太右衛門の受難(二)
一体、何者が己の命を奪わんとしているのか。
半ば人間不信になりながらも、太右衛門は一月のすると江戸城御広敷での勤務に戻った。
やがて大奥で美代のもとに仕え、美代の動向を見張っている伊予という女中から手紙が届いた。内容は、谷中にある感応寺という寺に、最近、大奥の女たちが密かに通っているらしいので、様子を探ってほしいというものであった。
感応寺は、日蓮宗の中でも不受不施派の寺であった。法華宗以外の施しは受けず、施さずということで、日蓮宗の中でも異端とされていた。そのため幕府からも様々な圧迫を受け、元禄十一年(一六九八)、住持は遠島処分となり、強制的に天台宗への改宗を命じられた。
それ以来、日蓮宗への復帰は、感応寺のいわば悲願であった。たまたま美代の実父・日啓が将軍家斉の信頼を得たことは、感応寺にとって、まさに好機到来である。なにしろ、日啓が住職を務める智泉院は、日蓮宗の有力寺院・中山法華寺の子院である。
現在の感応寺の住職は、日啓の甥である日縁であった。当然、美代とも縁戚関係にある。美代の働きかけにより、大奥の女たちも次第に感応寺へ足を運ぶようになった。もちろんそれは、ただ祈祷のためだけではなかった。
さて太右衛門は、最近死別した妻の供養のためという名目で、休みの日に感応寺を訪れた。谷中霊園といわれる広大な墓地群を抜けると、そこに問題の感応寺があった。現在、そこは天王寺となっている。
表門をくぐり、山門を通って参道を進み、中門へ至ると、やがて本堂が見えてくる。
本堂は、谷中一帯を見晴らすように堂々とした姿を見せていた。重く反り返る入母屋造の屋根には、黒々とした瓦が幾重にも重なり、棟の両端には鴟尾が据えられて、遠目にも格式の高さが分かる。正面中央には、唐破風付きの向拝が張り出し、いく段かの石段が参詣者を静かに迎えていた。
向拝の下に立てば、太い柱が等間隔に並び、黒漆に似た深い艶が灯の光を鈍く返す。昼間ともなれば、蔀戸が跳ね上げられ、堂内が開けて香煙と柔らかな光が外へ流れてくる。天井は細やかな格子組で、ところどころに花鳥の絵が透けるように見え、中央には大きな吊り灯籠がどっしりと下がっていた。
外陣にはひんやりとした空気が満ち、ひときわ高く設けられた内陣には、金色の宮殿に守られて本尊が静かに安置されていた。左右には脇侍の像が控え、前には常花や幡が飾られ、堂内全体が淡い金色の光に包まれているようだった。
外陣は参詣者のための空間である。そこには、およそ二十数人ほどの老若男女が祈りをささげていた。武士らしい者もいれば、商人らしき者もいる。部屋全体に強い香の匂いが立ちこめ、六十ほどの僧侶の読経の声が朗々と響き、全体に異様な空気が漂っていた。
太右衛門もその中に混じって祈りをささげていたが、やがて怪しい雰囲気が立ちこめた。突然、泣き出す者、叫び出す者、さらには誰かに謝っている者もいる。いわば集団発狂に近いような状況であった。
もともと伊賀の忍びである太右衛門は、部屋全体に満ちている香の匂いが、人の精神を狂わせる作用を持つことに気づいた。このままでは己の身も危ない。とっさに立ち上がり、逃げようとするが、足に力が入らない。
「いずこに行かれるつもりか!」
背後で読経をとなえていた僧侶の叫ぶ声が響いた。その時、信じられないことが起こる。突如として床から何本もの人の腕が出現し、太右衛門の足をつかんだのである。
「己! これは……化け物めが!」
太右衛門は刀を抜いた。その瞬間、さらに恐るべきことが起こる。床にぽっかりと穴が開き、太右衛門は、いずこが果てとも知れぬ地の底へと転落したのである。
次に目を覚ました時、太右衛門は布団に寝かされていた。
起き上がると頭痛がして、一瞬、周囲の風景が歪んで見えた。近くには仏壇があり、かまどがあり、女物の襦袢らしきものが干してある。
目の前には水の入った茶碗があり、太右衛門は喉の渇きを覚えて、一息に飲み干した。
次の瞬間、障子が開き、女が姿を現した。
