表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡の間の誘惑  作者: 雪影
11/11

その後の美代~大奥の終焉


 感応寺事件で大奥女中と僧侶たちの密通を暴いた寺社奉行・阿部正弘は、その後も順調にエリートコースを歩み、ついには史上最年少で念願の老中に就任する。

 しかし嘉永六年(一八五四)六月、阿部は新たに恐るべき敵と遭遇することになる。今度の敵は大奥の女たちではなかった。それは、はるか太平洋を越えた遠い海のかなたから出現したのである。


 一般に幕末維新の動乱は、ペリーの浦賀来航から始まったといわれる。しかし実際はそれより早く、おそらくアヘン戦争あたりから始まったといった方がいいかもしれない。


 中華の中華たる所以は、そこに住む民が、自らの住む土地を世界の中心にあると考えたからである。確かに古来より中国大陸の豊穣さは他を圧倒していた。ある学者が今日風にGDP換算したところによると、少なくとも明代までは、地球上の他地域を合わせても中国大陸には及ばなかったという。


 産業革命が全てを変えた。アヘン戦争による清国の敗北は、数千年にわたり「中華」を自認してきた世界の敗北であり、以後今日まで続くアングロサクソンによる覇権の確立であったといっていい。


 このことは日本の知識人にとっても強い衝撃であり、幕閣もまた激震した。ちょうど同時期、およそ半世紀にわたって幕閣の頂点にあった将軍家斉が死去したことは、偶然にしても興味深い。この歴史の荒波に、大奥という狭い世界もまた、次第次第に翻弄されてゆくのである。


 


 さて、美代は家斉死去の後は髪をおろし、専行院となった。二の丸に押し込みとなり、決して広くはない部屋で、わずか数名の侍女と共に暮らすこととなったのである。


 その後の美代は質素な生活に甘んじなければならず、娯楽とよべるものも以前に比べれば限られていた。時々、昼間から酒を飲んでは侍女たちに舞を舞わせる。特に田鶴という、まだ十九歳の侍女の舞が気に入った。


「見事な舞じゃ。そなた腕を上げたのう。他の者はしばらく別室で控えておれ。わらわは田鶴と、しばし二人きりになりたい」


 やがて二人きりの部屋から、あきらかに普通ではない田鶴のあえぎ声といってもよい声が聞こえてくる。


 しかし美代は、今はただの一介の尼にすぎない。田鶴が人に訴えれば、美代の魔の手から逃れることもできたかもしれない。しかしかつて鶯がそうであったように、田鶴もまた、親子ほども年の離れた美代の性奴隷と化していたのである。


 その美代もまた、やがて老いる時が訪れる……。もはや時代は彼女を捨てて、激動の時代へ向かおうとしていた。


 


 家斉の後を継いだ十二代将軍家慶は、ペリーが浦賀沖を去ってからわずか十数日後、心労からか体調を崩し、六十年の生涯を閉じる。


 十三代将軍家定は、精神障碍者であったといわれる。そして将軍御台所として、新たに篤姫が薩摩から輿入れしてきた。通説では彼女は、家定の後継として一橋慶喜を将軍職に就任させるため、薩摩藩主・島津斉彬がつかわした大奥工作員であったという。


 しかしこれは事実ではない。将軍家定は篤姫以前に、すでに二人の将軍御台所を病で亡くしていた。篤姫は三人目だったわけである。幕閣は心痛し、かつて同じ薩摩出身の広大院が大奥をしっかりとまとめた過去の事例から、今一度薩摩から御台所を迎えることを希望したのである。


 篤姫は、三百諸侯随一の名君とうたわれた島津斉彬が選びに選び抜いて自らの養女としただけのことはあり、賢夫人であったといわれる。残された肖像画からも、意志の強さが伝わってくる。


 しかし彼女は薄幸であった。いかに斉彬の命とはいえ、精神障碍者の夫に嫁がされ、子はできず、結婚からわずか一年半で家定は世を去った。以後、彼女は髪をおろし天璋院となるのである。


 幕府は紀州出身の十三歳の家茂が継ぐこととなった。やがて京から公武合体のため、和宮が御台所としてやってきた。公家と武家のしきたりの違いなどもあり、天璋院と和宮の関係は、最初は冷めたものだったという。


 


 しかし時代はいよいよ激動の時代を迎えようとしていた。薩摩・長州の西南雄藩は、相次ぐ欧米列強との戦いで攘夷の不可を悟り、同盟を結び、その矛先をついに幕府へと向けてきたのである。


 慶応二年(一八六六)、ついに将軍家茂は第二次長州征伐のため旅立っていた。しかしこの戦いで幕府側は長州藩相手に、結果的に大敗北することとなる。戦況が悪化する中、家茂が大坂城にて持病の脚気が悪化。わずか二十一年の生涯を閉じることとなる。


