86. 俺だけ魔法が使えなくても
「大丈夫か、ワタル!!」
終焉魔杖によって極大魔法を放った後、その余韻に浸る間も無く俺を激しい頭痛と吐き気が襲った。
終焉魔杖の礎となった数十万人の生贄達の魂が怨念となって俺を侵食しようとその魔の手を伸ばしている。
既に終焉魔杖から手を離していたが、脳を蝕むその不快な感覚は形を顰めるどころかどんどんと顕著になっていった。
原因は明確だ。
神々封殺杖剣の魔力を殆ど使い切ったこと。
それにより神光支配の出力が僅かになったこと。
全身を纏っていた神光支配のお陰で侵食に耐えることができていた。
それに気づいたのは神光支配が薄くなってしまった今になってだが、気づいた所で再び出力するような魔力はもう無いので意味がない。
瞼が急激に重くなり、意識が遠のくような感覚がする。
もしここで委ねるままに意識を飛ばしてしまったらどうなるのだろうか。
ヤルダがベルフェリオに肉体を奪われた時のように、この怨念に俺の肉体が奪われるのか。それとも死ぬ?
わからない。
だが、意識を手放すと取り返しがつかないことになる予感だけはしていた。
怨念からヒシヒシと伝わってくる意志は名状し難い程多岐にわたっており、例えば自分をこんな目に合わせた世界が憎いだとか、あの人に逢いたいだとか、殺したいほど恨んでいる人がいるだとか、両親と遊びたいだとか、そんな混沌とした幾万の魂の重畳を感じられる。
いつの間にか俺の周囲にはクラスメイトたちと魔王護六将校の三人、ミラ、そしてリレイティアが集まってきていた。
リレイティアを除くこいつらにはハーマゲドンの谷を作り上げた武器を使って巨人を葬るという作戦を伝えていなかった。
だから、俺が放ったあの魔法を見て心底驚いたことだろう。
俺を心配している様子は分かるが、俺の横で転がる禍々しいオーラを発する終焉魔杖を見て触れるのを躊躇っているようだ。
「終焉魔杖による魂の侵食が始まってしまったようです…」
俺の状態について何も知らない者達にリレイティアはただ一言そんな説明を告げた。
リレイティアは最初から分かっていたらしい。
この杖を使った人間が支払わなければならなくなる代価を。
もちろんそれを説明されていたところで俺は魔法を使っていただろう。
だからリレイティアを責めることはない。
「どうすればワタルは助かるんだ?」
トモヒサが苦しむ俺の姿を見てあたふたとしながらもリレイティアに尋ねている。
魔力が無くなったこの世界で、こんな抽象的で形而上の事態に対処する方法なんてあるのかもわからないが、それでも俺はトモヒサの問いに対するリレイティアの返答を待った。
リレイティアはそれほど焦っていない。
きっと、何かしらの対策を知っているからに違いない。
「そうですね…いわばワタルさんを今襲っている瘴気は、かつてこの終焉魔杖を作成するに当たって生贄となった数十万の亜人の未練です。よって、その未練全てを解消してあげれば、ワタルさんは正気を取り戻すでしょう」
「じゃあ今から数十万人の願いを叶えろって言うのか⁉︎」
リレイティアの説明に驚愕で返すトモヒサだったが、方法が無いと言われるよりは安堵したような様子だった。
それにしても今から数万の人間のそれぞれの願いを叶えろなんて話は馬鹿げていて途方も無いのだが。
そんなクラスメイトたちの様子を見て、リレイティアは言葉を続ける。
「しかし、その数万の人間の願いを一度に解消できる方法があります」
「本当か⁉︎その方法ってのは??」
トモヒサの懇願するような声は、俺の気持ちを代弁しているかのようだ。
「怨みや悔恨という感情を掻き消すのは…人間の『愛』という感情に他なりません。ワタルさんを愛で包み込んであげれば…ワタルさんを襲う苦痛はきっと和らぐでしょう」
「…だったら適任がいるな」
俺は頭痛に耐えながら二人の会話に聞き耳を立てていたが、トモヒサの言葉の意味を理解するのに少々時間がかかった。
俺を愛で包み込む適任??
まさかトモヒサが俺に愛の告白をしてくるなんていう展開はないよな???
