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鏡の間の誘惑  作者: 雪影
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寺社奉行・脇坂淡路守

 江戸時代の上芝口一町目付近は、現代の地名でいうと東新橋1丁目近辺に該当し、汐留・新橋のオフィス街となっている。この周辺は仙台藩、会津藩等、大名の上屋敷が多くあり、その中に播磨国・龍野藩の脇坂家の上屋敷も存在した。

 脇坂家の現当主は、八代目の脇坂淡路守安董である。この人物は世に硬骨漢として知られ、すでに初老の域にあるが、太い眉をしており、頑健な肉体をしていた。安董は寺社奉行も兼ねていた。

 寺社奉行は「大名職」で、江戸城内では大広間詰という高い格式をもっていた。寺院・神社の統制と宗教行政を主目的としており、町奉行、勘定奉行を俗に公事方三役という。いずれも老中を補佐し、順調にいけば、自身の老中職も夢ではない。いわば、超エリートである。

 その淡路守安董は、ここ数日の激務の疲れを癒そうと、久方ぶりに湯にゆっくり浸かっていた。湯殿はそれほど広くはない。風呂は白木の小判形の丸桶である。背後で扉が開いた。姿を現したのは、妻の衛だった。

「お背中お流ししましょうか」

「よい、今は一人で考えたいことがある」

 と安董は、せっかくの妻の申し出をことわった。ここ数日、安董は職務のことで悩んでいた。安董が、将軍御台所寔子の急な呼び出しを受け、江戸城大奥の御座之間で密会したのは、三月ほど前のことであった。


 御台所自らのお召ということで、やや緊張した面持ちで脇坂が、その出現を待っていると、やがて梅をあしらった打掛に身をつつんで、寔子が姿を現した。

「顔を上げよ、淡路守」

 淡路守が見たところ、以前見た時よりも御台所は小皺が増えたように思えた。しばし、他愛もない世間話が続いた後、御台所寔子は本題をきりだした。

「昨今は、大奥の風紀の乱れもはなはだしい。かの御美代の実家の智泉院なる寺に、この大奥の女中達が密かに足を運び、祈祷と称して坊主たちとふしだらな関係を結んでおるという」

「その噂なら、それがしも密かに聞き及んでおります……」

 そこで淡路守は、しばし沈黙した。明敏な淡路守は、すでに寔子が己に無理難題を持ちかけることを予期していた。

「そなた、寺社奉行の権限にて、なんとかして美代をはじめとして、僧侶と女中たちのふしだらな関係を暴き、厳罰に処してはくれぬかのう」

「お言葉なれど、いかに寺社奉行とはいえ、権限を行使できるには限度というものがござります。また、それがし、昨今は病気がちなれば……」

「そなたの立場なら、かよう申すのも致し方あるまい。以前の延命院の一件で、大奥というところが、いかほど面倒な代物か、いやというほど学んだのであろう」


 智泉院事件以前にも、僧侶と奥女中達の密通事件はあった。

谷中に、延命院という日蓮宗の寺院がある。かつて三代将軍家光の側室であったお楽の方が、安産祈願をおこない、四代将軍家綱を身ごもったと伝えられる寺である。それ以来、この時代に至るまで、徳川幕府の手厚い庇護を受け、大奥の女達が代参で訪れることがしばしばあった。

 この延命院に、日潤という美男の僧侶がおり、歌舞伎役者・尾上菊五郎によく似ているということで、大奥の女たちの間でも大変な評判になった。そして、ついには女中達とこの日潤の不義密通の疑いが、江戸市中でも公然とささやかれることとなる。

 ここで寺社奉行の脇坂淡路守安董は、事態の徹底調査と真相究明を試みるも、大奥の女達の背後には将軍家斉がいる。いかに寺社奉行といえど、下手に手出しはできなかった。

 そこで安董は思い切った策に出る。自らの息のかかった女を大奥に潜入させ、奥女中達が日潤に送った艶書ラブレターを手に入れる。証拠を手にした安董は、延命院に踏み込み、僧侶数名と、そして日潤を捕縛するに至る。

