公園の掃除 2万円
少し古びた建物に、申し訳程度の冷暖房設備。それでも僕はここが好きで、憧れている。程々に埋まった席をみて、端っこを選ぶ。隣はメガネの男だ。
「あっ……。あのっ、ちゃんと出席しないと、評価対象から外れますよ」
もごもごと言葉をつぶやいたあと、僕の方を向きながら言った。メガネの奥には、ふらふらと揺れる黒い瞳があった。
「そうなの? 教えてくれてありがとう」
僕はなるべく口角をあげて言う。「どうしても外せない用事があってね」彼はまだなにか良いたそうだったが、教卓に人が現れると、俊敏にそっちへ向いた。
昔受けた義務教育と、大学の教育スタイルは全然違う。授業中発言するのはほとんど先生側で、にこりともせず、声もマイクに頼った声量で放し続ける。壁打ちのようなスタイルさえある。僕はその言葉の連なりとスライドに意識を向けて、ノートに言葉を書き写す。『貴種流離』、初めて知る言葉だ。漢字がなかなか難しい。上にカナを振っておいたほうが良いだろうか。
こうしていると、まるで自分がここに座っていることが当然である真っ当な人間になれたような気がして僕は好きだ。隣のメガネは真面目そうなのに、今は頭がだんだん下がってきている。がくり、がくりと揺れながら。僕は起こしてあげるべきか考える。そういうやりとりも、それっぽいじゃないか。
しかしその必要はなかった。僕のスマホがけたたましく鳴ったのだ。最悪だ。これが知らない番号だったらすぐに切ってるのに。ディスプレイに表示された名前は『社長』。出ないわけにいかないが、もし出たら行かなければならない。
画面を睨んで躊躇していると、隣のメガネは僕を軽蔑するような、怒ったような目で見てきた。ついさっきまで寝てたくせに。もしここにいたのがユミネだったら、このメガネは砕け散り、お前の顔をズタズタにしていただろう、と考えて溜飲を下げる。
素早く荷物をまとめると、教室をでる。ああ、もうこの講義は見れないかも知れない。気持ちを切り替えて、通話に出る。
「ユミネが君を必要としているよ」
「―――いまから、向かいます」
「ああ、気を悪くしないでくれ。そうだ、今回は少し急だったし、君が望む金額を請求してくれたら良いよ」
僕はその言葉でいくぶんか気分はましになった。いくらにしようか?自然に笑みが溢れる。前回が15万だったことを考えると、いくらが妥当だろうか。取りすぎても社長がどう思うかわからないし、ここは慎重にならねば。
「遅い」
ユミネはブランコから飛び降りていった。ついさっきまで楽しそうに漕いでいたことは、なかったことになったらしい。
でも確かに今回は僕が悪かったのかもしれない。実際ここに来るまで思ったより時間がかかった。
「ごめん。でも先に言ってくれないと――」
ガツンと一発。肉の感触ではない。僕は頭からゆっくりと血が流れるのを感じた。ユミネが持つこぶし大の石の先は赤くなっている。
「公園にそんな大きい石があるなんて。危険だね」
ユミネは無言で公園をまばらに囲む木々のほうへ石を投げた。
「アルコールティッシュをもってるよ。ブランコに触ったなら使ったほうが良いと思う」
「わたしに意見しないで」
ユミネは僕から視線を外すと、公園をゆっくり眺める。危ない石があったこと以外は理想的な公園だった。全体は入口側以外フェンスで囲まれており、入ってすぐのベンチに座りながらでも公園全体を見渡すことができるだろう。今そのベンチに大量のぬいぐるみが配置されており、僕が座るスペースはなかったが。
視点を変えて、子どもからしたらどうだろうか。閉塞的な囲いの中にブランコと砂場と滑り台。僕ははるか昔、子どもだった僕を呼び起こしてみようとして、失敗した。今遊べばわかるだろうか?
