ちぐはぐ
何だコレ? 何だコレ?
朝、目が覚めたら、左手がおかしかった。左手の小指の爪が、その腹に移っていたのだ。
最初は小指が折れたかと思ったぐらいだ。折れてないか確かめようと、指を握ってみると痛くも何ともない。そのかわり、手のひらには爪のあたる感触がある。
どうもよく見ると、爪というか、指の関節から上がすべてひっくり返っているようだ。
腐ってるのか? 病気なのか?
悲観的なことが一瞬頭を巡らなくもない。だがその異常な光景が、まずはうまく飲み込めない。現実なこととして認識できない。
怖々右手で触ってみると、小指の先までちゃんと神経は通っているようだ。ただ単に左手の小指の先だけが、ちぐはぐにも、その根元と正反対についているようだ。
ぐるっと一人暮らしの部屋を見渡す。何もない。役に立つとも思えないが、家庭の医学書はおろか、絆創膏一つないだろう。
医者か。と思う。お金が。とも思う。
だが仕方がない。覚悟を決めるために、俺は寝間着を脱ぎ捨てる。
なんだか脱ぎにくい。そう、寝間着を後ろ前に着ていたのだ。下着すら、お尻が前にきている。ちぐはぐな服の着方だ。
昨日の夜呑み過ぎたからか? それで、爪がおかしくなったのか? そんなわけないか。そう思いながら着替え、保険証を引っ掴んだ。
大きな病院がいいだろうと思いバスに乗った。それなりに乗客のいるバスだ。
つり革につかまり、その揺れに身を任す。つり革は右手で握った。左手は上着のポケットに無造作に突っ込んでおく。
何かおかしな病気だろうか? 手術とかになったらどうしようか? 吊皮を力強く握りながら、あれこれと考えてしまう。
しばらくすると握り続けの右手は疲れてしまい、無意識に左手で持ち替えようとしてしまった。
あっ。と思った時は、もう遅かった。ポケットから出した左手が、つり革に手の甲を打ち付ける。そう、手の甲だ。
かつん。という音ともに、つり革を揺らして宙を切る俺の左手。その手先はむなしく反対側に、何かを握ろうと閉じようとしていた。
手首から上が完全に、反対についてしまっているようだ。手首の静脈の上に、手の甲が見える。
思わず慌てて、ポケットに左手を戻す。
驚く俺を乗せたバスが、駅前に着いた。周りに押されるように、俺は運賃箱へと流された。
右手で財布を取り出していると、運転手のぎょっとした顔が見えた。片目だけはそう見えた。そう片目だけだ。もう片方の目が、運転手と反対側のドアを見ていたからだ。
前と後ろが同時に見えている。
俺はその異様な視界に、思わず顔に右手をやる。顔と後頭部の感触が、同時に伝わった。
思わず左手もポケットから取り出すが、意に反して後ろに手がいく。顔を触るつもりが、後頭部に手がいったのだ。
いや多分左手には、それで正解だったのだろう。完全にひっくり返っていた左手は、右手と同じく顔と後頭部を同時になでる。
きゃー! と、女性の悲鳴が上がった。 俺は支払いもせずに、バスを飛び降りた。
病院はすぐ目の前だ。今すぐ駆け込みたい。医者に見てもらいたい。助けてほしい。
右目で病院をとらえ、左目で驚愕するバスの乗客乗員を見ながら俺は懸命に足をこぐ。
だが一向に進まない。同じところでじたばたしている。右足は前に、左足は後ろに進もうとしているのだ。進む訳がない。
体がひっくり返ろうとしているのか? もうすぐ、右側も反対についてしまうのか? 完全にひっくり返って、自分が自分でいられるのか? 俺は別人にでもなってしまうのか?
そんな状態が続く訳もなく、俺はバランスを崩して倒れ、そのまま気を失ってしまった。
目が覚めた。どこだ? ああ、病院だ。
気がつきましたか。と、看護士が優しく俺に微笑みかける。
視界が戻っている。怖々と体を起こし、両手を前にやった。両手がきちんとついている。
だが――
「看護士さん…… 俺、服を『後ろ前』に着ていませんでしたか?」
「はい?」
「あ、いや…… ちゃんと服を着てたかなって思って……」
「服ですか? ちゃんと『表裏』間違えずに着てましたよ」
その看護士のちぐはぐな答え。
その答えに朝からちぐはぐな俺は、自分自身の朝からのちぐはぐな徒労を知った。