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海水浴場の掃除 20万円


しまった。最初に交渉すべきだった。出来高制にするべきだったのだ。僕があと5万円は上げるべきだ、と主張したときに社長が見せた笑みに嘲笑を感じたのはきっとわかっていたからだ。なんて汚い大人なんだろう。条件交渉が先、後で文句はなし、といったのを後悔する日が来るなんて。僕はいつだってお金が必要なのに。

「僕寒いの苦手なんだよねえ!」

 ヤケになって車中に届くほどの大声で独り言を言うと、フロントガラスに頭から突っ込みそうになるほどの衝撃が後ろからきた。ユミネが運転席を蹴り飛ばしたのだ。

 贅沢に2シート使って寝そべるユミネはいつでも蹴れるように僕の座る運転席側に足を向けていた。棺の中を花で埋めるようにユミネの周りにあふれるぬいぐるみ。そのうちのいくつかは、蹴り上げたときにこぼれ落ちたようだ。まだ余波で小刻みに震えるシートに背をあずけて、僕は社長の言葉を反芻する。

『念の為言っておくと、これは私の車だよ。賢い君はすでに知ってたかな―――』

 ユミネに車を蹴るなと怒鳴るか、どうか蹴らないでおくれと懇願するか、蹴らないでいてくれたら玩具を買ってあげようと懐柔するか。僕は正解を知っている。黙っていることだ。これは一種の自然災害なのだと。僕にできることはただじっとして、嵐が過ぎ去るのを待つだけ。

 幸運なことに、目的の海水浴場につくまでの間はそれ以上暴れることはなかった。僕は車から降りると、キャンプ場のときよりもうんざりした。海の近くは寒いのだ。駐車場の車は僕らが乗ってきた一つだけ。持ってきた水泳グッズセットを使うことはあるのだろうか。

 僕はトランクからいつものリュックサックとビーチバックを下ろす。ビーチバックは真っ赤なハイビスカスが大きく描かれたトートバックで、持ち手の付け根には致死量のキーホルダーがつけられていた。趣味はバラバラで、明らかにこんなところにつけるべきではない布製のうさぎとか、宇宙飛行士をモチーフにしたメタルフィギュアのようなものだとか。この理由のわからないキーホルダーのせいでバックは重かった。これを手で持ち、さらにはリュックを背をわなくてはならない。

「ゴミは捨てて」

 自分で家事の一つもしないユミネから言われるとは驚きと屈辱でひっくり返りそうだ。ユミネの視線はトートバック、主にキーホルダーの山に注がれる。

「お言葉だが、誰のおかげでここに来れたか忘れたのか? おいて帰ることだってできるんだぞ。少し楽しむくらいしたっていいだろう」

 車から降りた以上、僕は無敵だ。おいて帰る、のところでもうユミネは僕に背を向けて歩き出していた。おいていかれたのは僕のほうだったらしい。



 『シーズン外につき立ち入り禁止』。黄色いテープが風に飛ばされて空に溶けていく。海が近づくほど、僕はビーチバックを疎ましく思ってきた。重いし、この寒さだ。でもせっかくここまで運んだのに、使わないなんて。いっそ今決心して着替えよう。僕は小さくなるユミネを見送り、立ち止まってカバンを開いた。

 黒いヒラヒラと、小さな青いレース付きブーメラン型パンツ。いくら伸縮性があろうと、こんなを大の大人が履けるとは思えなかった。他にも入っている。揃いの赤い下着とパンツ。質感からこれは多分水着じゃない。僕は袋の底を持つと砂浜にひっくり返した。

 花火のように、様々な女性用水着が広がった。僕は頭がおかしくなりそうだ。イライラしながら、今朝このカバンを持ってきたときのことを思い出す。


 僕の住むアパートはトモくんが借りているものだ。僕に請求される家賃はトモくんの気まぐれダイナミック・プライシング。トモくんが何者なのかは知らないが、生活時間が真逆でほとんど顔を合わせることがないところが気に入っている。海水浴行きが決まったとき、僕は嬉しかった。海で泳いだことはない。でも存在は知ってるし、夏にトモくんが行ってた。

 忘れもしない―――。ある朝起きると共用部屋と風呂が砂でめちゃくちゃになっていた日。その思い出自体は最悪だが、とにかく僕は機会があれば行ってみたいと思っていた。


 その夏の一回以降、トモくんが捨て置いたトートバック。中身は確認するべきだった。しかし海に来てどうして女性の服を持ち帰るようなことが起きるんだ。もっと真剣に海を楽しむべきだろう。僕は気分が悪くなって、足でいくつかの布を蹴り飛ばし、本当に男性用の水着がないのか確認した。――――ない。信じられないやつだ。


 でも荷物がリュックだけになったのはいいことだ。大股で、もう随分先に行ってしまったユミネを追いかける。ユミネは砂浜で体育座りをし、遠くを眺めている。僕が後ろから近寄ると、パッと振り返った。勢いに遅れて髪がやって来て、頬にあたっている。僕の姿で失望したように、ため息を付くと、立ち上がった。握られた拳。僕は身構えた。まだ距離があるから―――。