 家茂は棺桶に入れられて江戸に帰還した。最後の将軍慶喜は大奥に足を向けることなく、ここに二百年以上続いてきた大奥は、永遠にその主を失ったのである。


 無言の帰還をした家茂と対面した和宮は、この時初めて慟哭し、その感情を露わにした。


 


 空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ


 というのが、この時和宮が詠んだ歌とされる。


 


 この戦いで薩摩藩は幕府の出兵要請を拒絶。すでに長州と同盟を結んでいた薩摩藩は、一気に倒幕へと舵を切っていたのである。薩摩の背信は、篤姫を深く苦悩させることとなった。


 家茂の後を受けて将軍に就任した徳川慶喜は、慶応三年(一八六七)十月十四日、ついに大政奉還をし、二六五年続いた徳川幕府はここに事実上終焉を迎える。しかし薩長の側にしてみれば大政奉還では生ぬるく、武力で幕府を完全に打倒する計画を密かに練っていたのである。


 こうして幕府と薩摩の関係が緊迫の度を増す中にあって、幕閣の間には篤姫を薩摩へ送り返す計画が持ちあがる。しかし篤姫は自身はいかにするべきか迷い、そして懊悩していた。そうした最中、不思議な夢を見た。


 


 ……篤姫は、大奥の歴代将軍と御台所の位牌が安置されている部屋の中にいた。


「わらわは一体どうしたらよいのであろうか? 徳川幕府はもうすでにない。ここにおわす方々が今まで数百年に及んで継承してきたものは、すでに途絶えた。私は徳川を捨てて薩摩に去るべきか」


 その時、強い光が差した。一瞬、篤姫は目を開けていることさえできなくなった。そして次の瞬間、そこに打掛をはおった老女が立っていた。


「貴方様は一体何者?」


「私が何者であるかは知る必要はない。じゃっど、こいだけはおまんに申し上げるつもりであえてここに来た。こんままではおまんが道を誤ると思ってのう……」


 老女は、篤姫にも聞き覚えのある薩摩訛りで語りだした。


「おまんは薩摩に戻るつもりか? それもよかろう。じゃっと、おまんもよう存じておろう。薩摩の武士が異常に誇り高い連中であることを……。おめおめと徳川を捨てて薩摩に逃げ戻ったおまんを見て、なんと思うか? おまんはこの先、薩摩で卑怯者の烙印を押されながら生きてゆかなければならぬのじゃぞ。


 今のおまんには二つの選択肢がある。一つは薩摩に戻り、恥を忍びながら生きる道。今一つは、ここでまことの徳川の人間となり、徳川を滅ぼさんとする敵と戦う道じゃ。


 よいか、ただ生きながらえようとする欲望には必ず限度がある。大奥の数百年の意地を示すことができるのは、もはやそなたを置いて他にないのじゃ」


 この言葉は、篤姫の心に深く刺さった。


「もしや貴方様は……?」


 しかし老女は何も答えず姿を消した。あとには元通り、歴代将軍と御台所の位牌が並んでいるだけだった。


 篤姫は夢から覚めた。そして幕閣の申し出を断り、江戸城に留まる道を選ぶのである。


 


 激動の慶応三年が終わり、慶応四年(一八六八)の元旦を迎えた。大奥ではお目見え以上の女中たちが集まり、毎年恒例の「おさざれ石の儀」が行われた。すでに大奥には将軍もおらず御台所もおらぬため、ことしのおさざれ石の儀は、篤姫と和宮がいずれも髪をおすべらかしに結い、十二単を着て、まず篤姫が、


「君が代は千代に八千代に……」


 と唱えた。続いて和宮が、


「さざれ石の巌となりて……」


 と唱えた。


 三百年続いてきたこの儀式も、今年で最後かもしれぬという漠然とした予感は、篤姫と和宮はもちろんのこと、そこに参列した者すべての共通の思いだった。


 篤姫の胸中はさらに複雑だった。かつて郷里の薩摩で、薩摩独特の青年教育制度である郷中教育において、若者たちが君が代を歌っている光景を見たことがあるからである。


 


 ……この時、遠く上方ではすでに戦端は切って落とされていた。くしくも慶応四年元日、世にいう鳥羽伏見の戦いである。最後の将軍慶喜は戦いを望まなかったが、薩長の度重なる挑発に、ついに幕臣たちが暴発した。


 この戦いはあっけなく終わった。薩長側に錦の御旗が翻るや否や、慶喜はたちまち腰砕けとなり、大勢の将兵を捨てて江戸に逃げ戻ったのである。


 


