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サキユクケハイ

 ミチヒサの声はいつも大地を揺るがしていた。真夏の暑い空気、熱いグラウンド、陽炎。それら全てを揺らして、遠くまで響いていた。

 普段話している時とまるで違う野太い声なので、何を叫んでいるのかわからない。だけどミチヒサのいつもとは全然違う、生きる本気のような迫力が、ただただ眩しかった。

「アレは何を言ってるの?」

「おーい、みたいな掛け声」

「どういう意味?」

「自分達の気合とか、味方への『ここは任せろ』みたいなメッセージとか」

「ふうん。そうなんだ」

「カオリ本当は興味ないだろ」

 ミチヒサに笑われた。

「そんな事ないよ」

「でも野球のルール、全然判ってないじゃないか」

 笑われたけど、正確にはそうじゃなかった。だっていつもミチヒサは突き進んで見えたから。ミチヒサはどうなってゆくのかなって、それだけが気になったから。


 ミチヒサは昔、すごく小さい男の子だった。病気がちで、小学校の頃はよく休んでいた。高学年あたりから体育にも全参加になって、すると皆がミチヒサの運動神経の良さに気づいた。そして何よりミチヒサが元気に、それまで以上に明るく聡明になった。

 中学で野球部に入った時は驚いた。野球部とサッカー部は少年団やクラブチーム経験者が多いので、普通の男の子だったら遠慮する。

「ずっと憧れていたからさ」

 その時のミチヒサは真っ直ぐな目をしていた。

「おばさんも心配してない?」

「そうかも。父さんは喜んでたよ。あの人サカ高で甲子園に行ったから」

 サカ高というのはこの地域の公立普通科高校だ。この辺りでは甲子園といえばサカ高で、OBの強さも盤石だ。

「お父さんがサカ高球児」というカードは関係者にはテキメンで、ミチヒサはあの結束の固い野球部にサラリと馴染んだ。迎えられ過ぎて人気者過ぎて、レギュラー組と補欠組の休日のお誘いがよくかち合って、別の意味でも大変そうで。

 だけどその様子すら学校の皆は楽しく見ていたし、現にミチヒサにはファンも多かった。馬鹿みたいに不必要な不安を抱いて勝手にハラハラしていたお間抜けなのは多分、私だけだったと思う。

 その後は持ち前の運動神経で、直ぐにベンチ入りを果たしている。成長につれて打撃力も伸びた。代走の活躍で一気に注目され、三年では外野手のポジションを勝ち取った。陸上でのスポーツ推薦の噂もあったけれど、皆の予想通りサカ高に進学し、おじさんをとても喜ばせていた。

 私は「家から近い」という理由で、サカ高を選んだ。入学式では親同士が小学校からの顔見知りなのもあって

「またご一緒させてくださいね」

「こちらこそ、どうぞ宜しくお願いしますね」

 そう挨拶し合ったそうだ。


 高三ラストの試合は県営野球場での県予選、三回戦。最近強豪化した私立相手に二対四だったのは悪くなかったと思う。暑い中の応援も爽快だった。応援団も吹奏楽部も頑張っていたし、野球部父母会の用意してくださった麦茶はとても美味しかった。

 最後の一球をミチヒサは追っていた。逆転ホームランは憎らしい程美しい曲線を描いて、フェンスをスルリと越えた。

 泣いているミチヒサを見るのは切なかった。それから何かはわからないけれど、「ああ、やっと終わったんだなあ」とも思った。私も県営野球場の応援には毎夏通っていたし、それで余計、三年最後のサイレンがきっと、一番胸に響いたと思う。


「ミチヒサ達だけ黒いね」

 夏休み半ば、塾に集う大学受験組のサカ高三年生の中に、ぽつぽつ日焼けの酷い男子が混じる。

「出来の悪いのも野球部だろ」

「そんなことないよ」

 学校でも塾でも先生達は一様に「運動部の追い上げは毎年楽しみだ」と言っている。先生達の好きなのは医学部や難関校狙いの看板を背負ったスペシャルに優秀な生徒と、ミチヒサ達の様なトリッキーな受験スプリンターだ。以前からチマチマとしか積み重ねられなかった私達なんか、決して眼中には入らない。

「俺、文系科目ダメなんだ。教えてくれな」

「私は全部可哀想な成績だよ。逆にどの科目でもいいから教えてほしいくらい」

「本気か」

 ミチヒサがゲラゲラ笑った。隣にいた野球部の友達も「ミチヒサも俺も酷いもんなあ」と、もっと笑った。

 それにしてもミチヒサ達はとても目立つ。競技で培った威風堂々ぶりが凛々しさへの空目となるというか、とにかく華やかな女の子達がよく彼らの周りに集った。そういえば嘘か本当かは知らないけれど、野球部はシーズン中は恋愛自粛になるという噂もあった。

