29.壁
「こんなにも目の下にクマが……お辛かったでしょう」
痛ましそうで、しかし優しい声のレティシアを、ノアは認識していない。今、彼を突き動かしているのは抗えぬ睡魔と、最早何に対して怒っているのかもわからない激しい怒り、そして目の前のニンジャだけである。
「ノア様! チャッピーが参りました!」
腕まくりをして、ノアに近寄るレティシア。
「これ……大丈夫かな? ノア、ティア様のこと見えてないよね?」
「今のノアには触れるのも危険だとは思うけど……」
ルルとエヴァン、そしてニンジャは固唾を飲んでレティシアを見守る。
「さぁ、ノア様! こちらへいらしてください!」
「……」
ノアは反応しない。暗い目は虚空を映している。
意を決して、レティシアはノアに手を伸ばした。
「っっ!」
その手がノアに触れた時、激しい火花が弾け飛んだ。ノアの魔力の片鱗はレティシアの変身魔法を打ち消し、彼女は本来の王女の姿へと戻ってしまった。
「ダメだ。こうなるともう、ティア様のチャッピーじゃ――」
「ノア様。いい子だから、ねんねしてくださいませ」
変身が解けたことも厭わずに、レティシアは両腕を広げてノアを抱き締めた。
一瞬、ノアの体が怯えたように硬直する。けれどレティシアの手が子守唄のリズムで背を叩くと、張り詰めていた糸が少しずつほぐれていった。
「チャッ――レティ、シア……?」
暗黒の瘴気がまるで朝の霧のように溶けて消えた。怒りに燃えていた瞳はとろりと落ち、瞼が重く閉じていく。
ルルは恐る恐る近付いた。
「うそ……信じられない。寝たわ」
完全に力の抜けたノアを、ゆっくりと地面に横たわらせる。頭はレティシアの膝の上に置かれた。
「なんで……? チャッピーじゃないのに……」
「……わからないけど……」
狐に摘まれたような顔のルルと、同じ表情のまま理由を探すエヴァン。
理由なんてわからない。けれど王女の膝枕で眠るノアは、まるで遊び疲れた少年のようにとても安らかな顔をしていた。
「とにかく――一件落着だな。この世の中にはとんでもない奴がいるもんだ……いい経験になったぜ」
「待ちなさい。何を爽やかに去ろうとしているのよ」
片手を振って立ち去ろうとしたニンジャを、捕縛魔法で捕らえるルル。
「ノアが目を覚ました時に怒るから、まずはサインを書きなさい。その後は、ティア様誘拐の件で拷問が待っていると思うから、覚悟しなさいよ」
「あ……」
すっかりルルたちの仲間になった気分でいたが、そもそも本業は暗殺者であることを忘れていた。
紙とペンを握らされ、渋々自分のサインを書きながらニンジャは考える。
捕まって拷問を受けるくらいなら、雇われ魔王同様自害した方がマシである。魔力は空なので、奥歯に仕込んだ毒薬で――
そう思案を巡らせていると一羽の鴉が飛んできて、今し方ニンジャが書いたサインを咥えて奪っていった。
「あ、コラ……!」
「――ジュリアン=バレンタイン。律儀に本名でサインを書くだなんて、暗殺者として未熟ですね」
サインを奪った鴉は地面に降り立ち、流暢に人の言葉を喋った。一呼吸置いて、鴉は人間の姿へと変化する。
その人物を見て、その場にいる全員が目を見開いた。
「リュミエール様!?」
「まぁ、ミエールお姉様。やはりお姉様は、変身魔法がお上手ですね。きちんとお洋服を着ていらっしゃる」
唯一レティシアだけは、ノアの頭を撫でながら穏やかに微笑んだ。
リュミエールは奪ったサインと、もう一枚手にした紙とを見比べてからルルとエヴァンに向き直る。
「このサイン、暫しの間お借りします。その男が自害しないよう猿轡を噛ませ、衛兵に引き渡してください。それから――」
と、凍るように冷たい目をニンジャ――ジュリアンに向けた。
「国王陛下の拷問は、想像を絶するわよ」
「ひぃっ!」
喉の奥で悲鳴を上げるジュリアンに冷笑を浮かべると、リュミエールは背を向けて歩き出した。
縋るような目で見上げてくるジュリアンに、ルルはハンカチを噛ませながら呟く。
「ジュリアン=バレンタイン……似合わない名前ねぇ」




