なくよウグイス
今日も晴れやかな青空が広がっています。緑が下から上に、ほうほうと伸び始めています。ぐるりを取り囲むなだらかな曲線も、薄い緑に染まり始めています。その中のひとつ、最も綺麗な三角形の美しいお山は、この辺り一体を司る神様のおわす、誰も入ってはいけない神聖な領域です。
私はそのお山を川の畔から眺めるのが好きでした。流れる水はまだ冷たくて、だけど華やかな春の水面が輝きます。鶯の声が聞こえますが、まだたどたどしい鳴き方です。私の足元には木蓮の大きな白い花弁が落ちてきます。イヌフグリもタンポポもずっと、風とお話をしています。
今宵は新月です。私の元に、夫となるひとが訪ねてきます。首長である父が西集落と取り決めたのが年明け、最初に大雪が降った後です。この祝言は互いに非常に有効だ、そう聞かされても私は、ただ(ふうん)としか思えませんでした。
それから母や祖母、伯母も姉もがずっと、宴の準備で忙しそうでした。本当は私が一番忙しい筈ですが、今だけほんの少し、なんとか抜け出しました。今夜からオトナになる。それは窮屈なしきたりの羅列です。そんなに急に変われるものかしら。
(よくわからないわ)
ただただ息がつまります。
私は今まで好きなひともいませんでした。私に合図してきた男の子も何人かはいましたが、まるでその気になれず、その度に周囲には「お前は随分と幼いな」と呆れられました。そんな毎日の中、末っ子だからと甘やかされ、ノンビリ過ごしてきましたから、いよいよ年貢の納め時でしょうか。
(わからないわ)
こどもの証としてずっと長く伸ばした髪。夕方には根元から半分の長さは結って、朱い紐で括る下半分は編んで垂らしておさげにします。今宵夫となるひとがその垂らした部分の髪を切り己の腰紐に結え、それが祝の真となる。髪には代々のご先祖の神様が宿っているそうです。
「こんな糸屑に、ほんと?」
軽口を叱られたのも一度や二度ではありません。集落には見えない世界と対話するひとが大勢いて、彼らはいつも私に言います。
「貴女は知ろうとしないだけ。ご先祖は貴女の全て見抜いておられるよ」
その問答もまるで理解出来なかったけれど、面倒な事だけは納得しました。
川の対岸をいつも、行者さま方が歩いておいでです。お山の結界を護っておられるのでしょう、白いお着物を着て、修行の文言を唱えておられます。
今日もひとり、お若い行者さまが歩いていらっしゃいました。
(でも、あの方は初めて見る行者さまだわ)
私はよくここに来てお山を眺めていましたから、何人かの行者さまは見知っています。今日の方は最近行に入られたのでしょうか。随分と見目麗しい方です。
そう、見目麗しい。この言葉を私は今まで実感したことが無かったのですが、この時初めてわかりました。そしてその行者さまから目が離せなくなりました。心が吸い寄せられると言いましょうか、そのお方を見れば見る程幸せな気持ちになりました。それから胸が熱く、痛くなりました。
スラリと背が高く、整った鼻筋や涼しげな目元が遠くからでもわかります。川をはさんではいますが、距離がそれなりにどんどん近くなります。相成って私の胸がこくこくと鳴り響きます。頬が熱くなるのもわかりました。こんなに綺麗な殿方が、どうして厳しい行に入られたのでしょう。
いよいよ最も近付いたと思った時、その行者さまが真っ青なお顔をしておいでなのに気が付きました。そして立ち止まると、こちらを、私の居る対岸を向いて、より一層熱心に文言を唱え始めました。震えた泣き声です。こちら側に何があるのでしょう。この辺りが拝み処だとは私は一切聞いていません。
(まさか私に向かって? 私、何かある?)