 しかし日潤は、日本橋のたもとに数日晒しものにされたあげく、斬罪という極刑となったものの、当の奥女中たちにはほとんど咎めはなかった。将軍の権威をかさにきた大奥の女たちは、寺社奉行の権限をもってしても、いかんともできなかったのである。


「恐れながら……。やはり大奥のことは、大奥で解決するのが筋でありましょう。女の園たる大奥の揉め事には、公儀はできるかぎり介入せぬ――これが古くからの慣例にござりまする」

安董は、あらためて固辞した。

「この大奥に住む者が、外の世界と容易に接触できぬこと……そなたも、よくわかっておろう」

安董の顔に、かすかに暗い影がよぎった。

「わらわは、何もこの大奥で私怨を晴らすために頼んでいるのではない。美代や上様の閨にはべる女たちに、恨みや嫉妬がないといえば、嘘になるやもしれぬ。なれど、それだけではないのじゃ。 

上様とは、まこと幼き日より、この齢になるまで共に歩んでまいった。夫が他に二十数人もの女と関わり、それを正室である私が黙認せねばならぬなど――市井の夫婦では考えられぬことであろう。己の居場所がわからず、上様やそのお側に仕えた中臈たちを憎んだこともあった。

 じゃっど、私は薩摩の生まれ。薩摩には〈日親上人いろは歌〉というものがあり、幼きころより人の道を繰り返し教え込まれてきた。その中に、このような一首がある――


私を捨てて君にし向かわねば 恨みもおこり述懐もあり


 わらわは、大奥のためだけではない。上様のため、徳川のため、そして天下万民を安んじるために申しておるのじゃ。そのために、そなたの力を貸してたもんせ」

 

 ちなみに脇坂の娘の寿子は、寔子の父である薩摩藩主・島津重豪の養女となっていた。すなわち、直接の血のつながりこそないものの寔子と脇坂は縁戚ということになる。その寔子から、ここまで頼られては断ることはできなかった。すでに脇坂は美代の周囲に多数の密偵を放っていたのである。




 さて、江戸城西の丸は、代々、将軍の世継ぎやその妻子が居住する場所である。将軍家斉の世継ぎで、後に十二代将軍となる家慶も、西の丸に居住していた。

春が来て、麟太郎はしばし、西の丸の近くの庭で桜の木々に見とれていた。

「見事な桜の花だ……いや、この庭園自体が、この世のものとも思えないほど美しい。俺のような身分の者が、かほどに美しい光景を目の当たりにすることになるとは」

 この麟太郎なる者は、実はやくざ者に等しい者の息子である。しかし、複雑な事情により、家慶の五男・初之丞の遊び相手に選ばれ、初之丞と共に西の丸に居住していた。初之丞も麟太郎もまた幼い。ちなみに大奥というところは原則男子禁制ではあるが、9歳までなら特例として居住を許された。

麟太郎が桜を楽しんでいると、何者かの足音が近づいてくる。初之丞君だった。

「麟太郎、大変だ!」

「若君、いかがいたしました!」

 麟太郎は初之丞君に導かれ、庭の片隅に設けられた人工の池の前までたどりついた。そこでは、水面に鯉の死骸が浮いていた。

「これは寿命にございますな。まことに痛ましいことです」

 麟太郎が重苦しい表情で言うと、初之丞もその場にがっくりと膝をついた。二人は鯉を池から引きあげ、小さな墓をつくって埋葬する。

「もう泣くのはおよしなさい。命あるものには必ず死が訪れ、この世に存在するものには、必ず終わりがあるものでございます」

 麟太郎は、相変わらず重苦しい声で言った。

「ならば聞くが、麟太郎。徳川の世にも、いつか終わりが来ると申すか?」

 思いもかけない初之丞の問いに、麟太郎はしばし沈黙した。

「お言葉なれど、幕府はまさに不滅にござりまする」

「なれど、この江戸も幾度も災害に見舞われ、そのたびに多くの人が死んだと申すではないか。もし余が   将軍となり、かようなことが起きたら、余はこの国の主として何を為すべきだと思う?」