「お前は……伊予! どうしてここに?」
それはまぎれもなく、脇坂が美代のもとへ密偵として放った伊予であった。
「それは今は申せませぬ」
伊予はどこか固い表情で言った。
「ここはどこだ?」
「それも申せませぬ」
伊予は沈痛な表情のままであった。
「どうしたというのだ、伊予? 俺とお前の仲ではないか。だいたい、お前、どうやって大奥を抜け出してきたんだ。大奥というのは、そんなに簡単に抜け出せるものなのか?」
「大奥は、美代様の許しがあれば、宿下がりすることは不可能ではありません。今日は、どうしてもあなたに聞きたいことがあったのです」
「聞きたいこと?」
「貴方が私との婚約を破談にしたのは、私が梅毒を患っているという、あらぬ噂を鵜呑みにしたからだと聞きました。それはまことですか?」
「今になって何を申すのだ。わしは、かような噂を信じてはおらぬ。ただ父上が承知しなかったのだ。なにゆえ、この期に及んで、そんなことを?」
その時、太右衛門は伊予の目に、一筋の涙を見た。
「何故に泣く? もしやそなた、大奥暮らしが辛いのか? 聞くところによると、さぞや難儀しておるそうだな。『鶯』などというあだ名をつけられて……」
ここで太右衛門は言葉を切った。
「そなた、女の身でありながら、女の美代と体の契りを結んだというのは本当か?」
しかし伊予――いや、鶯は答えなかった。
次の瞬間であった。太右衛門は激しい腹痛に襲われ、地に伏した。
「どういうことだ、これは! そなた、先ほどの水に毒を……」
「もう私は、後戻りすることはできないの! 許して!」
意識が混濁する中、太右衛門はすべてを悟った。
「そうか……そなたなら、俺の行きそうな場所、なじみの女まで、すべて承知しておる。そなたは……間者を任されながら、いつの間にか敵の間者になっていたというわけか。以前、刀を持ち出したのも、お前だな……何故だ!」
その時、太右衛門は、鶯の背後に美代の影を察した。
「なるほど……お前は体だけでなく、心まで美代に篭絡されたか! わしが心から愛した女は、お前だけだったというのに!」
太右衛門が絶命するまで、時はかからなかった。
事がすむと、鶯は大奥・長局へ戻っていった。
そしてその夜も、美代に死ぬほどいたぶられた。
この日の美代は執拗で、縄で鶯の両手を縛って自由を奪い、顔には白布をかぶせ、全身をくまなく舐め回した。美代は、すでに鶯の性感帯や微妙な箇所を知り尽くしていた。
「あ……あ! 美代様、そこだけは!」
激しく、長時間に及ぶ執拗な責めに、鶯の眼光は虚空を仰いだ。そして脳裏には、裏切ってしまったかつての婚約者の顔が浮かんだ。しかし鶯は、もはや美代の呪縛から逃れられない体になっていた。
「お許しを……何かが変です!」
「本当はそんなことを言って、まだいたぶってほしいのだろう!」
そう言って美代は、鶯の尻の穴に液体のようなものをゆっくりと注ぎ込み、さらに指を一本、二本と入れて、ぐりぐりとかき回した。
「もう……許して! 死んでしまう!」
鶯は口から涎を垂らしながら、ついに人事不省となった。布団が精液で薄く濁った。
「またいってしまったのかい! 日に日に体が敏感になっているようだね。お前はもう脇坂のところには戻れない。ここでずっと私の奴隷として生きるしかないんだよ」
やがて朝が来た。目を覚ました美代は、衝撃的な光景を目の当たりにする。なんと鶯は舌を切って自殺していたのである。
「鶯……かわいそうな子。かつての婚約者を裏切ってしまった良心の呵責に耐えられなかったようだね。でも、死んでもあなたは私から逃れることはできない。あなたは未来永劫わたしのもの」
そう言って美代は、亡骸となった鶯の上におおいかぶさり、その豊満な胸を死に顔に押しつけた。
やがて、感応寺の近くで太右衛門は木に首を吊った姿で発見された。さらに鶯の死も脇坂に伝えられた。二人の死は、脇坂を深く絶望させることとなった。ほどなく脇坂は寺社奉行を辞職した。しかし美代の地位は、それで安泰ではなかった。
---




