ある処刑人の手記
「ではおれはどうすればよかったのだ?」
と、緋色の目で男が私を見る。両手両足を鬱血するほど縛られ、煮えた油を背後に、脂汗をだらだらと垂らしながら。私はこいつを一蹴りして、この油の中に放り込んでやることになっている。仕事である。男はもうあと数秒の命である。しかし喚かず、逃げようともせず(どうせ逃げられもしないが)、じっとこちらを見据えている。
「おれはどうすればよかったのだ?」
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この男の名前は、なんだったか。書こうと思ったが覚えていない。罪人の名前は聞かないようにしている。これは罪人であって人間ではない、これは罪人としてある日生まれたもので、人間として両親に愛されて数十年の人生を歩んできたものではない。そう自分に言い聞かせるために、なるべく名前も聞かないように、顔も見ないように仕事を続けてきた。気になってはいたが。そういう工夫をしても、未だに斧を持てば手が震え、縄を結ぶのにも人の何倍もの時間がかかる。向いていないらしい。向いていない仕事を続けるのは苦しいが、この時代に失業者となってまた街をうろつくのはなおさら耐えられない。居場所もなく、話し相手もおらず、日に日に減りゆく銭に追いかけられるようにして、自分の主人を探して歩くというのは、それこそ死ぬよりつらい日々である。死ぬよりつらいのだから、そこから逃れるためならば、人を殺すのなんて何でもない。ましてや相手は罪人である。自分が殺しているのではない、この罪人たちは法に殺されるのだ、人々に裁かれるのだ、私の主人に処刑されるのだ。私が殺すのではない。と言い聞かせながら、肉に刃の食い込む感触やら飛び散る血しぶきの温かさから目を背けてきた。これまでどうにかやれてきた。向いていないなりにこれからもなんとかやれるだろう、と思っていたが、どうやら限界らしい。
男は縄打たれ、鎧姿の兵士二人に連れられてきた。顔も身体も見えるところは青あざだらけで、歩けないように縛られた足のままずるずると引きずられ、砂の上に血の跡ができている。目は虚ろで、口はだらりと開いてよだれが垂れている。
私の前には既に、煮えたぎる油が用意されている。誰がやっているのかは知らない。絞首刑のときも、断頭のときも、道具はそこに置いてある。きっとこれだけの仕事の者がいるのだ。彼は道具を用意しただけで、罪人の顔も見ない。だから何も感じなくて済む。
兵士は煮えた窯の前に罪人を放り投げ、私をちらと見ると、興味なさげに去っていった。彼らも同じである。彼らはただ言われたとおりに、男をここへ連れてきただけだ。これから起こる殺人に、彼らは何ら関与しない。
私の仕事とは、処刑人の仕事とは、殺人の罪を被ることである。罪、と言っても王の命令なのだから、胸を張っていてよいはずだ。しかし罪とはそういうものではない。悪とはそういうものではない。善悪とは法で決まるものではない。人の心で決まるものである。誰しも、殺人は悪だと考えている。穢れと言っても良い。しかし死刑は必要である。いくら合法だとしても、相手が罪人だとしても、人を殺すなんて誰もやりたくない。
そこで専門の役職がある。処刑人に大した技術は必要ない。少なくともこの国では。ただ全ての準備がなされるのを眺めていれば良い。裁判が終わり、罪人が連れて来られ、道具が全て用意され、さて引き金をひとつ引くだけ、という段になって、誰も彼も去ってしまう。ひとり残された私は、ひとりで引き金を引く。そして罪人が死ぬ。彼を殺すのは私ひとりである。そのために雇われている。後片付けはまた別の者がやる。
何人やったかは数えないようにしている。やはり私はこの仕事に向いていないらしい。それでもやれるくらい、簡単な仕事ではある。
それが、どうして今日はこんなことになったか。耳栓を忘れたのだ。それで男の話につい耳を傾けてしまった。
兵士が去り、後は私が男に手を下すだけという段になって、深呼吸して落ち着こうとすると、男が口を開いた。
「迷ってるのか?」
傷だらけで縛られた痛々しい姿のわりに、声はしっかりしていた。
その様子に驚いていると、男は続けて話し始める。
「5分はある、……いや、すぐ終わる話だ」
男はもぞもぞと動くと、両手両足を縛られたまま、投げ捨てられて横たえられた姿勢から、器用に身を起こして座った。
私は何も言えず、確かに5分くらいはあるなと思い(10分も躊躇していると、どこかで見張っている役人が来ることになる)、一体この男にどう接したものか、聞いてやるべきか、話を遮って今すぐ処刑すべきか、決められないままでいた。
「ここから東に、街があるだろう。おれはそこで暮らしていた」
男は構わず、話し始めた。
長い話だったから、要点だけかいつまむ。
男は孤児だった。普通の人には親も家も布団も食事も毎日当然にあるものなのだ、と知ったのはずいぶん後のことで、物心付いてしばらくは、道に落ちているものを食べ、夜は日陰で眠り、しばしば大人につかまっては殴られ、隙を見て逃げ出し、という暮らしをしていた。
ある日、店で食べ物を取っていたら大人に見つかり、捕まって、逃げる機会をうかがっていたら、同じ部屋にもう三人の子供が放り込まれてきた。
