10.いよいよ遭難
⭐︎
《雪山で遭難するまで、あと少し》
――翌朝。
朝一番の馬車に乗り、ノアたちはいよいよヴェルデラ温泉へと向かった。旅館で一泊した後は一旦村へ戻り、さらに一晩滞在してからアストリアムに帰る予定である。
「私、ノアパパがいない状況って初めて見たんだけど……なかなかのカオスよね」
明後日にはまた顔を合わせるというのに、号泣しながら見送りに来たリリアナを思い出しながら、ルルはしみじみと呟いた。
「確かに。リリアナさんとノアとティア様の構図って、ツッコミがいないよね」
「なんならノアがちょっとまともに見えちゃうもの」
顔を見合わせ、笑い合うエヴァンとルル。ひとしきり笑った後、なんとも言えない沈黙が車内に落ちた。
「……なんか、空気が重たいね」
「ティア様。ノアと喧嘩でもした?」
俯いていたレティシアが、はっと顔を上げる。
「喧嘩だなんて、滅相もございません……! ただ……」
そっと視線を横に向ける。隣のノアは、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。
「昨夜はノア様がお休みになられていないので……」
まるでそれが自分の責任であるかのように、レティシアは表情を翳らせる。
「え? ノア、なんで寝てないの?」
「ルルが膝枕禁止したからじゃない?」
「あ……」
エヴァンの指摘に、ルルは昨日の馬車でのやりとりを思い出した。
「……あんた、まだ何が悪いのかわかってないの?」
これだけわかりやすく好意を向けてくれる相手を『枕』呼ばわりしている。それが良くないだけなのに、とルルは呆れる。
(……そっか。そもそもこの鈍感男は、ティア様が自分のことが好きだってことにも、気がついていないのかも)
ノアは気怠げな表情でルルを振り返った。
「俺に人の気持ちが理解できると思うのか?」
「胸を張って言えることじゃないのよ」
半眼で睨みつけながらも、ルルは内心で少し驚く。少なくともノアは、レティシアの気持ちを理解しようとはしているようだ。
「じゃあノアは、理解できるまで寝ないつもり?」
エヴァンの問いに、ノアは渋々頷く。
「……一生理解できる気がしないけどな」
「い、いけません!」
慌ててレティシアが血相を変え、身を乗り出した。
「私のことでノア様が頭を悩ませる必要などございません! ノア様は、ノア様がお好きなように振る舞ってくださいませ!」
懇願するように、ノアを見つめる。ノアはその視線を、さっと振り解いた。
「……だからお前は、いつまで経っても魔法が上達しないんだ」
「それは、どういう意味なのでしょうか……?」
しかしノアは口を閉ざし、再び顔を窓の外へ向けてしまった。戸惑いながらレティシアは、ルルとエヴァンを振り返る。
「昨夜も寝てないなら、今日で不眠二日目だよね。だから機嫌が悪いんじゃない?」
肩をすくめるエヴァン。
「せっかく温泉に癒されに来たのに、ノアの癇癪に付き合わなきゃいけないの……?」
「言い出しっぺはルルなんだから、付き合ってあげなきゃね」
心底面倒臭そうなルルと、どこか楽しそうなエヴァン。
(だから私は……魔法が上達しない……?)
