ぷくん。と、土のなかに潜った。
暫くその場を凝視していたけれど、もう二度と浮かんではこなかった。巣立ちの時期だったかもしれない。
長い時間固まっていたが、二人同時に我にかえる。さっきより太陽が高くなっている。踵を返し、再び坂を登った。動悸がおさまらなかった。
「やっぱり爬虫類だったのかな」
「でも毛が生えてたよ」
「幼少期だけがあんな風なのかな」
足を前に出しながら、話たちは思いつくまま口に出した。足を前に出し過ぎてヨモギポイントを過ぎてしまい、慌てて戻った。戻ってまたぼんやりした。
「まあ世の中には、カモノハシみたいな生き物も居るし」
辛うじて出した結論には無理がある。でもちょうどいい落とし所も他に思いつかなくて、また口をつぐむ。それから同時に何故か「あー」と発声し、そのあと「作業に戻ろう」と、二人でまたしゃがみ込む。
黙々とヨモギを摘む。色々混乱している。
こういう時は他のことを考えよう。
おひな祭りの支度が済んだら、道の駅に並べる他の山菜も採らないといけない。来月は茶摘みだから、支度も教わらないといけない。タカシ君に「一枝三葉」のルールを教えないと。摘むのはひと枝につき三枚の柔らかい葉。製造工程も教えなくっちゃ。
ヨモギを摘む指先から、青い香りが湧き上がる。
タカシ君が「良い匂いだなあ」と、ふいに言った。「お茶摘みも良い匂いかな」と、「楽しみだ」とも言った。
私は「うん、うん」と相槌を打っていた。
「あのさ」「うん」
「ゆきちゃんを動物病院に連れて行かなくて良かった。見せ物になったら可哀想だった」
「うん」
「それに冬になったら、また違うゆきちゃんにも会えるかもしれない。他にも個体がいるかもしれない」
「うん」
「此処は面白い所だな」
「そう?」
「うん、引っ越してきて良かった」
私はもう黙った。黙って手を動かした。日が昇り、照らされた背中が暖かくなってくる。作業に専念したせいで、いろんな汗が出てしまう。鼻が効かなくなって、香りもわからなくなってしまう。
腰が痛くなったとタカシ君が立ち上がる。
「ネコヤナギも開き切ってきたね。ボサボサしてる所が泥に潜る前のゆきちゃんに似てるよ」
そうだ、思いついた。ゆきちゃんは、ネコヤナギの精かもしれないね。
言いたかったけれど、何故か声が出なかった。私も立ちたかったけれど立てなかった。トラちゃんが私の背中に乗っていたからだ。
タカシ君はトラちゃんをそっと抱っこした。トラちゃんも重くなったなあと笑って言った。




