はかりかねる押し切る
「多少呑めた方がいいんだけどな」
「そうだけど、でも、わかるでしょ」
「あー、うん」
従兄妹のアキは口の中でグニャグニャ溢した。それから「ユキばっかり難儀だ」と呟いた。
目の前には食べ頃のグレープフルーツと、バイトの打ち上げで貰った黒猫ボトルの白ワインがある。遊びに来たアキに「あげる」と渡したら「せめてここで呑ませろや」と拗ねた。
本当は私も体質的には呑めると思う。だけど周囲には「パッチテストで陽性」で通している。難儀な理由が別に有るけれど、話した所で誰が信じるだろう。広い意味での「体質」と説明するのが一番いい。
私のワンルームの下宿。アキが持参したコンビニのチキンを皿に開けて、私の好きなバニラアイスを冷凍庫に入れた。久方ぶりに会ったアキはまた逞しくなっていた。大学野球では毎回ベンチ入り。プライベートも慌ただしいのか、今宵も「やっとの思いで」来たと言った。
私は自分の変化がわからない。だけどアキはどんどん変わる。長くて引き締まった腕の動きも、良質な肉体の見本のようだ。有機牧場の家畜よりきっと、アキを焼いた方が美味しいと思う。
狭いキッチンで炒めたり和えたりする私の傍、アキはグレープフルーツを半分に切って絞り器に押し当てる。果汁が溢れる。酸味の粒が飛ぶ。
「ワインと割るの?」
「ユキは果汁だけな」
「うん」
私の返事を聞くと黙って、また作業に入る。
乱雑な机の上、教科書と文具とパソコンをどかし、麻のキッチンクロスをひく。アキはまだシンクにいる。向こうでワインを開けた途端、馥郁とした香りが部屋中に広がるのがみえた。途端に私の中の反応したくない触感が、じわじわと大きく開く。着火剤だ。せっかく気付かないフリをしていたのに。もう抗えなくなった。
アキの背中に、肩に腰に、とぐろを巻く様々な念がグルグル視える。
「なんだ」「ん?」
「またあったのか」「ん」
視たくなかったのに。アキは「はっ、馬鹿じゃね」と、冷たい声で全て笑い飛ばした。するとその念は途端に離れた。
あんなに大きなモノに巻かれたら、普通ならば負けるだろう。でもアキは丈夫で体軸が綺麗で、持って生まれた運も強い。滅多な事には反応しない鈍感さ、勝ち進む強靭な精神も。
気付いてしまう方が危ういのだ。知らない方がいい。だのに私はいつも除けきれず被る。アキと比べて身体も弱く、抱える業も重いからなのか。
祓いたくて素焼きの豆皿にとった粗塩を舐めたら
「あ、グラスに塗ってみようと思ったのに」
アキにたしなめられた。カクテルもどきを作りたかったらしい。
「酒の肴かと思った」
「まだそこまで極めてねえ」
「ふうん」
既に毒気にあてられた私は、ラグを敷いた床に横になる。
(あ、もうキた、早い)
目が回って不愉快になる。
アルコールの存在理由は、開放させて、繋がりやすくさせる為だと思う。だから祭祀にはお酒が付き物なんだろう。何処かに飛んで違う世界と結ばせる何か。毒でもあり薬でもある何か。そんな感じに違いない。
(今日はいつも以上にダメ)
ううん、でも私のこれはアルコールの香りのせいじゃない。アキが居るからだ。私の感度が悪い意味で上がるからだ。はたから見れば、それに合わせてしまう私が悪い。でも自分の本質を変えるなんて、言うほど容易じゃない。単語の羅列なんて軽い。
生きてゆくって面倒だ。こんな性能を抱えて過ごすなんて厄介だ。それから男女が対だなんて、よく出来ているなあとも思う。だけどこの場合は、私だけが辛くて困る。
曲がり角だったのは中三の夏休み。それぞれの友人との四人で出掛けた海の帰り。最初からそのつもりだった友人カップルに巻かれて放り出された遅い時間、アキのおじさんに駅まで迎えに来られて、急遽泊めてもらった夜。
従兄妹同士、ずっと身内だったのに。だけど成長に伴って変わるから。扉を開けておいたのは私だから。だけどアキも、察していたから。
あの時、アキも変わる心境に戸惑っていたと言った。アキはまだヒョロリと細かった。背は私よりは高かったけれど、昔から手足が長くて肩幅が広くて。日焼けはクラブ野球を始めてからずっとで。
だけど絡み合う動作のもたらす意味を、『初めて』で正確に理解したのはよかった。私は誰かと安易にそうなりたいとは一切思わないから。繋がるのは本来は、繁殖する為だから。でも私だけがそうだったかもしれない。だけどその事はもう、怖くて確かめようがない。
アキは変わらず優しかった。ガムシャラに終えた後、お互いを大事に想って新学期を迎えた。これからはもっと私も優しくありたいと思っていた。