自分を入れて四人の子供を前にして、そいつは銃を持ってきた。そのときは銃が何なのかわからなかったが、そいつが子供をひとり撃ち殺し、轟音で耳が割れ、血しぶきが舞うのを見て、これはやばい、と男は思った。もうひとり撃たれたと同時に、三人目の子供は部屋から逃げるように走り出し、男はその大人に向かって走り出した。
逃げた子供は撃たれて倒れた。その隙に男はそいつの足元へしがみつき、押し倒し、銃を奪った。
「そこで迷った。思えばそこが最初の分かれ道だった。おれはおとなしく撃たれて死んでおくべきだったのかもしれないな」
男は奪った銃をそいつに向けて、見よう見まねで、がちゃがちゃと触った。ズガンとまた音が鳴って、血しぶきが舞い、そいつは倒れた。
振り返ると子供が三人死んでいた。一人目と二人目は不運だった。三人目は逃げようとしたから死んだ。自分は、殺したから生きている。
そのあと、盗みを辞めて働こうとしたときのこと、職人に弟子入りしようとしたときのことなど、経歴の話が続く。
進むにつれて、最初は整然としていた男の口調もだんだん荒くなって、何を言っているのかわからなくなってくる。
「おれは、ただ飯が食えてベッドで眠れさえすれば、それでよかったんだ。誓って言うが、贅沢なんて考えたことはねえ。ただ死にたくなかった。撃たなければおれが殺されていた。盗まなければ死んでいた。兵士に追われて、捕まれば死ぬわけだから、死なないためになんでもした。何人殺したか覚えていない。それが悪いことだと気づくのに、ずいぶん時間がかかった。当たり前のことなんだけどよ、おれ以外も人間なんだな。死にたくないと思ってるのはおれだけじゃないらしい。頭があって、心があって、苦しいとか寒いとか、同じことを、他のやつらも、お前も、思っているらしい。そうなのか? ほんとうにそうなのか? じゃあ、おれが今まで死にたくなくて、生き延びるために、何人も殺してきたのは、一体何のためなんだ? ……殺さなければ殺されていた。取らなければ何も食えなかった。社会に居場所がなかったんだ。社会に居場所がないやつは、どうすればいい? 誰かのものを取るしかない。それがだめなら、どうすればよかったんだ? お前ならどうする? 殺すか、死ぬか。飢えるか、奪うか。おれは悪人になりたくてなったんじゃない。ただ死にたくなかっただけだ。お前らみたいに、生まれたときから親がいて、食べ物があって、寝るところがあって、助けてくれる人がいて、仕事があって、給料があって、毎日死なないとわかっているなら、おれだって同じように、おとなしく過ごすに決まっている。…………。」
少し落ち着いて、男はまた話し出す。
「大きくなって、街で孤児を見かけたことがある。昔の自分に似ていて、目立たない道の隅っこでうずくまっていた。どうするのだろうと毎日見ていたら、彼は何もせず、ただ痩せていった。惨めだった自分の少年時代を思い出し、声をかけて、どうしたんだと聞いたら、彼は食べ物がないんだと答えた。彼は盗みをしたくないようだった。人の物を取っちゃいけません、と親に厳しく言われていて、その親が今どうしているのか知らないが、それを守っているらしい。もう何日かすると彼は動かなくなって、ひと月経つと砂と骨になった。おれは自分がああなっていたらと思うとぞっとする。お前は、おれにああなるべきだったと言うのか? それとも、親もなく文字も読めず、働けもしない子供に、それ以外に死なない方法があったと言うのか? 死にたくないと思うのは悪いことなのか?」
私は口をはさんで、「どうしてその子を助けてやらなかったんだ」と聞いた。
男は狼狽えて、少し黙った後、「どうやって?」と一言言った。
お前の金でパンでも何か買ってやれば良かった、もし私ならそうする、と言うと、男はまたしばらく黙り込んだ後、突然涙を流し始めた。
泣く男を前に私が狼狽えていると、やがて落ち着いて、「でもそんな大人はいなかった、おれのときには」と、また乾いた声でつぶやいた。
もう二、三、男の昔話があって、もう充分よくわかった。悲惨な人生だったから、それ以外に生きる術がなかった。奪う以外に得る方法がなかった。社会から完全に切断されていて、気づいたときには憎まれ切っており、殺す以外に生き延びる方法がなかった。
「死にたくないと思うのは悪いことじゃないだろ」
けれど、盗みも殺人も悪だ、と私が言うと、男は顔をこちらに向ける。感情の読み取れない目をして。
「ではおれはどうすればよかったのだ?」
どうすればよかったのか。
「お前は、おれと同じ境遇に身を置かれて、どうやって生き延びると言うのだ? それとも、何もせず飢えて死んでおけばよかった、とでも言うのか?」
背後から足音がして、もう15分は経っているのを思い出した。例の役人が来た。今日のやつは一層人相が悪い。
何と弁解しようか迷っていると、そいつは男を蹴り倒した。あわてて飛びのいたところに油が跳ねる。肉の焦げる匂いとともに、グア、と一瞬悲鳴があって、すぐに何も聞こえなくなった。
役人は、油で焼ける男を眺めながら、
「お前は生まれてくるべきではなかったのだ」
と言い、にやりと笑って、どこかへ去っていった。




