偽りの遺書
将軍の死が公表されるより先に、例の偽の遺書が二通公表された。一通は幕閣宛て、もう一通は将軍死去にともない出家して広大院となった御台所宛てのものである。広大院はすぐに、自らの部屋へ美代を呼びつけた。
「存じておるか、美代殿」
広大院は静かに語りはじめた。
「昨今はオロシアとかいう異国の船が、この日の本の近海をうろつきはじめたということを?」
「……密かには聞き及んでおります」
美代は半ば生返事をしたが、広大院が何を言わんとしているのか、まだ測りかねていた。
「そいに、先年には清国がエゲレス(イギリス)とかいう国とのゆっさ(戦)に負けて、賠償金じゃ開港じゃということで、なんやかんやと散々なこっになっちょっちゅうこっじゃ」
ここで広大院は一度お茶を口にした。美代は、広大院がここまでひどく訛るのを初めて見た。感情を抑えかねている様子がはっきりと見て取れた。
「唐土の国は遠い昔より幾度も異国の侵攻に苦しめられてきた。なれど外患を呼ぶのも内憂じゃ。国内の政が混乱しておるからこそ、異国に隙を与えるのじゃ。皇帝が酒食に耽り、政から目を背けることこそ災いのもと」
次第に、広大院の表情が険しさを増していく。
「わらわには力がなく、上様が日夜女色に溺れるのを止めることは叶わなんだ。じゃっどん上様亡き今こそ、腐りきった木の根は取り除きたいと思うのじゃ。それが、飾り物の御台であるわらわが、この国の後々のためにできる唯一のこと」
広大院の眼光が鋭くなった刹那、障子が開け放たれた。長刀を手にし、鉢巻を締めた女たちが、たちまち美代に襲いかかり身柄を拘束した。
「何をなさいます!」
「そなたのような者を、唐土では傾国の悪女と申すのだ。こいをよく見てみよ!」
広大院は例の広大院宛ての遺書と、以前に家斉が広大院に宛てた本物の書状をその場に投げつけた。美代は拘束されながらも、二通の書状に目を通した。
「よく見てみるがよい。何が違っておるか!」
その時、美代は思わず「しまった」と叫んだ。
偽造された遺書では冒頭に「世継ぎの議」と書かれている。しかし、もう一枚の書状では「議」の字がすべて「偽」と書かれていた。
「亡き上様は、わらわの『議』を言うなという薩摩言葉をおかしがり、わらわに宛てた文では、議はすべて『偽』と書いたのじゃ。事もあろうに遺書を偽造するとは、汝の悪行は許しがたい。連れてゆくがよい!」
「違いまする! それは言いがかりにございまする!」
美代は必死に弁明したが、もはや手の打ちようがなかった。その時、あの鸚鵡が再び人の言葉を発した。
「義を言うな! 義を言うな!」
遺書の偽造は、立派な謀反である。老中・水野忠邦はこれを機に攻勢に転じた。将軍家慶の許しを得ると、直ちに「三悪人」と呼ばれた若年寄・林忠英、側衆・水野忠篤、小納戸・美濃部茂有の逮捕を命じた。さらに中野石扇も捕縛され、牢の人となった。
一方、寺社奉行の阿部正弘は、予てより感応寺に目をつけていた。
正弘は後に史上最年少で老中に就任する若き才子であり、この時は若干二十五歳。頭脳明晰なだけでなく、大変な美男子であったと伝えられている。
後年、老中に就任した後、職務として月に一度は大奥を巡検しなければならないが、阿部が来るというだけで大奥は色めき立ったという。中には部屋を開けると全裸で待ち構える女までいたといわれる。
それはともかく、家斉が存命中であれば、いくら鋭敏な寺社奉行といえど将軍の威光を背景に持つ大奥の不貞を暴くのは容易ではなかった。しかし、今はもう遠慮する必要もなくなった。
将軍の死から二月ほどが過ぎた五月二日の夕刻。家斉の冥福を祈るという名目で、女中たちは感応寺へ参拝に赴いていた。女たちが門限に間に合うよう寺を出てくる時分を、阿部の配下たちは待ち構えていた。
