将軍家斉の死
その後、感応寺は雑司ヶ谷へと拠点を移した。
美代のたゆまぬ働きかけによって、大奥の女たちが次々と祈祷に訪れるようになる。日ごとにその名声は広まり、やがて「寛永寺、増上寺につぐ第三の徳川家の菩提寺に」との計画さえもちあがった。
天保八年(1837)。将軍・徳川家斉は次男の家慶に将軍職を譲り、自らは西の丸に隠居した。
しかし、隠居といっても形だけで、政治の実権は家斉がしっかりと握っていた。家慶はすでに四十五歳に達していたが、所詮、形だけの将軍にすぎなかった。
天保十一年(1840)。家斉は六十八歳を迎えていた。
一方の美代は四十三歳。だが、その美貌は少しも翳らず、むしろ艶を増したかのように見えた。夜灯りのもとでふと笑むその姿には、誰もが息を呑む。人によっては三十そこそこにしか見えなかったという。まこと、妖女といっても過言ではない。
西の丸に隠遁して大御所となった家斉は、晩年に至っても性欲が衰えることはなかった。若いころから身体は頑健で、弓矢や水泳、鷹狩など武術の鍛錬も決しておろそかにしなかったといわれる。
また、かなりの酒好きで、「奈良の南都諸白」や「伊丹の剣菱」など最高級の酒を浴びるように飲んだ。そして、いかほど飲んでも乱れることはほとんどなかった。
酒の肴としてよく口にしたといわれるのが生姜であった。生姜は体を温めると同時に精力維持にも効果があるとされる。また、オットセイの陰茎を粉にして精力剤としていたという話は有名である。さらに当時としては珍しく牛乳を飲み、バターのようなものも好んだという。
さて、美代はさすがに四十を過ぎて、家斉の夜の相手をすることが少なくなった。代わりに美代の息のかかった元部屋子が側室として、しばしば家斉の夜の相手をした。
しかし、この絶倫老人の夜の相手というのは、そう簡単なものではない。彼女たちの中には二度、三度相手をした後、体を壊すなどして役目を辞退する者が相次いだ。
天保十一年も秋が深まるころ、今日も大奥の家斉のために特別にしつらえられた鏡の間からは、女のあえぐ声が聞こえてきた。今宵の相手は、やはり美代の元部屋子で、お安の方という者だった。
この日の家斉は特に執拗であった。最初は正常位で、次に後背位で、さらには女を上にして三度目の絶頂に達した。なにしろこの日の家斉は、清国から伝わったとされる特別な強壮剤を口にしていたのである。
そしてついにお安は、家斉の上にまたがったまま悶絶し、股間のあたりを押さえて、ゆっくりと崩れ落ちた。
家斉はなおもお安の尻に挿入しようとさえしたが、お安は恐怖の表情をうかべてこれを拒絶した。
「どうか、どうか今宵はご容赦を!」
なおも性欲をおさえきれない家斉は、なんと事もあろうに、この一部始終を見守っていた添い寝役の女に目をつけた。その女は十九ほどの、まだ若い娘で、お鶴という、やはり美代の息のかかった元部屋子だった。
「どうじゃ、そなた。代わりにここで余の相手をせぬか?」
「かようなことは許されませぬ。私はただの添い寝でございます」
「遠慮することはないぞ。そら、こっちへ来い!」
家斉は無理やり鶴の足首をつかみ、強引に寝所へ引きずった。馬乗りになると着ていた寝巻きを力いっぱい引き裂き、胸が露わになると、顔をその中にうずめた。
「どうか、どうかお許しを!」
鶴は悲鳴をあげた。その時、異変がおこった。突如として家斉は胸が苦しくなり、呼吸が詰まってその場に昏倒。苦痛にうめき声をあげ、そのまま人事不省の身となった。
家斉倒れるの報に、大奥、いや江戸城そのものが震撼した。
医師の懸命な治療により家斉は、かろうじて一命だけはとりとめた。しかし、もはや起き上がることもかなわず、言葉もまるで呂律がまわらない。お美代をはじめ、親しい者の顔を見ても、それが誰なのかさえわからぬ様子だった。そして時折、癇癪をおこしては暴れだし周囲を困らせた。もはや誰がどう見ても、家斉の死が遠くないことは明らかだった。
西の丸大奥の家斉の病室には、一部の幕閣の重鎮以外は立ち入り禁止となった。一部の幕閣の重鎮とは厳密には、若年寄・林忠英、側衆・水野忠篤、小納戸・美濃部茂有の三人である。いずれも家斉の信任をよいことに、幕政を牛耳ってきた者たちであった。
彼らと、そしてやはり家斉の元で出世し絶大な権力を手にした中野石扇はいずれも、家斉死後の己の行く末を思った。現将軍・徳川家慶とその側近たちは、いずれも彼らを快くは思っていなかった。家慶がついに政治の実権を握った後は、遠ざけられるのは目に見えていた。遠ざけられるだけならまだよい。最悪の場合、地位も領地も失い、悲惨な末路が待っているかもしれなかった。
