恋の鳥 桜の空
例えば、使い古した鏡が、とあることで割れてしまうように。ガシャンという音が耳に響くまでが、緩やかな時間に放り出されたような心持ちと、あの錯覚と。それは、私の今まで抱えてきた感情を、全て覆すかの如く、どくりと鳴った。全身の血の巡りが実感できて、じわじわと頬が火照っていく。
ああ、空が割れた。空の鏡が割れてしまった。妙なことを思って、だが現に夕歌の心には、冷たい破片が熱を保っているかのように思えた。それでも、その破片は決して夕歌を傷付けるものではなく、むしろ必要な痛みだと感じる。つまり、恋をしたのだ。夕歌にとってはこれまで18年(現在夕歌は19歳だ)生きてきて初めての感情で、故に、彼女には天変地異が起きたと思うに申し分ない、恋情なのである。
「……東条先生」
一目惚れした相手の名前を、夕歌は脳と心臓とに、ゆっくりと染み込ませていく。
そう、夕歌は、大学の教授に恋に落ちたのである。年は30代前半の、一見カッコいいとは言い難い見目の、表すならばオッサンだ。それでも夕歌は、恋に落ちた。確かに、一目惚れしたのだ。
*
「……一目惚れの語源を知ってるかい。まず最初に、戦国時代の有名な武将、伊達政宗の話をしよう。彼は、幼少期に右目をなくし、それで独眼竜とも呼ばれていたと記されているんだ。そして彼は、城下町ですれ違った女性を見ただけで惚れた……その説から、一目惚れとは、文字通り『ひとつの目で相手を見ただけで惚れた』伊達政宗から生まれたとされているんだよ」
にこにこと楽しそうに雑学を語ってくれる教授を、夕歌はほおっと甘いため息を吐きながら見やる。教授の低温ボイスは、聞く人によって子守唄になるのか、何人か眠たげにしているものも多い。そんな中、ある意味眠そうに見えるだろう細目で、夕歌は教授を眺めていた。脳内には、ただひたすらに彼への賛美が浮かぶ。
「あれ……今の話、余計だったかな」
ちらりと時計を確認しながら呟いた教授に、夕歌は叫びたかった。
いいえ、全然そんなことありません!貴方の声が聞けるのならどんなに時間をくったって!
言葉の変わりに、夕歌はさっと姿勢を正し、真面目くさった顔でしっかりと前を向く。それに気付いたのか、教授は苦笑した。
「……どうやら、眠そうにしていたわけではないようだね」
眠たいわけではないのだと反論したい気にすこしなったけれど、始めから想いがバレたら、それはそれで面倒な気もする。今はまだいい。告白もなにも、もっとゆっくりで良いのだ。何しろ、天変地異からまだ月日はあまり経っていなかったから。
*
講義が終わり、周りがやっと終わったと伸びなり筆記用具を片付けるなりしてる間に、夕歌は席を立つと、よしと心を決め教授の後を追う。
「あの、一目惚れの語源の話、とても興味深かったです! 」
私の語彙能力は小学生レベルか、と夕歌は内心自分を罵り、思ったよりストレートに心のうちを明かすようなことを言ってしまったと思うと、早速脳内反省会が繰り広げられようとしている時……
「そうか、それは良かったよ」
教授は二言残し、だがその表情は心底嬉しそうであった。
そして夕歌は、それだけで満足な、有頂天な気分を味わう。まさに今、自分は恋しているのだと悟る。
「あ……ああっ! 」
……だったのだけれど、また自分の失点に、夕歌は気付く。
ありがとうございました、と下げるはずだったことと、笑みを返すこと。夕歌には、それができなかった。ううっと唸りながら、胸の動悸を抑えつつ、道具を取りに講義室に戻る。これで、今日とった授業は終わりだ、帰ろうと鞄を持ち、まだ肌寒い春の空に出る。逃がさないぞ春、と夕歌は思う。私の中の鳥は鳴いた。ここはもう、籠の外だ。何せ、空は割れ、籠の代わりの雲は地面におち、やがて消えた。
「よしっ! 」
軽い足取りで、夕歌は歩みはじめた。生まれ変わった桜の空に、微笑んで。
思えば久しぶりの投稿です、音沙汰もなくすみません!
なんとなくスッキリした話が書きたかったので、恋愛モノに。
この終わり方…まさに「俺達の戦いはこれからだ!」と言いたげな…
いや、正確には私の戦い、ですけれど(笑)
最後に、ここまで読んでくださりありがとうございました!