「うえっ!!」

「こっちくるな」

 ユミネが微妙な距離感で振りかぶったと思ったら、投げつけてきたのは砂利だった。足元にたくさんあるような。思ったより大粒で、石が混ざっているようなもの。こんなものを投げられるならば、いつも通り殴られたほうがマシだった。

 ここは寒いし、海には入れないし、ユミネはユミネだし、本当にいいことがない。それに僕はそろそろ仕事をしなければならなかった。今すぐ、温かなシャワーを浴びたいのに、我慢しなければならない。

 慎重にあたりを見回すと、海上には蜃気楼のように人影がいくつも見える。やっぱり出来高にするべきだったなあとうんざりするのは止められない。



 体に左にはサーフボードを小脇に抱えて、ぴっちりと吸着するようなタイプの水着を着た男。顔色は悪い。口の端から溝色をした液体を胸まで垂らしている。

 一歩一歩、砂浜を押して足を進める。謎の液体はポタポタと落ちる。

「それ拭きなよ」

 リュックから取り出したタオルを差し出すが、男は僕を無視して唸る。しょうがないので、僕はタオルを持って拭いてあげた。柔らかな肉の手応え。ゴシゴシ動かすと、ゴロリとなにかが取れた気がした。

「…だ、…ら。…まだ」

「何?聞こえない」

 タオルの先から曇ったような声がする。汚れた面を見たくなくて、僕はそのまま顔にタオルを押さえつけて次の言葉を待った。

「まだ、見つからないから」

「僕が探しておくよ」

 いつもの通り、口からでまかせ。でも男はそれで満足したようだった。僕は男がタオルごと消えてくれて心底安心した。



 恐れていた事態。次は女性だ。いや、もう死んでいる。大丈夫。大丈夫。いや、ちっとも大丈夫じゃない。女の水着が壊れている。僕は全力で逃げた。

「ぐえっ」

 足に触れるもののせいでつまずいた僕は砂にダイブした。慌てて体を起こすが、女はすぐそこまで来ている。足に絡まるものを見ると、そこには一面さっき捨てた布たちがあった。

「どれでも! どれでも好きなの選んでいいよ!!」

 両手で目を押さえて、女が来ているほうへ叫んだ。どのくらい時間が経ったのかわからないが、次に目を開けたときには女と赤い下着は消えていた。



 海藻の塊のようなものが、多分人間であったのだろうと分かるのにはすこし時間が必要だった。しぼんだ浮き輪を左手に。右手には引きずるように、小さな死者がいた。

「それ引きずってるよ! 大事なら両手でもったら?」

 海藻は動かない。もし、これが女だったら。さっきのように行くだろうか。多少強引になってもしょうがない。

「こっちは僕が膨らませてあげるから!」

 左手の浮き輪を奪い取り、無心でふくらませる。穴が当ているのか、膨らませてもどこかへにゃりとした浮き輪。風が抜けている箇所を探そうと、浮き輪を撫でてみた。

「はい、できた!」

 僕が穴を押さえて浮き輪を差し出すと、すでに海藻も小さな死者も消えていた。


 薄汚れた浮き輪を捨てようか迷っていると、ユミネの元気な声が聞こえた。

「消えろって、言ってんの!」

 男の襟首を掴んで食って掛かるユミネ。言葉がそのまま通じる相手でもなさそうだが、ユミネには関係なかったのだろう。僕は浮き輪を持ったまま急いでその間に割り込んだ。しかしユミネが振り上げた拳の勢いは変わらなかった。

 骨がぶつかる鈍い音のあとに、僕は後ろの男にぶつかり、ひんやりと濡れた。それでも、足を踏ん張って倒れることは耐えた。ユミネは僕を認識しながらもう一発準備する。

「邪魔なんだって!」

「ユミネ! 僕が、僕がやるから。お願いだから、車に戻ってて」

 さっき殴られたのは別の法の頬めがけて拳が刺さった。それでも、僕が伝えるべきことは言えた。ユミネの反応を待たずに僕は男に向き直る。三発目が来る前に、早急に終わらせたかったのだ。

 男は濡れたアロハシャツと短パンだった。僕がぶつかった衝撃で可哀想なことに、尻もちをついていた。顔は下を向いて足は裸足だった。むき出しの腕と足には小さなキズが無数についていた。

「ごめんね、お兄さん。でもそれだけ怪我してるなら誤差みたいなもんじゃないかな」

 僕が手を差し出すと、ゆっくりと手を掴み立ち上がった。冷たい死者の手。僕の体温が表面に移ることはあっても、内側から込み上げてくることはもう二度と無い。僕は立ち上がった男の顔の欠けた顔を見る。

「僕、温かいでしょ? そこにまだ脳みそがあるなら、君にはわかるよね」

 男は何も言わなかったが、確かめるようにもう片方の手を僕の差し出した手に添えた。両手で包み込んで、そこにある熱と自分に欠けたものを計算しているのだろうか。

 納得のいく答えを獲たのかはわからないが、男は僕の両手を離した。そこに残ったのは波の音と僕だけだった。


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