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鏡の間の誘惑  作者: 雪影
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消えた三津

「麟太郎! 麟太郎! 一大事だ」

 庭で木刀の素振りをしていた麟太郎のもとへ、初之丞が息を切らしながら走り寄ってくる。

 「大変だ! 死んでいる!」

 「また鯉が死んでいたのでございますか?」

 「違う、今度は鯉ではない!」

 明らかに、初之丞の様子は尋常一様ではなかった。

 「これは……!」

 麟太郎が、先日鯉が死んでいた池で見たものは、なんと人間の死体だった。

 調査の結果、死体は男で、大奥に勤めていた奥医師・黄竹院であることが判明した。さらに調べが進められ、死因は誤って池に落ちたことによる溺死ということになった。

 中には他殺の可能性を疑う者もいたが、どういうわけか幕閣から強い圧力がかかり、黄竹院の死因は事故死として片づけられた。

 


黄竹院の死からほどなくして、上芝口の脇坂邸を密かに訪れる者があった。

 「死んだ! 黄竹院が……!」

 さしもの脇坂も、自らが放った密偵の死に、深い衝撃を受けた様子だった。

 「美代に気取られたのだ! もしや、我らが後ろにいることまで知るところとなったやも……」

 男の名は妹尾太右衛門という。脇坂の遠縁にあたり、今は大奥の御広敷につとめていた。三十代半ばで、凛々しく太い眉は脇坂とよく似ていた。

 「それで、黄竹院の死因については調べがついたのか?」

 「恐らく、美代か、美代の息のかかった者が手にかけたに違いありません。しかし幕閣の調べでは、誤って池に落ちたことによる事故死ということで……」

 「うむ、何者かの圧力がかかったのやもしれぬなあ……例えば、美代の義父あたりか?」

 それから一分ほど、脇坂は何事かを思案した。

 「今後は今まで以上に慎重に事にあたらねばなるまい。それで他に変わったことは?」

 「特にないが、そういえば玄関口で伊予を見ました。なにやら大きな風呂敷包みを抱えていて、俺が声をかけてもろくに返事もしなかった」

 「風呂敷包み……? 伊予か。あ奴は今、宿下がりの最中じゃ。黄竹院が死んだ以上、あの女には今まで以上に密偵として頑張ってもらわねばなるまい」

 と、脇坂は声を小さくして言った。

 「その件だが、伊予にこの仕事は負担が重すぎると俺は思うのだ」

 「ほう、何故だ?」

 「聞けば大奥で、伊予は他の者からいじめを受け、たいそう苦労している様子。あの者は元々気が小さく、密偵には向かぬと思うのだ」

 「そういえば、そなたと伊予は幼馴染だったな。そなた、伊予に恋焦がれておったのか?」

 と、脇坂は少しいやらしい目で言った。

 「今は、そのような話をしているのではない!」

 と、太右衛門は声を荒げた。

 「ところで、わしが身元保証人を引き受けて大奥で上様の寝屋に上がった三津が、今度宿下がりしてくるそうじゃ。父の葬儀のためとか申しておったな」

 と、脇坂は強引に話題を変えた。

 「本来なら、一度でも上様の寝所に上がった者は、たとえ親の死でも宿下がりなど許されぬところじゃ。なれど寝所で涙ながらに上様に、父の葬儀に出られぬ悲しみを訴えたところ、上様がこれをお許しになったそうじゃ。もちろん過ちがなきよう、わしがしっかりと三津を監視せねばなるまい」

 ここで脇坂は、煙草をぷかぷかと吹かした。

 


さて、問題の三津の父の葬儀は、根岸にある浄土宗の寺で盛大に執り行われた。

 葬儀は無事に終わり、三津は数日間、家族と水入らずの日々を過ごした。そして籠に揺られて江戸城大奥への帰路につく。

 さまざまな儀礼や親族回りなどに追われ、かすかに疲れの色が見える三津は、籠の中で不覚にも眠りこけてしまった。

 どのくらい時間が経っただろうか。籠の中でうとうとしていると、何者かの叫ぶ声がした。

 「己! 何奴!」

 それは前方で籠を担ぐ者だった。三津は現実に引き戻され、目を覚ます。

 次の瞬間、籠はひっくり返り、三津の体は強制的に外へ投げ出された。三津には、そこがいずこなのか、何が起こったのかさえもわからなかった。

 「お逃げくださいませ!」

 後ろで籠を担いでいた者が叫ぶ声がした。前方で籠を担いでいた者は、血まみれでその場に倒れていた。

 三津はとっさに生命の危険を察知し、その場から逃走する。背後から刀を手にした侍が数名、追いかけてくる。途中、三津は打掛が邪魔になり、その場に脱ぎ捨てて、さらに逃亡を続けた。