レティシアは膝の上で固く手を握り、視線を床へと落とした。
――馬車は幾度か休憩を挟み、昼過ぎにはヴェルデラ渓谷の入り口へ到着した。
「ここからは渓谷を散策しながら旅館に向かうみたい。二時間くらいで到着するそうよ」
折り返す馬車を見送り、パンフレットを片手に持ったルルが遊歩道の入り口を指差す。豊かな自然に囲まれた、水の流れる音が涼しい渓谷である。
「ムラサキツバメだ」
早速ノアは純金製の虫取り網を取り出し、草木の間を舞う蝶を追いかけ始めた。
「それにしても……今日はちょっと冷えるね」
「そうね。もう少し着込めば良かったかも」
渓谷なので昨日よりも一枚多く羽織ってきたが、それでも風がやけに冷たい。
「ヴェルデラ渓谷は冬でも積雪のほとんどない、比較的暖かい地域のはずなのですが……」
冷える指先を擦り合わせるレティシア。
「ちょっと、ノアー! あんまり奥に行かないでよ! 迷子になっても知らないからね!」
遊歩道を外れていくノアに、ルルが声を張り上げる。ノアは小さく舌打ちし、足を止めた。
その時。
「……?」
樹皮に張りつくカメムシに目が留まる。さらに周囲を注意深く見渡し、最後に空を見上げて首を傾げた。
「どうしたの、ノア?」
じっと雲の流れを追うノアを真似して、エヴァンも空を見上げた。しかし雲がゆっくりと流れているだけで、特別な変化は見当たらない。
「やけにカメムシが多い。それに雪虫もいる……どちらも根拠のない噂だが、雪が降る兆候だと言われている」
ノアは足元の落ち葉をかき分け、ひっくり返った虫を見つけた。
「それに、妙に他の虫が少ない」
「雪ぃ? この辺はあんまり降らないわよ。ましてやこんな時期に」
馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすルル。ノアはしばらく無言で立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐いて遊歩道へ戻ってきた。
「……考えすぎか」
「肌寒いし、早く旅館に向かいましょ」
そうして一行は、赤や黄色に色付いた紅葉の中を歩き出した。
――一時間後。
「ど、どどどういうことなの……?」
猛吹雪を顔面で受け止めながら、ルルは噛み合わない歯をガタガタと鳴らしていた。
突然雲行きが怪しくなったと思えば、はらはらと雪が舞い始めた。そしてあっという間に、目の前の視界を奪うほどの猛吹雪と化したのだった。
「ほらな」
寒さに肩を震わせながらも、どこか誇らしげなノア。だが誰もそれに反応する余裕はない。
「明らかに異常だね……とにかく一刻も早く寒さを凌げる場所へ移動しないと」
エヴァンは前へ踏み出す。その腕を、ルルが掴んで止めた。
「ま、待って。旅館て、そっちだっけ?」
「あれ? 違う?」
「私の感覚だとあちらの方角なのですが……」
「マジで? 私はこっちだと思ってた」
「俺はそっちだと思うが」
「いやいや、こっちで合ってるよ」
四人はそれぞれ別の方向を指差した。もともと土地勘のない場所で視界を遮られ、雪も積もっている。足跡も消え、完全に方角がわからなくなった。
「……詰んだ……?」
「諦めるのが早いよ、ルル。ヴェルデラ温泉は火山性だ。地熱があるなら雪の薄い場所があるかもしれない。なければせめて風を遮る岩場を探そう」
そう言いながらエヴァンは上着を脱ぎ、それをレティシアの肩にかける。
「いけません! エヴァン様が凍えてしまいます!」
「王女様に万が一があって、首を跳ねられるよりはマシだよ。だから着て」
「……っ」
そう言われてしまうと、レティシアには何も言い返せない。唇を噛み、ゆっくりと頷いた。
とにかく風を避けられる所を探すため、四人は再び歩を進める。
「エヴァン……炎系の魔法とかでどうにかなんない……?」
「これだけ吹雪いていると無理だよ……ルルこそ、何か便利な魔法はないの?」
「あれば……とっくに使ってるわよ……」
ルルの声が次第に小さくなっていく。いつの間にか、最後尾で足を止めていた。
「ルル様。列から離れない方が――」
