おっとせい将軍
徳川の世も爛熟期を迎えようとしていた。世は十一代将軍徳川家斉の治世である。
貨幣経済の発展から町人文化が開花し、例えば浮世絵の世界では葛飾北斎や東洲斎写楽等が活躍し、日本はおろか西欧にまでその存在を知られた。世にいうジャポニズムである。さらに歌舞伎や浄瑠璃等の芸能も発展した。
一方で、米中心経済の限界もあってか全国で百姓一揆や打ちこわしが続発。東北地方では、度重なる飢饉により餓死者が続出した。
世界的には、欧米列強が武力でアジア諸国を植民地にしてゆく帝国主義の時代で、日本列島周辺にも外国船の影がちらつき始める。そのような時代であった。
将軍家斉は歴代将軍でもっとも長く半世紀もの間将軍職にあった。しかし政治には、ほとんど興味を示さない。もっぱら大奥にあって女達と、夜の快楽にのめりこむ日々をおくっていた。
江戸城大奥、そこは天下の将軍という一人の男の寵を得るため、数千の女たちが争う戦場であった。この物語の主人公である側室・御美代の方は、さる事情により十五にしてその戦場に投げ出されてしまった。
将軍家斉は、特定されているだけで十六人の妻妾に、男子二十六人、女子二十七人の子女をもうけさせた、性欲の化け物のような将軍である。人は家斉をして「おっとせい将軍」と呼んだ。
美代はそれら多くの女達の中で、最も寵愛を得た側室といっていい。彼女がそこまで将軍に愛されるには、相応の理由があった。
それはともかくとして、驚くべきは将軍の寝所の趣向である。なんと全面鏡張りでできており、現代のラブホテルをおもわせる。もちろん当時としては最高水準の技術を凝らした寝室であった。
時に文化九年(一八〇九)の秋も深まる頃である。
その夜、将軍は常より長く美代の体を堪能した。将軍の寝所には、いま一つ驚くべきことがあった。将軍と美代の寝床から畳、五畳ほど隔てて、女が一人布団に横になっていたのである。これは添い寝役といって、側室が将軍と寝所で密約をかわすことを防ぐ狙いがあった。
もちろん添い寝役は翌日には、将軍と側室の夜の一部始終を、大奥のトップである御年寄に報告する義務があった。
いかに将軍とはいえ生身の人間である。大概の将軍にとって快いはずもないが、将軍も美代も、むしろ人に見られることにより、かえって興奮が高まるたちであった。
この日、将軍は美代を相手に二度ほど極限に達した。やがて仰向けになると、美代が起き上がり、将軍の股の間に膝を入れる。そのまま口づけをして、同時に将軍の股間のあたりを膝でグリグリと攻めた。たまらず将軍の喉から歓喜の声がもれる。美代はそのまま将軍の上になり、激しく腰を動かす。
美代は十五で初めて将軍の寝所に召された。しかしその後は、将軍の指名はぷっつりと途絶えた。美代には己の何が至らなかったのかわからず、自ら大奥のトップである年寄に懇願し、添い寝役を引き受けた。
いわば将軍と他の側室の夜の一部始終を、その目にしかと焼き付けたのである。そしてふと気づいたことがある。将軍と夜を共にする側室は、相手が将軍であるため皆従順である。半ば将軍にされるがまま、なすがままである。将軍は、ただ従順であるだけの女に、必ずしも満足していないのではということだった。
やがて、たまたま再び将軍の指名があった際、その機会を決して美代は逃さなかった。美代は背が高い、眉は薄いがきりりと上を向いている。色白く、長い足で時を経ることに次第、次第に将軍に絡みついてゆく。他の側室との夜の営みでは得られぬ、攻められることの快楽が、将軍をして美代の虜にした。
やがて将軍は三度目の絶頂をむかえるも、さすがに息が荒く、かすかに苦悶の表情さえうかべる。
「わらわも早く上様との間に、男の子がほしゅうございます」
と美代はなおも将軍の体にまとわり付きながら、猫なで声で耳元でささやく。
「男子が生まれたならいかがする?」
「可能なら次の将軍に……」
添い寝役の女の影がかすかに動いた。家斉には、すでに側室お楽との間に嫡子・敏次郎という立派な跡取りがいた。
「埒もないことを申すな。いかに余とてできぬ相談じゃ」
「ならば敏次郎君に何事かあったらその時は……」
家斉は添い寝役の方に、かすかに目をやった。それはまた、美代に無言のうちに注意を与える意図もあった。さすがの美代もまた沈黙する。
大奥という世界には、女の欲望と嫉妬そして憎悪が常に渦を巻いている。およそ二百年にわたる大奥の歴史の中では、たった一つの失言でその地位を失った者もいた。いかなる罠が待ち受けているか予想もできず、将軍といえど、愛する女を守ってやることができぬかもしれないのである。
はたして翌日、美代は家斉の御台所寔子の呼び出しを受けることとなったのである。