──そんな俺の不安は杞憂に終わったようで、トモヒサはある人物の元まで歩いて行った。
その人物とは、俺が儀式の部屋からなんとかして連れてきたメルクリアの加護持ち、ユナ。
まさかとは思うが、ユナが俺のことを??
まるでそんな素振りは無かったが、俺の勘違いである可能性もあるので思考を停止させておく。
トモヒサに体を持ち上げられたことで、ユナは目を覚ましたようだった。
トモヒサはついでにマサキの頬をビンタしマサキのことも起こしている。
目を覚ましたばかりのユナにトモヒサは何やら耳打ちをし、それを聞いたユナは覚醒したように目を見開きながら赤面していた。
…そして数秒かけながら俺の元まで歩みよってくる。
…まるで公開処刑だ。
「ワタル君…大丈夫?」
まずは俺の体調の確認。
俺がここで大丈夫だぜと言って立ち上がればユナの覚悟は無駄になるんだろうか。
いやいやそんなことをしてしまえば今尚俺を襲っている苦痛が和らぐどころか破滅へ向かってしまう。ここは無口を貫く。
そんな俺の様子を見て、ユナも無言のまま倒れている俺に抱きついてきた。
そのまま言葉はない。
だが、確かに俺を襲っていた苦痛が徐々に和らいでいく。
「ずっと…ずっと心配してた。私達がこの世界に召喚されたあの日。一足先に転移するって言ったワタル君に私は着いていきたいって言ったでしょ?──私はワタルくんが好きだったから。…でもそれは叶わなかった。そして転移先はワタル君だけ違ってた。私は本当に心配してたんだよ…だから久しぶりに会えた、助けてくれたあの時。本当に嬉しかったんだよ?かっこよかったよ?」
目に涙を溜めながら、ユナはひたすらにそんな俺に対する想いを溢していた。
それを聞いて、更にはそんな姿のユナを歯痒く見つめるマサキを見て、俺は納得する。
マサキやトモヒサ達は、ユナが俺のことを好きなことを知っていた。
──そして、マサキはユナのことが好きだった。
マサキは自分の意思で転移先を指定することができたのだ。
だからリオーネの屋敷から俺だけを転移させたあの時、俺に『さよなら』という言葉を使った。
初めから、マサキは俺とユナをくっつけないため、俺を殺すような意志を持って俺だけを迷宮に転移させたのだ。
今となってはもうどうでもいいことだが。
もはや思考がクリアになっていく位には苦痛が消え去り、確かに愛の力によって怨念が解消されていっているのを感じる。
俺はユナのこの感情に応えることはないだろう。
何も知らない、聞いていなかったふりをして俺は目を開け立ち上がる。
それを見てクラスメイトたちはマサキを除いて歓喜に溢れた声を上げていた。
でもまだ完全に痛みが無くなったわけじゃない。
そんな時、俺に抱きつくユナを見て「ちょっと待って」という声があった。
声がした方を見る。
すると、いつの間にか意識を取り戻していたアーラヤがいた。
そして俺の元まで駆け寄ってきて───
「私の方がワタルを好きよ!」
なんて叫びながら、ユナを追い払うようにして抱きついてきた。
完全に思考が停止する。
もうどうしたら良いのかわからない。
「ワタル!大丈夫なのか??」
再び意識を失いかけた俺を見て、トモヒサが心配そうにするが、
「ああ。なんとかな」
と、気合いで精神を保つ。
「愛の力ってすげえなぁ」
「……少し確認しないといけないことがある。俺は山頂まで戻る」
トモヒサのおちょくるような発言を無視して、俺は山頂を見上げた。
まだ事が終わったとは言い難い。
何故ならばレヴィオンの安否を確認しないといけないからだ。
もちろん、あの攻撃に巻き込まれてレヴィオンが死んだとて、俺に害があるわけではない。
だが…確かめないと俺の気が済まないのだ。
ひとまずは口を開こうとしたトモヒサを無視し、俺に抱きついている二人を振り解いて、全速力で岩山の表面を駆け上がった。
もはや神々封殺杖剣の魔力は限界に近い。
今まで神光支配がある状況に慣れてしまったせいで、山を登るのも一苦労だった。
頂上に着く。
そしてまるで俺のことを待っていたと言わんばかりに仁王立ちして微笑むレヴィオンの姿を見つける。