 しかし、橋のたもとで前方からも刺客らしき侍が数名出現し、逃げ場を完全に失った。

 「一体、何故の狼藉か! 私が何者か存じてのことか!」

 「かようなことは先刻承知! 一命、頂戴いたす!」

 ここで三津は覚悟を決め、川に飛び込んだ。

 「うぬ! よもや水に身を投じるとは! なれど、この川の深さなら助かるまい……」

 刺客の首領らしき侍は、三津のために一度手を合わせた。

 その後、三津は行方知れずのまま十日ほどが過ぎた。

 将軍家斉は、ここ数日、頭痛に苦しんでいた。

 美代の配慮により、信任あつい父・日啓が中奥御座の間に呼ばれ、簡単な祈祷がおこなわれる。

 しばし祈祷が続いたのち、日啓はいつになく恐ろしい顔になった。

 「どうしたのじゃ! 余の体に、何が異変でもあるやなしや」

 ただならぬ様子に、将軍もまた表情を変える。

 「恐れながら、お人払いを」

 すぐに近習の者たちや小姓などが退けられた。

 「されば、こたびの病は、かの三津様が上様に何事かを訴えようとしておる様子でござる」

 「なんと! それでは三津は……」

 「残念ながら、すでにこの世にはおりませぬ」

 と、日啓は沈痛な面持ちで言う。

 「では、では三津の身に、何がおきたと申すのじゃ!」

 「さればでござる。三津様の霊が申すには、脇坂様に関係を強要され、その後、事が発覚するのを恐れ、刺客をもって命まで奪ったと」

 「馬鹿な!」

 家斉は立ち上がった。

 「淡路守は、かような者ではない! でたらめを申すな! 余は、そのような話、信じぬぞ」

 「いえ、拙僧とて、にわかには信じられませぬが、ほどなく証拠が上がることと存じまする」

 と、日啓はなにやら予言めいたことを言った。

 もっとも、実は将軍の頭痛は、寝所で美代が茶に毒を入れたことが原因であった。もちろん将軍は何も知らない。

 果たして、数日して奉行所に届けがあった。三津が行方知れずになった橋の近くで刀が落ちていたというのである。その刀には、脇坂家の家紋である「輪違い」が、はっきりと刻まれていた。

 「何者かが、それがしを陥れようとしているに相違ござらん! 何故、かようなものが!」

 将軍から急な呼び出しを受けた淡路守は、必死に弁明する。

 そして日啓が除霊を行い、あわせて直接三津に事の真偽を問いただすことになった。脇坂もいやいや参加を強制される。この儀式には美代も参加することとなった。

 ところがである。除霊を翌日に控えて、将軍のもとに驚くべき来客があった。

 除霊は、大奥内庭にある吾妻稲荷神社の近くに祭壇が設けられ行われた。祭壇の前には蝋燭が十本並べられる。

 およそ半刻(一時間)ほどの祈祷の末、ちょうど月が隠れる頃、いかなる奇術であろうか、三津と書かれた蝋燭以外はすべて風もないのに消えてしまった。

 座がどよめく。と、突如として日啓がその場に昏倒した。

 「一体どうしたというのじゃ!」

 「わらわは……この者に殺された!」

 「日啓! 大丈夫か!」

 将軍の問いかけに、日啓はにわかに信じられぬことを言った。

 「日啓ではなく、三津……」

 「馬鹿な! 三津が日啓に乗り移ったと申すか!」

 「わらわは……この者に関係を強要された。そして、口封じのために! ああ……呪わしや!」

 と、三津の霊がそうさせたのか、日啓は脇坂を指さしながら言う。

 「何を申すか! 己、坊主め! でまかせを申すと容赦せぬぞ」

 と、脇坂は理性を失い、一瞬、刀に手をかけた。

 すると、しばしの沈黙の後、日啓は正気に戻った様子だった。

 「ああ……恐ろしや! これは凄まじい怨念にござる。拙僧ごときの手に負えるものではござらぬ! 三津様はさぞやご無念であったことでござろう」

 ところがである。その時、突如として将軍が声をあげて笑いだした。

 「いや、何と申したらよいのやら、今宵は誠に面白い座興を見せてもらった。そろそろ出てきてもよいぞ」

 将軍の声に応じて神社の裏手から姿を現した人影に、日啓も美代も思わず叫び声を上げた。脇坂もまた驚愕の色をうかべた。

 なんとそれは、死んだはずの三津だったのである。

 「誠か? わらわが死んだと申すは?」

 と、まず三津は辛辣な皮肉を言った。さしもの日啓も返す言葉を失ったのか、意味不明の言い訳じみた言葉を繰り返した。

 三津は川に飛び込み下流に流されたが、偶然近くを通りかかった漁師に救助され、九死に一生を得たのだった。

 「淡路守がそなたをかどわかしたと申すは誠か?」

 将軍の問いに、三津は脇坂の容疑を完全否定した。

 


この後、美代は寝所で何度も事を詫び、言い訳じみた言葉を繰り返した。

 「もうよいと申しておろう。神頼みとて、誤ることもあるものじゃ。ところで三津の方は、こたびのこと、汝とそなたの父が仕組んだに相違ない。襲われたのも、そなたの手の者の仕業に違いないと申しておるが、誠か?」

 「仏に誓って、かようなことはございませぬ!」

 と、美代は畳に膝をつき、容疑を否定する。

 「三津にも『美代はかようなことをするおなごではない』と釘をさしておいた」

 美代は、かすかに安堵の色をうかべた。

 「ただしじゃ……」

 将軍は寝床でくるりと美代に背を向けた。

 「あまり余を甘くみるなよ!」

 この一言で、美代の背に冷たいものが走る。

 かくして脇坂淡路守は、かろうじて虎口を脱した。

 しかしどうしても腑に落ちぬことがあった。問題の刀はまぎれもなく脇坂家の所有物だったのである。一体だれが、どのような方法で外へ持ち出したのか。驚くべき事態が進行しつつあることを、脇坂はまだ知らずにいた。



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