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うるせえ、正解なんてあるのかよ

作者: 白萩アキラ
掲載日:2026/01/24

最近、一つの確信に近い予感がある。現代の漫画家たちは、かつてのように「ヒット作を何本も描き続け、生涯を現役の職人として全うする」という生き方から、少しずつ距離を置き始めているのではないか、ということだ。むしろ、たった一編の代表作に己の人生のすべてを火薬として詰め込み、たった一度の、けれど誰の目にも焼き付いて離れない巨大な打ち上げ花火を上げる。そんな「求道者」のような作家が増えているように思えてならない。

『進撃の巨人』の諫山創氏が、完結後に「全てを出し尽くした」と語り、別の地平へ歩みを進めたこと。あるいは『ハイキュー!!』の古舘春一氏が、バレーボールという競技のロジックと、そこに生きる人々の情熱を、一切のノイズなく描き切ってしまったこと。彼らの作品を読んでいると、物語の中に「遊び」という名の無駄がほとんど存在しないことに驚かされる。かつての少年漫画には、本筋とは無関係な「お遊び回」や、キャラクターの愛嬌を深めるための余白が豊かに含まれていた。しかし、現代の鋭利なヒット作は、最初の一コマから最後の一行まで、緻密な計算に基づいた「映画的なプロット」に貫かれている。

この「映画化」という現象こそ、現代漫画の特質ではないだろうか。かつての少年漫画が、毎週の読者の反応を養分にしながら地平線を広げていく「ライブ型」だったとすれば、今の少年漫画は、予算も尺も気にしなくていい一人の映画監督が、数年かけて一本の超大作をパッケージングする行為に近い。そこには「始まりと終わり」が最初から約束されており、すべての出来事は結末へ向かうための必然として配置される。脚本、監督、撮影、照明、そして編集。そのすべてを一人でこなす漫画家という仕事は、一作を完遂するだけで魂のすべてを使い果たしてしまうほどの重労働なのだ。その疲弊こそが、表現者としての究極の誠実さなのだと、私は思う。

私自身、物語と向き合うとき、無意識のうちに三つの基準でその価値を測っていることに気づく。

第一に、構造やプロットが論理的に優れていること。

第二に、映像美や心理描写といった「特出点」が、他の欠点をすべてなぎ倒すほど圧倒的であること。

そして第三に、最初から最後まで、現実というノイズを忘れさせて作中世界に深く浸らせてくれること。

かつて『ダークナイト』を観たとき、私の脳内の「分析官」は冷静に演出の意図を解き明かしてしまった。ジョーカーの恐怖すらも「バットマンを追い詰めるためのロジック」として客観的に捉えてしまい、心の芯から震えることはなかった。それは知的な鑑賞体験ではあるが、どこか物語と「安全な距離」を保ってしまっていた。

けれど、そんな分析回路を力ずくで焼き切ってしまうような瞬間が、稀に訪れる。

例えば、藤本タツキ氏の短編だ。『ルックバック』や『さよなら絵梨』を読み終えた瞬間、SNSで飛び交う「これは並行世界なのか、空想なのか」といった考察を目にするたびに、私は「うるせえ、正解なんてあるのかよ」と毒づきたくなる。

あそこで描かれた藤野の背中。カメラのレンズ越しに体験したあの瞬間のエモーション。それこそが、作品という名の「体験」のすべてではないか。構造がどうだ、ロジックがどうだという議論は、本来、その「言葉にならない衝撃」を、何の邪魔もなく読者の心に突き刺すための、壮大な準備に過ぎないはずなのだ。

映画『アバター』の圧倒的な映像美に、ただ没入させられたとき。あるいは映画『国宝』の歌舞伎シーンにおいて、芸の凄みがプロットの疑問符をすべて浄化してしまったとき。私は、物語には「理解」を超える「体験」の瞬間が必要なのだと確信した。

ロジックを積み上げ、内部の理屈を完璧に整えることは、物語を構築する上での「誠実な義務」だ。私もまた、創作を志す者として、設定の不備やノイズには人一倍敏感でありたいと思っている。しかし、本当に目指すべき場所は、その論理の檻を突き破って、観客を黙らせてしまうほどの「一点突破」の先にある。

観る者を最後まで浸らせ、現実の椅子に座っていることさえ忘れさせること。

「なぜ、自分はこんなに心が揺さぶられているのか」という分析を、完結するその瞬間まで拒絶し続けること。

一作で出し切ることも、あるいは幾つもの世界を渡り歩くことも、そのための手段に過ぎない。私たちが本当に欲しているのは、人生の数時間を丸ごと明け渡してもいいと思えるほどの、純度の高い「虚構」なのかもしれない。

もし、私がいつか自分の中にあるすべてを言葉に置き換えることができたなら、その時、その言葉が読者の心の中で、私さえも予期しなかった形で揺れ動くのを、遠くから眺めていたい。唯々、筆すら置いて。

その潔い終焉こそが、今の私が創作という鏡の中に追い求めている、最も美しい表現の形の一つなのだ。

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