祝言を控えた身なのを思い出しました。それ故に何かを背負っているのだろうか、一瞬そう身構えてしまったのですが、でもどうかは判りません。慌てて周囲を見渡します。だけど変わったものは何ひとつ見当たりません。あるとしたら私の後ろの大きな白木蓮でしょうか。背の高い幹の上には白い鳥に似た花が咲き誇っています。
(もしかしたら、目に見えない何かに向かってのお祈りかしら)
そうかもしれません。きっと何かがあるのでしょう。行者さまは泣いておいででした。暫く唱えると、また歩いて行かれました。当然ですが、私の事は見てはいらっしゃらなかった。鶯もずっと鳴いていましたが、鳥は鳴き方がまだまだ上手ではありません。しかし、私の胸だけが早鐘です。
「こんなところに居たの? 探したのよ。早く戻って。今日はうんと忙しいのよ!」
姉が私を迎えに来ました。私はお山を振り返りながら、村に戻りました。
新月の夜、宴が始まりました。私は綺麗なお着物を七重に着せられ、新居となる床の間にひとりで静かに座ります。
外からは厳かな祝詞の後、美しい楽器の音、伯父さんの唄う声、それから皆の賑やかな様子が伝わります。聞こえる音は全て見知っています。幼い頃から何度か出席した、従姉妹や姉達の祝言を思い出します。
(筍のおこわ、食べたいな)
今宵がいよいよ自分の番。緊張で息が止まりそう。出来るだけ違う事を順番に考えます。それから、お昼間の行者さまをうっかり、ついうっかり、思い出してしまった。
(お綺麗な方だった)
だけど彼の方は行者さまで、修行の後には一生神様に仕えるお方で。でもこれはただの感傷、きっとこども時代との決別の象徴。
一層のどよめきの後、新居の扉が開きました。金属と布の擦れる音がして、夫となる方の影が見えました。小さな灯りが四方を照らす薄暗い部屋。入室されて、初めてお顔を拝見しました。あの行者さまとそっくりな、背の高い殿方。私は夢を見ているのでしょうか。
「はじめまして」
「お昼間に」
「え」
「お昼間に、貴方さまとそっくりな行者さまをお見かけしました」
「行者?」
「はい、お山の、川辺で」
婿さまはひどく驚かれました。でもその後すぐに顔を引き締めると
「……それは今話す事でもないので。早速失礼します」
そう言うと、私の垂らした髪に触れ、綺麗な小刀を使って儀式を始めました。ざくざくと音がして、おさげ髪が落とされました。その後婿さまは腰紐にそれを結え、
「千代に八千代に、よろしくお願い致します」
お互いに挨拶を交わしました。
私はずっとこどものままだったので、うまく鳴けませんでした。あの鶯のようです。
「私は大人になるのが下手なようです」
朝方、恥ずかしさを誤魔化す為にそう戯けて溢しました。
「そうですか?」
床の中で婿さまは暫く私を見て頬に触れ、
「お互いに少しずつ慣れればいいと思います」
そう淡々と呟きました。なるのでなく慣れればいいと。もう夢ではありませんでした。幼い有頂天さを蹴散らす落ち着きです。
「あの者は私の兄にあたります。私の業を全て引き受けてくれました。今は木蓮の花が髑髏に見えるそうです。早く修行が進んでほしい」
婿さまは私より歳が下でした。
「私は兄の分も、倍生きなければならないのです」
「倍ですか」
「そうです。長さだけでなく、濃さも」
私は婿さまの横顔を見つめました。やはりあの行者さまにとてもよく似ておいでです。婿さまもまた、充分なお覚悟を持って、ここにいらしたのです。
地に足を着けた生活が始まります。見えるものも見えないものも、合わせて受け止められるようにならねばなりません。どうにもよくわからなかったけれど、川の対岸にも想いをはせます。
里でも鶯は鳴いています。今朝鳴いている鳥は美事な鳴き声です。木蓮が白く、美しく咲いています。私は先達を見習います。
おしまい