「それは……」

麟太郎は返答に窮し、困惑した。

「その時、そなたは余の臣下として、いかがいたす所存じゃ?」

 結局、麟太郎は何も答えることができなかった。



 桜の花のそろそろ散る頃、美代は病に倒れた。直ちに奥医師である黄竹院という者が、美代の枕元に呼ばれた。

「お苦しゅうございますか?」

「胸が……胸が焼けるようじゃ!」

 美代はうめくように言った。

「もしやしたら、五臓六腑のいずこかの病やもしれませぬなあ……。こればかりは、調べてみなければわかりませぬ」

 つまり黄竹院は、直に美代の体に触れてみないと原因がわからぬ、というわけである。もちろん、そのためには美代を裸体にする必要があった。

「そなた達は、しばし下がっておれ」

 美代は布団に横になりながら、小姓や部屋方の者達に外へ出るよう命じた。こうして黄竹院と美代は二人きりになった。しかしこれは、二人の暗黙の了解の上での芝居だった。実は美代は、どこも悪くなかったのである。

「大丈夫でございますか? 美代様」

黄竹院がわざとらしく言う。

「ああ……胸が……胸が苦しい」

 美代もまた、わざとらしく応じた。

「脱がしますぞ」

 黄竹院はまだ若く、三十代半ばを過ぎたあたりである。美代の小袖を脱がし、肌襦袢を脱がし、豊満な裸体が次第に、次第に露わになっていく。それだけでも黄竹院は、喜びと興奮で手先がぶるぶると震えた。

残るは下半身である。美代の下半身をおおっているのは、湯文字と蹴出しだった。ここで黄竹院はしばし躊躇した。

「どうした? そなたの好きにしてよいのだぞ!」

美代の声音は、もはや正常な人間のそれに戻っていた。


 黄竹院が、こらえかねたように乳首にむしゃぶりつくと、三十過ぎの美代は、まるで小娘のような声をあげた。この声が、また黄竹院の性欲を刺激する。

 半ば乱暴に湯文字と蹴出しをはぎとると、今度は美代の秘部を、舌でなめまわす。

 ところがである──この時、異変がおこった。

 突如として黄竹院が大量に吐血し、美代の秘部に顔をうずめたまま、しばし動けなくなった。

「どうしたというのじゃ。わらわを喜ばしてくれるのではなかったのか?」

「まさか……まさかお体に毒を!」

「よもやそなたが、わらわを見張っていた間者であったとはな……」

 美代の声は、かすかに怒りに震えていた。

 黄竹院は、罠にはまったことを察したが、もう後の祭りだった。

「申せ! 誰の指図で、わらわを見張っておった!」

と美代は、さきほどとはまるで別人のような、恐ろしい声色でいった。

「申せませぬ……どうか、どうかご容赦を!」

黄竹院が、息も絶え絶えになりながら、ようやく声を絞りだすと、美代は、そのしなやかな太ももで黄竹院の首を強くしめあげた。耐えきれず、黄竹院は苦悶の叫びをあげる。

「毒消しの薬ならあるぞ。申せば命だけは助ける。約束は守る」

すると黄竹院は、息を切らしながら、

「脇坂……」

 と、ついに黒幕の名を喋った。

「脇坂! 寺社奉行の脇坂か!」

 美代が太ももの力を緩めると、黄竹院は、しばし苦痛にのたうち回り、やがて仰向けになった。喉のあたりをおさえ、苦痛に足をばたつかせる。

 その様子を冷酷に見守りながら、美代は、

「ほれ、これが毒消しじゃ!」

 と、黄竹院の口の中に薬らしきものを数滴たらした。

 黄竹院は、ほどなく絶命した。

「脇坂淡路守か……これは面倒な相手だな」

 美代は黄竹院の屍を踏みつけながら、しばし表情を険しくした。

 


 



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