 品川に上陸した慶喜とわずかな供を、幕臣勝海舟が出迎えた。


「お帰りなさいませ」


 と海舟は膝をついて型どおりの挨拶をした。


「勝か……余は疲れた。あとは任せたぞ。それから、うなぎが食いたくなったので手配してくれ」


 それだけ言って慶喜は立ち去ろうとした。その時、海舟は抑えていた感情が爆発した。


「なぜ、大勢の将兵を捨てて身一つで逃げ戻ってきた! この糞が!」


 しかし慶喜は何も答えようとせずその場を後にする。


「この方は駄目だ。確かに才はある。平和な時勢であればうまく世の中を渡って、名君の一人にもなれたであろう。だがこの動乱の時代に、この日本国と幕府の命運をかけて博打を打つには、まるで向いてねえ。俺がやるしかねえ」


 海舟は、悲壮な覚悟を固めるしかなかった。


 


 慶喜を迎えた江戸城は大混乱に陥った。福沢諭吉によれば、一種のパニック状態だったという。およそ秩序というものがなく、昼間から廊下で寝そべる者もいれば、意味のわからないことを叫びながら走り回る者もいる。酒を飲んで酔いつぶれる者もいたという。


 しかし、この極限状態にあっても、天璋院は毅然としていた。


「一体この先、どうなるでありましょうか?」


 さすがに不安を隠しきれない様子でたずねてきたのは和宮だった。天璋院はしばしじっと和宮の顔を見た。まだ幼さが残ってはいる。しかし、この苦難の中にあって、かすかに大人の顔になったような気がする。


「ほんのこてよう聞け。わらわはもう薩摩を捨てました。この先も何があろうと、徳川の人間として生きてゆきます。わらわとおまんは、ここで徳川の人質となるのです。わらわとおまんがここにいる限り、敵もそう簡単にこの城に手出しができぬはず。


 なれど、もしやしたら敵は、我らを踏みつぶしてでも進もうとするやもしれぬ。その時は……どうかお覚悟あれ」


 和宮の目にかすかに涙が光った。かつては犬猿の仲だった嫁と姑は、この危難に際して心を一つにしたのである。


 両者はいずれも手紙を書いた。和宮は朝廷に向けて、天璋院は攻めてくる官軍の大将・西郷吉之助(隆盛)宛てである。


 天璋院が西郷に送った手紙が今も残っている。なんと三メートルにもおよぶ長大なもので、中には「私の一命にかけてでも是非是非お頼み申し候……」などという文言も見られ、強い覚悟のほどが伝わってくる。


 


 一方、薩長は勝ちに乗じて東海道を攻めのぼってくる。勝海舟はついに、江戸と幕府の命運をかけて西郷との会談にのぞむこととなった。勝は一度、西郷と会っている。後年、勝は言ったという。


「俺は生涯で恐ろしい人物と二人会ったことがある。一人は横井小楠でもう一人は西郷隆盛だ」


 その西郷と、勝は正面から対峙することを決意したのである。


 


 慶応四年(一八六八)三月十三日、江戸高輪の薩摩藩邸で、ついに両者の会見が実現した。両者が対峙した部屋の障子の向こうでは、人斬り半次郎と呼ばれた中村半次郎をはじめ、腕の立つ薩摩の武者が刀を手にして控え、万が一の時は海舟を一刀のもとに斬り捨てる覚悟でいた。


「江戸は何年ぶりだい、西郷さん?」


「さあ、そいは忘れもうした」


 両者の話し合いは、最初たわいもない雑談からはじまった。やがて西郷が、


「天璋院様からの手紙は目を通し申した。あん御方の婚儀のおり、その準備支度の一切を任されたのは、このおいでごわす。婚礼の衣装を身にまとった、あのおりの天璋院様は……薩摩では男が女に惚れることは御法度なれど、それでも惚れてしまうほどでごわした。よもや、こげなことになるとは……」


 と、この感情の量が多すぎる男は、かすかに目に涙をうかべた。


「そういや、この俺は幼少の頃、将軍の世継ぎ候補の学友として、一時期大奥で過ごしたことがあるんだぜ」


 一瞬、西郷は巨眼を見開いて海舟を凝視した。


「思い出すなあ、あの時の若君の言葉……。江戸は幾度も災害に見舞われ、そのたびに多くの人が死んだと申すではないか。もし余が将軍となり、かようなことが起きたら、余はこの国の主として何を為すべきだと思う? その時そなたは、余の臣下として何を為すつもりじゃ?」


 しばし海舟は遠い目をした。


「あの時俺は、何も答えることができなかった。同じことを西郷さん、あんたに聞きたい。俺たちは今この江戸で、江戸庶民のため、日本国のため、何を為すべきだと思う? 何ができるか? この江戸を火の海にするか、それとも生かして使うか」