そう言ってレティシアが肩に触れた瞬間、ルルの体がぐらりと傾いた。
「ルル様!?」
「ごめ……もう、無理……かも……」
唸りを上げる風の音で、真っ白な唇から漏れた声はほとんど聞き取れない。
「ルル! 眠ったら死ぬよ!」
「も……歩け、ない……」
エヴァンがルルの体を強く揺する。だが凍りついた睫毛は、ゆっくりと閉じられていく。ノアはルルの前にしゃがみ込むと、彼女を背中に担いだ。
「……行くぞ」
――それからどれくらい歩いただろうか。何時間も経ったような気もするが、実際には三十分ほどかもしれない。
指先はとうに麻痺し、今、自分の手が握っているのか開いているのかさえもわからない。雪を踏み締めているはずの足裏も、随分前から感触を失っている。
背に担いだルルの唇は血の気を失い、そこから漏れる息遣いは今にも途切れそうに細い。
「ノア様っ! エヴァン様が……!」
暴風の唸りに混じって、悲鳴にも似たレティシアの声がかすかに届く。ノアが振り返ると、雪の上に倒れ伏したエヴァンの姿があった。レティシアが必死に腕を引き、助け起こそうとしている。だが彼女にも、もはやそれだけの力は残っていない。
ノアは祈るような気持ちで天を仰いだ。そこに広がるのは変わり映えのない、まるで暴力のような白。非情な横殴りの雪。
(なんで――)
胸の奥で、噛み締めるように呟く。
(なんで温泉に入りにきただけなのに、遭難してるんだ……?)
そうして、ようやく冒頭へと繋がる。
「レティシア。お前だけでも、変身魔法でここを脱出できないか」
ノアは静かにルルを雪の上へ下ろしながら言った。レティシアは拳を強く握り締め、かぶりを振る。
「できません……」
「そうか」
ノアの疲労の色も濃い。もうルルを担いで歩くことはできない。
(ミエールお姉様みたいに魔法を上手に扱えたなら、皆様をお助けできるかもしれないのに……)
今も何かに変身できないかと試みているのだが、魔力は空回りするばかりだった。
(……情けない……)
「俺の能力は相手を眠らせることだが――」
ノアは雪の上に横たわる幼馴染二人に視線を向けたまま言う。
「ここでお前に使えば、苦しまずにあの世へ行けるぞ」
「ノア様!」
レティシアは両手でノアの頬を押さえ、顔を覗き込む。
「最後まで足掻きましょう! ノア様はあの長い剣を出せますか? 近くに人がいれば、目印になるやもしれません。私は――」
両手を握り締め、立ち上がる。
「叫びます!」
大きく息を吸い込み、残りの力を振り絞る。
「どなたかいらっしゃいませんかぁぁぁ!」
風の音に負けじと、喉を限界まで開いて大声を上げた。そしてもう一度、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込む。
「お助けくださあぁぁぁい!」
きょとんとした顔でレティシアを見ていたノアだったが、小さく唇の端を緩めると五メートル超の漆黒の魔法剣を顕現させた。それを空に向かって掲げ、彼も声を張り上げる。
「おーい! ここだー!」
剣を左右に振りながら、再び息を吸う。その時だった。
「……ノア様。今、人の声が」
「ああ、聞こえた」
二人は固唾を飲み、風の音に混じって確かに聞こえた声の方を見つめる。
「君たち、大丈夫かい?」
現れたのは、この猛吹雪にはあまりにも似つかわしくない、浴衣姿の男だった。
「湯上がりだから平気かと思ったけど、この吹雪じゃやっぱり寒すぎるね! それから君のその剣、何!? 黒っ! 長っ! キモっ!」
生死の境にいたノアたちとは明らかに違うテンションで男は近付いてくると、雪に埋もれかけたルルを軽々と抱き上げた。
「ほらほら、君はそっちの子を担いであげて。無理そうなら、他の人呼んで来ようか?」
「あ、あの……! 近くに雪を凌げる場所があるのですか!?」
レティシアが尋ねると、男はやけに白い歯を見せて笑った。
「ここ、旅館だけど」
吹雪のせいで見えていなかった。ほんの数メートル先。目を凝らせば明かりが灯っている。
「ヴェルデラ温泉、黒鷺亭へようこそ」




