未完の予感
「なんというか、業の深そうなコだね」
最終面接でお偉い方に不可解な褒められ方をされた後、程々の評価をいただける作品でデビューした。十代の頃の話だ。
すぐに後援の『おとうさん』が出来た。あっという間に流れに呑まれ、虚像に良心が痛み、己の底の浅さにも憂いた。けれど、畝る何かに抗う術は無かった。
火遊びをする。今はインターバルも判る。朝方の霧。深遠の杉。
「ニンゲンの幅なんてサッパリわかんない」
仕事の悩みが思わず溢れる。毛布を分け合うリョウスケは硬く柔らかく温かい。
「だって私、家族で困ってないし、ギリ中流家庭だったし、複雑な事情も無かったし」
「そういうのって育ち云々より、持って産まれたモノの方が大きいんじゃないの。資質みたいな」
「資質」
「でも芸能って一般市民にはわからない世界だな、どうなんだろう」
リョウスケが起きて、隙間に涼しい風が来た。
「でもアツコに過分な心配は不要だと思うよ」
私の頬を撫でると「先に行くよ」と床を出た。
朝方の涼しさに私はもう一度目を閉じる。風情のある谷間の山荘。都心を少し離れただけで山だの湖だの管理人だの、相続される真の贅沢さにはきっと生涯馴染めない。いいえ、うっかり庶民が馴染んではいけない。きっと戻り損ねて滑落する。
きっと誰もが大変。夕べ聞こえた寝言は仕事絡みだったような。糊の効いた木綿のシーツに包まり直す。
リョウスケの日常は私とまるで違う。事情なんてひとによって違う。私は夢の続きを追いかける。車の音が遠ざかる。リョウスケが先に街に戻る。
業の深さの意味を図り兼ねる。
『おとうさん』は、私の火遊びを観て愉しむ。だってきっかけを作ったのは『おとうさん』だから。花火の見物がしたそうだなと、私も空気を読んだから。
だけどリョウスケは妙な所で生真面目で、初見で引き返そうとした。
「有名な方はちょっと。世間に見つかるとコトなので」
その時に笑ったのは馬鹿にした訳では決してない。逆に今となっては、あの時退くべきだったと少し思う。
「この環境を泳ぐアナタを見るのが好き」
誰にも真似できない大きなお仕事と、誰もが羨むご家庭と、私を摘み食いして不安定にユラユラしている不器用なリョウスケを見ているのがとても好き。初めの終わりにそう伝えた時、酷く困った顔をした。だけどそれでも甘い表情だと、シーツの中からそっと見惚れた。バニラアイスに掛けるエスプレッソのほろ苦い甘さ。もっと苦い何か。
でもあの言い方は適していなかったかも。
「本気と書いてマジってヤツよ。リョウスケさんはピュアで、どうにかなりそうで怖い」
どうとも取れない私の呟きを『おとうさん』は笑った。ううん、嗤われた。『おとうさん』には順調に面白がる。
「おとうさん女衒みたい。そんな大事な甥御さんに私を合わせるなんて」
「大事な甥っ子だからこそ、何処の馬の骨か判らないモノに寄られたらその方が困る」
「ハニトラ防止なんだ。私は防波堤代わりか」
「アツコなら安心だから」
「何故」
「アツコはリョウスケが大好きなタイプの女の子だし、何より身元がしっかりしてる」
「私の身元引受人はおとうさんでしょ」
『おとうさん』は返事の代わりに分厚い本を出した。
「良い仕事が来たろう。この作家の解釈がいいから読むといい」
私は本をめくる。余裕の有るフリをする。世の中には私の知らない世界がまだまだ沢山ある。
中二の時の担任はいい先生だった。部活で仲間外れに遭った私を巧く演劇部にシフトさせてくれた。私の今に続くキッカケがそこにある。
それに感謝しているのは私だけじゃない筈だ。どんなトラブルにも誠意を持って接してくれるひとだったし、誰もが関わるのを嫌がっていた問題児にも、真正面から対峙していた。出来はともかく、その人柄が学校中の生徒に好かれていた。良いひと過ぎたから、倒れてすぐに逝ってしまったんだと思う。良いひと程早くいなくなってしまう。
私は良いひとでは無いから、生き残れると信じている。
「アツコちゃん、これ」
空いている時間、メイクのナカニシさんが、買いそびれていた限定版のブラシを譲ってくださった。
「わ、本当にいいんですか?」
「どうぞ、どんどん使ってみてね」
「ありがとうございます! じゃあ今度何かお礼させてくださいね」
ふわふわの毛先を指で確かめていると、ナカニシさんは私のトートからはみ出る資料を見ながら言った。