「いる。掃除して」
ぐるりと歩いて見渡したユミネは僕に言った。こんな小さな公園なのに、今回は言い値なのだ。僕は心が高鳴り、自然な笑みが生まれる。
大きく息を吸うと、僕は目を凝らした。
煤けたピンクの滑り台の上で体育座りする人影は、疲れた中年という印象だった。白髪の交じる黒髪に、頬はわずかに赤く、死者にしては珍しく血色もいい気がする。スーツは体育座りを想定していないのか、折った足と腰回りに深いシワを付けている。
僕は近寄って、無害な顔を作ると穏やかに話しかけた。
「こんばんはー」
「あっ、すみません。少し酔い過ぎて……」
聞いてもいないのに、男は言い訳をしどろもどろに並べる。使い慣れていない歪な笑いジワ。
「おじさん、そんなところに座ってどうしたの? 家に帰らないの?」
僕は早く仕事を終えたかった。ユミネを待たせると、せっかく閉じた傷がまた開くことになる。
滑り台を逆走するように、男に近づく。今回は靴をしっかり履いてるみたいでよかった。少し使用感のあるが、死にかけの合皮。ちらりと見えた靴下は左右が異なる。僕は舌打ちを堪えた。
ほとんど登りきって真正面から男と対峙すると新たな事実が見える。体育座りしている足、太ももは腹と密着しているが、その隙間にはべっとりと赤いものが付着してる。緩んだネクタイも、その隙間に落ちているから無事なのは上部分だけだろう。
「おじさん、汚いよ。やっぱそんな格好で帰らないほうが良い」
「えっ……」
なぜそんな衝撃、という反応ができるのだろうか。許されるなら火を放ってやりたいほど汚いのに。僕はリュックを滑り台の柵に吊るして中から必要な物をだして、男の首に手をかけた。
男はビクリと震える。もう死んでいるくせに、一体何を怖がる必要があるのだろうか。生きているときも、そうやって抵抗する代わりにビクビクすることで不平不満を示してきたんだろうか。
洗剤のキャップを開けてネクタイにかける。ケミカルな甘い匂いが漂った。水をペットボトルから垂らす。びちゃびちゃとこぼれた水は滑り台を流れていった。
ネクタイを包むタオルに赤いものが移っていく。もう少しだ。
「おじさん、足ちょっと邪魔だから、あけてて」
僕はタオルのきれいな面でパタンとネクタイを包むと滑り台のてっぺんの開けたところに叩きつけた。何度も叩きつけて、少し息が上がってきた。
タオルを開くと、ようやくネクタイの全貌が見えた。シンプルな青色で、安っぽい生地感。でもまあ十分だろう。シャツの悲惨さに比べたら、些細なことだ。
僕はネクタイを突き返して、次に取り掛かろうとした。
「これは、父の日にもらったんだ…」
無抵抗だった男が立ち上がって呟く。僕はシャツに空いた穴と血の跡をみる。どうしようか、脱いでもらおうか。僕が服に手をかけると男は初めて僕を遮った。
「十分だよ」
おじさんとやっと目があった気がする。虚ろで、死者特有の瞳孔の開いた穴のような目。
「もう、十分だから」
すがるように、ネクタイを眼前に掲げてぎゅっと握った。僕はしわになるから止めようとしたが、次の瞬間には何も残されていなかった。
もとが電話一本で始まったことだから、僕も一本電話をして、終わりを告げるべきだろうか? 社長は怖い。話し方はユミネと全然と似てなくて、いつも怒っているのがユミネだとすると、いつも喜んでいるのが社長だった。でもなにに喜んでいるのかさっぱりわからないから不気味だ。
それに社長は好奇心で何でも聞いてくる。そういうところも苦手だ。誰にも無知を笑われたことがないのだろう。最初にした会話らしい会話を思い出す。
『君がお金を集めてるのは大学へ行くためなの?』
もちろん違う。僕だって、大学の前に高校にいく必要があることを知っている。でも普通初対面の人間にいきなりそんなことを聞くだろうか。僕は社長とお仕事の話をしに来たのに。僕はただ金銭交渉が先、後で文句はなし。この条件を述べただけだ。話聞いてた?って感じだよ。
『だって、君ほとんど大学か図書館にいるじゃん。最初は学生さんかと思ったよ』
社長は何がおかしいのかクスクスと笑う。僕は手元のスマホを見た。当時使っていたスマホは、飲み屋街の裏で寝ていた男のだった。
まあでも人生塞翁が馬だ。何があるかわからない。結局僕はユミネという大きな子どもとお仕事を引き受けてお金が沢山もらえるようになるんだから。
そう、たくさんのお金。今回僕は初めて自分から請求するのだ。やっぱり電話はやめて、テキストメールにしよう。僕は請求金額を考える。
前回の金額を考えれば、そこまでおかしな金額じゃない。そう、特急料金のようなものだ。僕は20000と書かれたテキストを送信する。しばらくして、既読になった。画面を見つめて待っている時間は長く感じる。
『本当に?その金額で合っている?』
僕は手に汗握るのを感じながら、返信を打つ。
『社長がいくらでもって言ったんですよ、後からの価格交渉は無しです』
送信を押した瞬間、ガクッと膝をつきそうだった。心臓は全力疾走したようにバクバクと痛む。胸を抑えて画面を薄目で見る。
『わかった。次からは、送る前に確認したほうが良いよ』
僕は自分の打った数字を見返した。なんど目を擦っても、画面を一度閉じても。そこに書いてある数値は20000だった。