役人たちが目を付けたのは、女たちが数人がかりで担いでいた巨大な長持ちであった。
「止まれ! 中を改める!」
予期せぬ役人の出現に、女たちは皆困惑の色を浮かべた。
「中には一体何が入っている」
「反物にございます」
「反物だと? いかに女の力とはいえ、反物を入れた長持ちを持ち上げるのにこれほどの人数が必要なのか」
阿部の命を受けた役人は疑念を深め、中を開けようとする。女たちは必死に抵抗した。
「無礼者! 何をするつもりじゃ!」
構わず中をこじ開けた瞬間、役人たちは絶句した。果たしてそこには、打掛を羽織った女が横たわっていたのである。
「お主……そこで何をしておる」
調べがついていたとはいえ、実物を目の当たりにすれば空いた口が塞がらない。
「よし、まだ中にいるぞ! 僧侶も女たちも身柄を拘束せよ!」
捕らえられた女たちのうち、位の低い者には拷問を交えた自白の強要が待ち構えていた。その口から、ついに感応寺ばかりか智泉院での淫行までもが表沙汰となる。
智泉院の僧侶もことごとく捕縛され、幕府の探索は美代の父・日啓にまで及んだ。高齢の日啓は過酷な牢生活に耐えきれず、ついに獄死した。
中野石扇は、将軍の御前に呼び出された。
「何か申し開きがあるなら申してみよ」
問うたのは老中首座、水野忠邦である。しかし石扇は沈黙を貫いた。
「何故黙っておる。沈黙は罪を認めるも同然ぞ」
「今、幕府とこの国は未曾有の危機にあります。天変地異の続発、民の困窮、打ちこわしや一揆の頻発。異国の船も近海を侵しつつある。なれど家慶様は病弱にして意志薄弱。優れた者が将軍職に就くことこそが民のため……」
「それはつまり、謀反を認めるということか!」
家慶自らが問いただした。石扇は再び沈黙したが、突如として豹変した。
「上様、御覚悟!」
脇差を抜くと、石扇は将軍をめがけて突進した。しかし一歩及ばず、その場に居合わせた幕閣の者たちが一斉に抜刀し、石扇をずたずたの膾切りにした――。
……石扇は牢の中で、悲鳴と共に目を覚ました。
「夢であったか! わしはまだ生きておるのだな」
石扇は何がおかしいのか、突如として大笑いした。しかし次の瞬間には真顔に戻る。目の前の人影と目が合ったからだ。
それは、美代であった。
「美代、なぜここにいる」
「幕閣の方々に懇願し、最後の別れに参りました」
しばし、二人の間に沈黙が流れた。美代はかつて見せたことのない悲しげな表情を浮かべている。
「嘆かずともよい。泣くな、笑え」
しかし、今の美代にそれは不可能なことであった。
「わしは富貴を極めた。なれど今にして思えば、ほんの一睡の間の夢を見ていたのかもしれぬ」
「私とのことも、夢でございますか?」
石扇の唇が微かに震えた。
「私は今の地位を得るまで、多くを欺き、騙し、陥れてきました。なれどそれはすべて、父上を至高の地位へ導き、共にありたいと願ったればこそ。それなのに、私の力が及ばず……」
美代は涙声になり、言葉が続かなくなった。
「もうよい。わしはそなたを、己が高みへのぼるための馬と思っておったが、やはりわしの方が馬であったのやもしれぬな。今生のことはともかく、来世があるなら地位も名誉もいらぬ。ただ……そなたの馬になって、そなたを乗せてどこまでも駆けてみたいと思う」
「時間だ!」
牢番の叫び声が響く。
「父上と別れるのは嫌にございます! ここで共に死にましょう!」
「いや、そなたは生きよ。生き抜いて、徳川の末の世までもその目に焼き付けるのじゃ。さらばだ!」
なおも別れを惜しむ美代を、牢番が数人で無理やり外へ連れ出した。
結局、石扇は加増地没収・別邸取り壊しの処分を受け、向島に逼塞し、翌年に死去した。
一方、美代は権勢のすべてを失い、江戸城二の丸でわずか数名の侍女と共に、幽閉同然の余生を送ることとなった。しかしその余生は、あまりにも長かったのである。