「アツコちゃん、大きなお仕事が来たのね。お勉強大変ね」
「身に余る光栄です。でも時代背景がもう複雑でわかんない」
「俯瞰が難しいらしいね。そうそう、今度撮影に使うお店が老舗の喫茶店なの。そこで息抜きも出来るといいわね」
「きゃー楽しみだー」
「ホットケーキがとっても美味しいのよ」
「わーがんばろうー」
ナカニシさんも良いひとだ。でもここまで生き残ってきたひとだ。ナカニシさんには是迄に何があっただろう。
「リョウスケに借りた古い文庫本が一番勉強になるの」
「日本史の?」
「うん、でも活字が小さかった。昭和五十八年発行」
「伯父が昔読んでいたみたいだよ。確か続きもあった」
久方ぶりの逢瀬はまた山荘だった。でも私は街の新しい何処よりもここが一番好き。さらさらのシーツが気に入ったので、どこの製品か聞いたらもう廃番で手に入らなかった。
だけどリョウスケに会えるのは本当にマチマチで、会うまでにどんな顔だったのか本気で忘れてしまう。会うとこんな風だったんだと、いつも新鮮に思う。
この山荘がとても好き。どうしても欲しくなる。
「買うとどれ位掛かるのかな」
「維持が面倒だよ」
「リョウスケのご家族はここをよく使うの?」
「歴代のこども達の長期休暇かな。後は接待、スキーやゴルフのお客様とか」
「いいなー」
私はシーツの海でジタバタとバタ足をする。だけど前には進めない。
「いいなー欲しいなー」
こんな山荘が。リョウスケの隣の居心地の良さが。ずっとこのままで居たい。もっと会えたらいい。
「どうしよう、欲望が止まらないよ」
「じゃあ出来るだけ手に入れるのは後がいいね」
「どうして?」
「簡単に手に入れると醒めるのも早いよ」
その台詞を聞いて、私は瞬時に跳ね起きる。今、胸に突き刺さる言葉を聞いた。
「リョウスケありがと。私、もっと勉強するわ!」
枕元に置いた文庫本を手にとった。
「経験の浅い私にこんないい役をくださったんだもの!適当な準備じゃダメよね!」
「は? これからまた読む?」
「私に火をつけたのはリョウスケよ」
リョウスケは無言で私から本を取り上げると灯りを消した。その後私を引き寄せると、いつもの濃い動作に移った。私はリョウスケの台詞を何度も頭で反芻した。
(簡単に手に入れると醒めるのも早い)
リョウスケに腕を回す。温かくて重くて心地いい。夜は重い。
老舗の喫茶店の気配は、重厚なのに優しかった。いい案配にくすんだビルの二階だったので、窓からは街の流れが見えた。
「惜しむらくは正面の景観がコンビニな所ね。以前は雰囲気のいい紳士服店だったのよ」
ナカニシさんは歩道を見下ろしながら教えてくれる。
「でも、ここだけ時が止まっていて素敵」
撮影の後のご褒美のホットケーキと紅茶を前に、所在なく外を眺める。途中、ナカニシさんに呼ばれているのに気付かなかった。
「ごめんなさい、ボンヤリしてました」
「アツコちゃん最近元気ない?」
辻占いしようか、ナカニシさんが誘ってくれた。
「街の声から自分へのメッセージを受け取るの。例えば無意識に目にした看板、広告……すれ違う人の気配でもいいのよ」
「じゃあ、私はあそこのコンビニから出てくるひとにしようかな」
私達は揃って正面の出入り口を見下ろす。
「今から五分後、最初に出てきたひとで占います」
「おけ、じゃあ計ろうか」
ナカニシさんの腕の金のアンティーク時計で五分間待った。だのに出てきたのは、チキンを咥えた茶トラの猫だった。
「なんで猫!」
「こんな街中でウソみたい! 誰かに買って貰ったのかな」
涙が出る程笑った。こんなに笑ったのは久し振りで、お腹の筋肉がよく動いた。可愛いのか図々しいのか、ちゃっかりしてるのかわからない。
私にある業の深さって、ああいう感じなのかしら。
『おとうさん』とも、ちゃんと会う。
「リョウスケさんって、やっぱりおとうさんと似てる」
「そりゃ、身内だからね」
それだけじゃない気配も感じる。でも触ってはいけない血縁もあるかもしれないから、黙る。欲しい衝動が過分に押し寄せるので、出来るだけ後で手に入れようと心掛ける。
(今の私は業だけが深いかもね)
生きてゆくのに役に立つ武器も多分、ひとによって違う。あの時の茶トラの戦闘能力はなんだろう。機会を待つ。またあの山荘に行きたい。
おしまい