どうして突然視界が変わったんだろう。何かの病気かと思った。日常には不要な、誰かに向かう好意や羨望や嫉妬や蔑みや策略、それが電波のように縦横無尽に蠢く様が四六時中、否応無く視えるようになった。私の曲がり角たる所以。
それがアキにも容赦無く降りかかっているのも視えた。だけどそれを無意識にいとも簡単に払いのけるアキの気の強さも視えた。私は立ち尽くすだけだったのに。それがこちらに向かって来るのが怖くて仕方がなかったのに。
それは誰でも無意識のうちに飛ばし合うモノだけれど、気づかなければ何も怖くはないだろう。だけど私は視えてしまうので、どうしようもなかった。
そして母はどうしてわかるんだろう。どうしてそうなったかも。どうして親は気付くんだろう。どうすればそれを避けられるかも、どうしてわかるんだろう。
「気に留めない事」
「でも視えるんだもん」
「意識を高く持つの。相手に合わせないように」
「相手にって?」
「相手の、汚い感情に合わせないように」
汚い感情ってなんだろう。それを捨て去れば私も攻撃されないだろうか。
だけど母は、私とアキの事には戸惑った顔をみせた。どうしてそんな顔をするんだろう。
「自分で選択なさい。ただ、自分をあまり傷つけない様に。女の子の方がやっぱり後で辛いのよ」
でもアキとは離れたくない。だのに会う度にこうなる。アキにも話して二人で中学卒業まで苦しんで、高校は違う進路にしたのに。それなのにまだ、会う度にそうなった。大学に入ってからも会う度に。そして今夜も。
「大丈夫か、トイレ行くか?」
「……ん」
私はいつも簡単に、アキに絡まるそれに気圧される。アキが跳ね返した意思。それは見知らぬどこかの女の子だったり、今アキと関わる同期の誰かだったり、アキを忘れられない誰かだったりする。髪が首筋に纏わり付く。生きているモノが一番怖い。
「アキは相変わらず活躍してるんだね」
「オレ、別に何もしてねえよ」
でもコレは本人に関係なく、不本意に届くのだ。ただアキはそれを跳ね返すのが格段に巧い。そしてそれをわざわざまともに被る私は情けない。
「手伝おうか。悪酔いの扱いなら合宿所で慣れてるから」
「ちょっと違うからいい、見られたくないから出てって」
「じゃあ待機してるから存分にやれ。ヤバかったらすぐ呼べよ」
アキは洗面台のウオールポケットからシュシュを取ると、どうしようもなく座りこんだ私の髪を、汚れないように後ろで纏めた。ドアを閉めてもらい、ひとりで存分に苦しんだ。
合わせなければいい。母に言われたように、意識を高く持てばいい。でも意識ってなんだろう。アキを自分のモノにしたいヒト達と私は、何処が違うというのだろう。
「俺、これから戻るけど」
アキに声を掛けられる早朝。テーブルの上には、私が寝込んだ後に必ず欲しくなる、薄切りのバタートーストが置いてある。
「悪かった」
謝られると困る。
「アキは悪くないよ」
反応してしまう私が悪い。だけど視ると今朝のアキの気配は昨晩よりずっと綺麗にクリアになっていた。昔からアキは、私に会うと気分が良くなったという。特に初めてのあの時は衝撃だったと。こんなに気持ちが身体が軽く、綺麗になるのかと。
それを私がどんな思いで聞いたか、あの時のアキはまだ知らなかった。だけど今は全てを承知で、だから私に会う度に謝る。私はアキに溜まった気を全て貰い受けて、その都度具合が悪くなる。
横になっていると、お腹がぺたんこになっているのがわかる。食べないで出して横になって受け入れたから。病み上がりだ。また一日が始まる時間。
楽になりたい。母の話す高い意識の持ち方がわからない。それはどうやって持つの。受けるモノをどうやって捨て去るの。
だけど知らない間に私も飛ばしているから。アキを縛りに行くから。アキもそれを跳ね返してくれたらいいのに。どうして受け取るの。どうしようもない絶望に泣き喚いて打ちのめされて終わりたいのに。辞めたい。だけど辞めたらもっと辛い。だって本当は何もかもを独り占めしたい。やっぱり意識を上げるなんて出来ない。私も誰とも変わらない。
身体は正直にお腹を鳴らすので、冷めて湿気ったトーストの耳をモソリと噛む。バターの塩気と濃い油で体温を戻す。日が昇る。母にあんな顔をさせた訳がなんとなくわかる。でも自分で決めなさいと言われているのも判る。
どこで引き返そうか。このまま行こうか。アキも私に飛ばしている。昨夜からずっと、身体の芯から手足の先まで、アキが私の全身に纏わり付く。執着する。私もする。絡まって、また染み付くのだ。
おしまい