 勝は真顔になった。


 この会見に先立ち勝は、江戸の火消し・やくざなどに金を渡し、官軍が進軍して来たら子分を使って市街を焼き払い焦土とし、その進撃を食い止めるよう命じていた。同時に大小の船を用意し、江戸市民を房総に避難させる準備もしていた。ナポレオン侵攻の際、ロシアがおこなった焦土作戦をまねたわけである。


 また英国のアーネスト・サトウに会い、英国の力をもって西郷に総攻撃の中止を求めるよう働きかけてもいた。


 勝は決して、ただ男と男の腹を割った話だけで西郷を説得しようとしたわけではなかったのである。


 結局、西郷は妥協した。後年、勝は『氷川清話』の中で「相手が西郷でよかった。他の奴だったら、もっと面倒なことになっていたろう」と述懐している。


 


 二百年以上続いた大奥も終わりが近づいていた。江戸城の薩長への引き渡しの日は四月十一日と決まった。引き渡しを前に、大奥では史上空前規模の大掃除が行われ、やがて篤姫を乗せた輿が一橋邸へと去っていった。


 立つ鳥跡を濁さず……。ついに薩長の兵士たちは江戸城に入場したが、整然と整理された様に驚きの色を浮かべたという。


 


 やがて薩長の兵士たちは二の丸にも姿を現す。この時に至っても美代は二の丸でひっそりと暮らしていた。すでに七十を越え、かつての美貌はもはやない。


 彼女と、彼女のわずかな侍女たちは二の丸の一室で、薩長の兵士が通り過ぎるのをじっと待っていた。やがて薩摩らしき兵士の声が、かすかに美代の耳にも聞こえてくる。


「ほんのこて歯がゆかど! おごじょ(女性のこと)がおって無防備でおるに、指一本触れるこつができんとは!」


「こいは西郷先生の命でごわんど。背いたら死罪になるかもしれもうはん。今は我慢じゃ」


「じゃっど!」


「義を言うな!」


 この薩摩訛りは美代の耳に届き、脳裏にあの広大院の姿がありありと蘇った。


「御方様、なにをなされます!」


 供の女が止めるのも聞かず、美代は隠し持っていた懐剣を携えて障子を開いた。


「なんじゃこの婆は!」


 数人の薩摩の兵士が好奇の目で美代を見た。さすがに百戦錬磨の薩摩の兵だけあり、美代が刃を向けても動じる気配はない。


「けっ! 婆では性欲の足しにもならぬ」


 兵士たちはそのまま通り過ぎ、美代はその場にがっくりと崩れ落ちた。


 美代の脳裏に去来するものがあった。一体なぜ、このようなことになったのか? およそ半世紀にも及ぶ家斉治世において、あの広大院は大奥のトップとして君臨し続けた。その結果、薩摩の幕政に対する発言力は非常に大きなものとなった。後の倒幕へと至る道は、一見天下泰平にも思えた家斉治世において、すでに着々と整えられていたのだ。


 あの時御台は、己を傾国の悪女といった。しかし本当の傾国の悪女は御台の方だったのではないのか? そう思った時、美代の胸に再び無念さと悔しさがこみ上げてきた。


 


 大奥の女たちはこの後城を去り、ある者は親類縁者をたより、ある者は出家した。またある者は大奥で培った礼儀作法や、その他さまざまな知識・経験を生かして、新たな人生を送ることとなった。


 皮肉なことに美代は、幕府の瓦解と大奥の終焉により初めて自由の身となった。この後、美代は長女・溶姫の嫁ぎ先である前田家の本郷屋敷へ移ることとなった。


 


 しかし幕臣たちの抵抗は、まだ終わってはいなかった。五月十五日、上野の山に立てこもる彰義隊に対し、新政府側は総攻撃を決定した。世にいう上野戦争である。


 この日、高齢の美代は加賀藩邸で体調を崩し寝込んでいたが、昼頃、天を裂くような破裂音で目を覚ました。それは佐賀藩がこの加賀藩の本郷屋敷に設置した、最新式のアームストロング砲だった。その射程距離と威力は凄まじく、不忍池を通り越し、徳川の菩提寺である上野寛永寺まで届いた。


「寛永寺が燃えておりまする!」


 侍女たちの騒ぐ声で美代は寝床から起き上がった。


「徳川の末の世まで、その目で見とどけろ」


 この時に至って中野石扇の言葉が、美代の耳によみがえった。供の者が止めるのも聞かず、美代は屋敷の外に出た。寛永寺は紅蓮の炎に包まれ、不気味な煙が天を焦がしていた。突如として美代が大声で笑いだした。


「見よ、徳川の世が燃えてゆく! 上様の文恭院様(家斉の戒名)の墓も燃えてゆくぞ! いいぞ、燃えよ燃えよ! 全て焼き尽くせ!」


 美代は狂ったように叫び続けた。美代の死は、これより四年後、明治五年のことであった。


 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