 つまり、ミチヒサ達は晴れて解禁なのだ。最近のサカ高三年の雰囲気は、ガッチリ受験モードの子と高校生活最後のチャンスを貪る子の二通り。即席のカップルも増え、学年フロアには妙な勢いがあった。

 ミチヒサに告る女の子も見かけた。その子とは違う女の子と歩くミチヒサも見た。

 その姿は当然目立った。それは部活をしている時とは違い、どれがミチヒサの本気なのかは、私にはさっぱり見えなかった。ただ、私の知る彼とはもう違う人だという事だけは、ヒシヒシと思い知らされた。


 秋が急速に深まる塾の自習室。薄い壁で小さく区切られたスペースで、解けない数学を前に私はガッツリと暗くなる。

 努力の報われない成績にもガッカリなのに、個人面談では塾長に「すっかり停滞しちゃってるねえ」と失言されたというオマケまで付いたからだ。

 そこを何とかするのが塾の仕事なのに。勉強の仕方を工夫しろと言われても、何をどうすればいいのか、まるでサッパリわからない。ただ苦手意識だけが降り積もって苛々して、妙に泣き出したくなった。

 でも本当は、それだけじゃない事も判る。ミチヒサの別人ぶりの事実に、私は勝手に拗ねている。

 今日はまた違う女の子と仲良くしていた。

「ミチヒサって誰と付き合ってんの?」

「いや、特定はいないらしいよ」

「は。じゃあ最近は取っ替え引っ替え?」

「さあ」

 皆の無責任な噂もムカムカ聞いた。

 そして自習スペースの小さな世界で無意識に思い出して、脳内で勝手にぐるぐる回す。

 いけないいけない、時間が勿体無い。そう思い直しても、心が、身体がちゃんと動かない。それでまた落ち込む。なんて馬鹿げた悪循環。

「カオリちゃん、今日はどうした? 具合悪い?」

 白衣の似合うチューターのお姉さんに優しく聞かれても、「数学がわかんないんです」と、愚痴を溢すしかなかった。

 だってどうしようもなかった。何より気付いてしまった。私は自分の基準をミチヒサにしていた。野球部に入る前の、小学校の時の小さい彼。同じスタートラインに私の近くにミチヒサはずっと居ると、勝手に思っていたのだ。恐ろしく身勝手に、なんでもわかる筈だと思い込んでいた、痛い馬鹿だ。

 私をおいてグングン先に進むミチヒサの背中は、もう随分遠くだ。何も出来ない何も成長していない自分に今、ただ打ちのめされているだけなのだ。

 塾の帰り際、チューターのお姉さんに「とにかく今夜はちゃんと寝るんだよ」と、砂糖漬けのゼリーをこっそり分けて貰った。デパ地下にしか売っていない、赤いイチゴと橙色のオレンジの、濃くて甘い綺麗なお菓子だ。

(大学生になればこんなに高級なお菓子をいつも食べられるのかな)

 いつもなら嬉しい気分になれる小さなプレゼントにまで拗ねた。今日の私はとことん嫌な奴だ。


 電子辞書の電池が切れた。買って帰らないといけない。でもコンビニに寄るには私鉄の高架下を通らないといけない。そこは暗くて不気味なので、出来たら一番避けたい道だ。

 駐輪場でミチヒサが友達と話していた。帰る方角も同じ町内だし、一緒に歩いてくれないだろうか。でもひとり拗ねて泣いて怒ってぐちゃぐちゃの気持ちでは声を掛けたくなくて、ミチヒサを追い越してズンズン歩いた。

「よ、カオリ、帰るの?」

 すれ違いざまにミチヒサに呼ばれた。でも声を掛けられたこと自体が久し振りな気がする。その事実にまたムッとした。だけどそれで腹が立つなんて何様なんだろう私は。

「うん」

「ひとり?」

「コンビニに寄らないといけなくて」

「なら高架下通るじゃん。女の子ひとりで歩いたらアカンだろ」

 ミチヒサは友達に「じゃあな」と言うと、すぐに私の隣に来た。その姿は昔と変わっていなかった。でも隣に来たミチヒサの背は、以前よりずっと高い。肩に担ぐ野球部の名入りの銀色の競技鞄が、三年らしく使い込まれて鈍く光る。今夜は晴れなのに雲も少しあって、月の姿は見えなかった。