「レヴィオン‼︎」
「よくやったわね。ワタル」
レヴィオンは思ったよりも数倍元気で、まるで疲れていない様子だった。
俺がこの世界に来てすぐ、大迷宮の最下層で倒すと心に誓った相手。
だというのに、なぜこんなにも元気なレヴィオンの姿を見て安堵してるのだろう。
「お前は大丈夫なのか…?その、体調とか…」
なんだかレヴィオンに駆け寄ってしまったのが気恥ずかしくて、本当に聞きたいことは口から出ずに、そんな意味のわからないことを聞いてしまった。
だが、レヴィオンは俺が聞きたいことが分かったらしく、
「ヤルダのことは大丈夫よ。もう…気にしないで」
なんて言って、はにかんで見せた。
「そうか。なら…良かったよ」
──もうこれで本当に終わったんだ。何もかも。
そもそも俺がレヴィオン討伐を目指した理由は、ベルフェリオを復活させてはならないからという空漠としたものだった。
リレイティアに、ヴァルムに、フォーミュラに促され決意した、長い長い旅だった。
もう、俺がこの世界で生きていく理由と目的は無くなった。
後は、日本に帰るだけだ。
「なあ、リレイティア。俺たちが元の世界に戻る方法ってあるのか?」
トモヒサの背に乗ってここまで戻ってきたリレイティアの姿を確認して、わざとクラスメイト達みんなに聞こえるように問う。
リレイティア大迷宮でリレイティアと話した時も聞いたことだ。
あの時リレイティアはゼレスと会うことができれば可能だと言っていた。
その願いを叶えるのは限りなく難しいことだと分かっている。
だけどリレイティアは──、
「前にも言いましたが、あります。神々封殺杖剣を使ってゼレス様を顕現させれば良いのです」
断言した。
確実に、可能だと。
「もう殆ど神々封殺杖剣の魔力は残ってないが…大丈夫なのか?」
俺の懸念。
それは、ゼレスが宿る神々封殺杖剣が摩耗していること。
「ええ。完全に無くなっていないのならば、今すぐにでも可能です」
今すぐにでも、か。
「じゃあ…お前はやろうと思えばすぐに俺を日本に帰すことが出来たのか?」
我ながら意地悪な質問をしてみるが…
「いいえ。あなた達を第一次元に帰すには私がこの世界にいる必要がありましたから…いずれにせよ、加護持ち七人での儀式を行わなければならなかったので…すぐに帰せたわけではありません」
「…そういうことにしておく」
リレイティアの言葉を嘘か本当か確かめる術はない。ひとまずは信じておく。
というか頼んでおいてなんだが、まさか本当にすぐ帰れることになるとは思わなかった。
いつの間にかぞろぞろとここに集まってきていたクラスメイトたちも、俺とリレイティアの会話を聞いて唖然と立ち尽くしている。
まさか、帰りたくないなんて言うやつが出る訳でもあるまいな?
まあ、俺もこの世界に未練がないというと嘘になる。
エレルトやダイア。ラティとリレッジ、バーンガルドなんかともう一度話をしたいし、ヴァレットのような美しい街を旅してみたりもしたい。
だが、もうこの世界に長くいても仕方がないという気持ちも大きかった。
クラスメイトたちがこうも一堂に介していて、元の世界に戻る方法を知っているリレイティアもいる状況なんて今後作るのが難しいはずだ。
帰るなら今しかないだろう。
「なあ、日本に帰れるとかって言う話、本当なのか?」
リレイティアを担いできたトモヒサが、半信半疑に聞いてきた。
その質問に、俺はイエスと答える。
しかし…意外にもつっかかってきたのはショウだった。
「待ってください。僕たちはこの街の復興を手伝う義務があります」
やはりと言うべき正義感。
ショウは王都の復興もやらなければならないと責任を多大に感じているはずだ。
しかし…レヴィオンがそんなショウの意志を尊重しつつも、宥める。
「大丈夫よ。ここは魔族の街なんだし、ベルフェリオを復活させてしまったのは私のせい。魔族の王である私が指揮を執ってこの街を必ず復興させる。亜人族領の王都も任せて。これから魔族と亜人族は仲良くやるわ。軋轢をきっと解消してみせる」