己らの保身のため、彼らと美代の間で恐るべき陰謀が進行しようとしていた。
大御所家斉の病がいよいよ悪化するころ、美代の義父・中野石扇は向島にある自らの私邸に、さる大藩の来客を迎えていた。
向島の石扇の私邸は、その権勢を誇示するに十分な代物だった。庭園は巨岩と珍木を配置した広大なもので、銘木のあたりには秋草や山野草が植えられ、萩やナデシコ、オミナエシなど秋の七草類が美しく配置されていた。将軍家斉の好みに合わせ、金をかけた珍しい品種、たとえばミヤギノハギやキキョウ、ホトトギスなどが池畔や小径に点在し、文人墨客の間でも評判だったという。
来客の名は奥村大膳。天下三百諸侯の中で徳川宗家に次ぐ百万石、加賀前田家の家老職にある者である。
「馬鹿な! そなた、まことかようなことを申しておるのか!」
その夜、大膳は石扇が持ち出したあまりに大それた企みに、半ば驚愕した。
「犬千代様を上様の養子として、ゆくゆく十三代将軍になどと。将軍職は徳川家の代々の世襲ではないか。前田家の出る幕ではない!」
犬千代とは、後の前田家十二代藩主・前田慶寧の幼名である。母は美代の娘・溶姫。すなわち直接の血のつながりはないが、石扇からすればひ孫にあたる。そして将軍家斉からしても孫にあたる。しかし、いかに家斉の孫といえども、前田家の人間が将軍として君臨するなど到底不可能なことに思えた。
「前田家は徳川家につぐ大大名として、藩祖前田利家公の時代より、代々将軍家と縁組を重ねてきた。将軍になる資格は十分にあると思うが」
と、石扇は煙草をふかしながら、落ち着きはらって言う。
「わしが聞くところによると、上様のご病状かんばしくなく、もって後一月ほどのこととか。将軍家は代々、新たな将軍の就任と同時に、前将軍の側近を遠ざけてきた。我らもまた同様な事態に直面する可能性は十分考えられる。しかし、犬千代様が跡取りということになれば、我らの地位も安泰というものだ」
一瞬、石扇は疑心暗鬼の様子を浮かべる大膳の表情を、楽しむかのように眺めた。
「まずはこれをご覧になるがよかろう」
石扇が差し出した密書らしきものを目にして、大膳は仰天した。なんと、それは将軍家斉の遺言で、前田犬千代を現将軍家慶の跡取りとすると記されていた。
「まことに、これは上様が書いたものか?」
「偽でござる」
石扇はあっさりといってのけた。
「愚かな! それでは謀反ではないか。かような物を捏造したところで、筆跡や花押で一目でばれるわ。前田家はかような計画に加担することはできぬ!」
「まことに左様でござりますかな?」
石扇はもう一通の書状を取り出した。それは、かつて家斉が石扇あてに差し出したものであった。驚くべきことに筆跡はほとんどそっくりであるばかりか、花押までもがほぼ同一のものだった。
「大奥の祐筆の間に、美代の息のかかった者がおって、その者に特殊な方法で作成させたものじゃ。大奥の祐筆の者たちは、徳川草創期より今日に至るまで、大奥の陰謀事件に関与し、この手の偽文書の作成に関しては、巧の技といっても過言ではない。これがあれば、たとえ次の上様とて文句はいえまい」
事が事であるにもかかわらず、石扇はどこまでも冷静であった。
「しかし、いかに遺言だとはいえ、これほどの大事でござるぞ。上様がまことに逝去すれば、御三家をはじめ、譜代の者とて黙ってはいないのでは?」
「確かに、ひと昔前であったなら、必ずや御三家あたりが横槍を入れてきたであろう。なれど今は、御三家も譜代の者どもも、上様の五十数人もいる子供たちを押し付けられ、一橋の血の支配に甘んじておる。もはや世に徳川幕府などは存在しない。今あるは、いわば一橋幕府とでもいうべきものだ」
そこに前田家のつけいる隙があるというのである。大膳は思わず身震いした。これは前田家にとっても大きな賭けであった。
やがて天保十二年(1841)の正月を迎えるころから、大御所家斉の病状はにわかに悪化した。閏一月七日、家斉はついに不帰の人となった。享年六十七。
その治世は文化文政期といわれ、町人文化が栄えた実に華やかな時代であった。家斉自身も、幸福といえば、歴代将軍の中でも最も幸福な将軍だったかもしれない。大奥での女たちとの日々のほかにも、家斉には芝居見物や釣り、鷹狩など多くの趣味があった。いわば人生の愉快を知りつくし、それができる星のもとに生まれてきた、稀有な幸運の人であったといえるだろう。
家斉の死は大奥や幕閣はおろか、日本国に住むすべての人々にとって、天変地異に匹敵する衝撃であった。そして、大奥と美代の運命もまた、大きく変わろうとしていた。