 高架下はやっぱり暗くて怖くて不気味で、二人で小走りで通り過ぎた。

「もう、ここ、なんで街灯も無いんだろ? オバケ出そう!」

「うん、これはガチで危ない」

「ね、ヒドイね」

「家まで送っちゃるからな」

 それは今の私にとっては息が止まるけれど胸が痛む、どちらかというと不愉快な響きがした。暗闇が怖いのが幸いする言葉というか。

 返事をしないまま高架下を過ぎる。暗闇をムッツリとひたすら歩く。コンビニが近づくにつれて、目が潤みそうになる。灯りが目に染みる。何故かまた苛々が襲ってくる。

「ミチヒサ、最近なんか軽くない?」

「んー?」

「さっきもすぐ送っちゃるーとか言っちゃって。急にくだけたよね」

「うあ? でももうこんな時間だし、ひとりは危ないだろうよ」

「彼女とか出来てたんじゃないの?」

「はああ、何だソレ」

 ミチヒサがものすごーく呆けた顔をした。

「だってミチヒサ、最近いろんな女の子と仲良しだって聞いたよ」

 久し振りのお喋りがこんな話題だなんてめっちゃ嫌だ。だのに途端に「うはー」と笑われた。

 なんだその笑いっぷり。てか何故だろう、その瞬間にミチヒサが小学校の時より遥かに遥かにアホウに見えるのはどうしてなんだろう。そうだ、私の知っている小学校の時より、段違いに幼くなっている。なんということだろう。


「野球部の課題だったんだよ」

 課題ってなんだろう。

「引退式に遊びに来てくれた先輩がさ、『彼女無しの奴は女の子を誘って十回一緒に帰りなさい』っていうんだよ。これからはコミュ障が一番やばい、お前らはもう群れるんじゃない、ひとりで動ける様になれ、って」

「は」

 ミチヒサの説明がイミフ半端なくて固まるしかなかった。

「俺はそうでもないんだけどさ、女子と喋った事もないようなのもまだまだ居たわけですよ、野球部には」

「ウソでしょ」

「マジです。で、このまま高校を卒業するな、大学生活舐めんな、って大層厳しく」

「なんか小学校みたいだよソレ!」

 せんせいのいうことはききましょう。

「そういえばあの先輩は教育大だな。関係あるのかな」

 もうちょっとじぶんのあたまでかんがえましょう。

 てか何やってんの? この人達って馬鹿なの? なんでナンパを推奨するの? てかなんでそんな話を鵜呑みにするの? あの夏あんなに光っていたコイツらは、本当はカスだったの?

(待てよ、体育会系は先輩が絶対だから)

 絶対服従の悲劇、いや喜劇だ。今度は私がものすごーく呆けた顔をした。そうだよオトコって馬鹿なんだよとミチヒサはアッサリと認めた。それから「そんな怒るなよ」と嘆いた。

「俺らずっと慌ただしくて、一部を除いては誰かと付き合う暇も無かったし、理数科なんて女子も少ないんで、まずは慣れましょうという事になって」

 馬鹿だと思った。

「で、文系クラスの奴が趣旨に賛同してくれるお嬢さん方を募ってくれて、その皆さんと順番に」

 ものすごーくものすごーく馬鹿だと、ものすごーく思った。

「そういう絶対零度みたいな目で見ないでくださいよ」

 呆れ果てた感情を隠し様がなかった。


 ミチヒサの課題は、私でちょうど十人目なのだそうだ。

「カオリのお陰でクリア出来た。助かったよ」

「本当に馬鹿だよ!」

 ならば今夜は家までガッツリと送っていただこうじゃないか。でもミチヒサはちゃんとモテていた部分もあった筈なのに。

「色々あるんだよ」

 例えばせっかく告られたのにその子の事は別のチームメイトが狙っていて、その手前受け入れる事は出来なかったとか。

「それって同調圧力じゃ」

「特別好きでもない子の事でチームメイトと張り合ったらそれこそ馬鹿だろ。レギュラー争いとは違うんだし」

 ミチヒサはこの課題を通じて、異性との安易な関わりは非常に面倒だと大層思い知らされたそうだ。


 コンビニで買い物を済ませた後に家まで送ってもらい、別れ間際に塾で貰ったお菓子を分けた。

「お礼にあげる。どっちがいい?」

 出したイチゴとオレンジを選ばせる時に、ミチヒサの指が私の掌に触れた。指先の爪が以前より荒れていない。

「高級なお菓子だな」

「塾で貰ったの」

「お金持ちなご父兄の差し入れかな」

 硬くなったマメはまだ指の付け根に並んで出来ているのだろうか。野球を沢山頑張ってきた掌をじっと見る。

「まだ掌って硬い?」

「全然。使わないとすぐ柔らかくなるよ」

「そう」

「でもカオリ、本当はそういうの興味無いだろ」

 やっと機嫌も戻ったなと笑われたのだけど、意味がよくわからなかった。

「さっき怖かったぞ」

「うそ」「本当」

 ミチヒサは「また送っちゃる」と、帰っていった。


 空には雲が消えて、やっと月が見えていた。ミチヒサは変わっていなかった。でもすごく変わってもいた。私はミチヒサの背中を見送った。心の中でばーかばーかと言った。

(ばーかばーかばーか)

 でも何が馬鹿なのかはわからない。

 やっぱりミチヒサは私の前を走っている気がした。追いついて抜かしてやると誓った。




 おしまい

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