「ですが…」
レヴィオンの言葉にショウは尚も口を濁すが──
「今この瞬間を逃せば、貴方たちは永遠に元の世界に戻れなくなるわ。それでもいいの?」
そんなレヴィオンの一言で、ショウは意を決したようだった。
「それは……ごめんなさい。出過ぎた真似をしてしまいました」
「大丈夫よ。またね。若い英雄さん?」
ショウが折れたことにより、他のクラスメイトたちも理解したように互いを見つめ合って頷いていた。
レイやチアキたちなんかはもうちょっと渋ると思ったが、思ったよりもこの世界に思い入れがないらしい。
そして──リレイティアは俺たちを一ヶ所に集め、大きな五芒星の魔法陣を地面に描き始く。
「神々封殺杖剣を貸して下さい」
魔法陣の上に俺たちが乗り、リレイティアはその外側で神々封殺杖剣を持ちながら祈りを始めた。
徐々に神々封殺杖剣を包んでいく白色の魔力は──やがて人の形を取り始める。
その人の形は男の姿で、かろうじて顔がわかる程度には鮮明である。
「あ、あの時私を助けてくれたおっさん…!」
その白い男の影を見て、サクラが叫んだ。
『あの時』とは魔道具装置で魔道具と融合させられそうになった時だろうか。
サクラはゼレスに助けられたらしい。後で詳しく聞いてみよう。
それにしても神に向かって『おっさん』なんて、無礼にも程があるだろ。
暫くしてその影…ゼレスは俺を見るなりニッコリと微笑んで両腕を前に翳した。
明らかに俺を認知している。
…ありがとうゼレス。
神々封殺杖剣というお前の存在がいなければ…俺はここまで濃密な冒険を送れることは無かっただろう。
心から感謝する。
次第に暗転していく視界。
地面に描かれた魔法陣は、俺たちがこの世界に召喚される時に教室で見た幾何学模様と同じように紅く輝いている。
──まったく、懐かしい。
そして…俺たちは意識を完全に失った。
◆◇◆◇◆◇
目が覚めるとそこは確かに日本で、俺たちが転移した教室に違いなかった。
俺が目を開けるのとほぼ同時に他のクラスメイトたち九人も目を覚まし、辺りを見回している。
意識を集中させても──紋章は出てこない。
教室は備品なんかが撤去され、完全にもぬけの殻だった。
出入り口は外からテープか何かで固定されており、誰も通さないようにしてある。
そこからわかる事実。
それは、俺たちがこの教室から突如として消えたという事実が日本中に知れ渡ったであろうということだ。
結果この神隠しとも言える事件が起こったこの教室は閉鎖されている。
今が何月何日で何時なのかは時計を見るまでわからないが、この異世界装備で身を包んだ俺たちがこの教室から出てきたとなると、世界中はパニックになることだろう。
なんとかして教室の扉をこじ開け、外に出る。
俺がアルテナで過ごした時間は一年も経っていない程だと思うが、廊下などの学校の様相は全く変わっていなかった。
「おい!俺たちがあっちの世界に行ってから…一週間しか経ってないぞ??」
真っ先に他の教室のカレンダーを確認しに行ったトモヒサから驚愕の声が聞こえてきた。
一週間しか経ってない…?
ということは俺はまだ学生で春休みを謳歌することができるってことか?まあ、殆ど休みは残されてないが。
確かに考えてみれば、十五年前にこの世界から消えた俺の母親は四百年前の人物になっていた。その時間のずれを考慮すると…ありえない話じゃない。
俺たちが馬鹿騒ぎをしていると、異変に気付いた先生たちが集まってきていた。
──そして俺たちの経験は全世界に知られるような大事件となり──事情聴取やら何やらで俺たちの春休みは消え去った。
※
「なあ、ワタル。何書いてんだよ」
春休みが終わって新学期。
新しく始まったクラスで、トモヒサがペンを動かす俺の肩をどついて来た。
相変わらず力の加減がバカのようで、少し痛い。
いつの間にか俺の周りにはトモヒサの他にユナやショウまでいる。
俺はそんな三人の姿を見てペンを止め…答えた。
「ああ。忘れない内に書き留めておこうと思ってな。俺が経験した──俺だけ魔法が使えなかった異世界での物語を」