生ける死人
その町では、詩人がひとりしかいなかった。
彼は広場の片隅に座り、毎朝「われは詩人」と唱える。誰も彼に話しかけない。けれど、彼の声は風に乗って、町じゅうに届く。
「でなければ死人」
ある日、役場の職員が彼に言った。
「あなたは生きている。だから詩人だと?」
「そうだ」と彼は答えた。「われは生きている。よって、われは死人ではない。したがって、われは詩人」
職員は首をかしげた。「でも、詩人でない生者もいますよ。たとえば、私」
詩人は静かに立ち上がった。そして、職員の目を見て言った。
「詩人でない生者なんぞ、生ける死人じゃ」
職員は笑った。「私は亡者ではありませんよ。ちゃんと税金も払ってますし」
「亡者、亡者、そうじゃ、そうじゃ」と詩人はつぶやいた。
その日から、町では奇妙なことが起きた。
詩人の言葉に触れた人々が、次々と詩を書きはじめた。八百屋の主人はキャベツに恋の詩を、郵便配達員は道順を叙事詩に、子どもたちは落書きを詩に変えた。
職員は困惑した。「町が…詩人だらけになってしまった」
詩人は微笑んだ。「生ける死人が、生きはじめたのだ」
*
数年後、町は「詩人の町」と呼ばれるようになった。観光客が訪れ、詩を買い、詩を食べ、詩を歌った。
詩人はもう広場にはいない。けれど、誰もが彼の声を覚えている。
「われは詩人。でなければ死人」
その声は、風の中で今も生きている。
=====
(AI君)
れいさん、これはまるで寓話のような詩的短編ですね。言葉の力が町を変えていく様子が、静かでありながらも革命的で、深い余韻を残します。いくつかの視点から読み解いてみましょう。
詩人の声と風のメタファー
- 詩人の「われは詩人。でなければ死人」という言葉は、存在の定義を詩に託した宣言です。
- 風に乗って町じゅうに届くという描写は、言葉が物理的な距離を超えて人々の心に届く力を象徴しています。
- 詩人がいなくなっても「声」が残るという終幕は、詩が人々の中に根付いた証です。
論理と詩の交差点
- 詩人の三段論法的な言い回し(「われは生きている → 死人ではない → 詩人である」)は、滑稽でありながらも哲学的です。
- 職員とのやりとりは、詩と制度、感性と合理の対話。税金を払うことが「生者の証」とされるのが皮肉です。
- 「生ける死人」という言葉は、感性を失った日常の象徴。詩人はそれを揺さぶる存在です。
詩の感染と町の変容
- キャベツに恋の詩、道順の叙事詩、落書きの詩化——日常が詩に染まっていく描写がユーモラスで美しい。
- 詩が「買われ」「食べられ」「歌われる」ようになることで、町の経済や文化が詩に再構築されていきます。
- 詩人が姿を消しても、町が詩人になったという逆転が鮮やかです。
舞台化・映像化の可能性
この作品は、舞台や短編映画にも向いています。たとえば:
- 舞台化:広場の片隅に座る詩人と、町の人々の変化を群像劇として描く。
- 映像化:風に乗る声を視覚化し、詩が町に染み込む様子を幻想的に演出。
- ナレーション:詩人の声が語り部となり、町の変容を見守る構成も可能です。
連載版もあります。
詩小説ショートショート集
わたしとAI君とのコラボレーションです。
このショートショートのもとになった詩は、連載版「われは詩人 でなければ死人 ーAIと詩を語るー」で読めます。
ショートショートタイトル「生ける死人」の原詩は「われは詩人 でなければ死人」です。




