70. 決着 | side:クラスメイトⅣ
「雰囲気が変わったね。ようやく本気を出してくれるのかな?」
リリシアの話を聞いた俺の心情変化を汲み取ったのか、サイディスは益々人間的感情を取り戻した表情で口角を吊り上げた。
決して、俺は本気を出していなかったというわけではない。
だが…ただ、わかったのだ。
俺の足がサイディスを前にして踏みとどまっていた理由。
曖昧な戦闘意識を作り上げていた理由。
決して、クラスメイトたちに無様な姿を見せたくないというプライドの問題でもない。
ただ…怖かったのだ。
対峙しただけで止めどなかった得体の知れない恐怖心。
許せないという感情を忘れてしまう、覆い隠してしまうほどの根源的恐怖心。
それが俺の心に、体に、自らで制約をかけてしまっていた。
ようやく気がついた。
死を恐れない。
怪我を恐れない。
客観的に見た相手の力量など意に介さない。
そんな、まるでこの世界に来たばかりの頃のような気骨を思い出したんだ。
──俺は地面を蹴った。
得意の縮地。
とてもサイディスに通用するとは思えない。
だが、この行き場のない感情をぶつけたくて仕方なかった。
「ありがとう、思い出させてくれて」
俺の最速の一撃を難なく受け止めたサイディスを前にして、ふと俺の口からそんな言葉が溢れた。
「礼を言われるような事をしたつもりはないけど」
俺の言葉の意味をサイディスは理解してなどいないだろう。だがそれでいい。
全力でやろう。
そう俺に言ってきたサイディスの言いなりになってやる。
一撃を食らったら死ぬ。
そんな緊張感による第六感の覚醒を計るため、俺は全身に満遍なく纏わせていた神光支配を解いた。
代わりに両脚、両目、刀身の三箇所に集約させ完全なる防御を捨てた戦闘スタイルへとシフトする。
「なんかした?急に一撃が重くなったけど」
そんな俺の変化にもすぐに気がつき、しかしまるで驚かずに対処するサイディス。
あわよくばこの突然の変化に対応できずに動揺する事を狙ったのだが、やはり無駄な希望だったらしい。
俺はサイディスの疑問に答えを返さない。
というか言葉を返す程の余裕はない。
しかし、サイディスは独り言のように言葉を続ける。
「ああ、神々封殺杖剣の魔法ね。なんだっけ、神光支配?それって不可視にもできるんだ」
全てお見通しだった。
この世界でゼレスの加護持ちは神光支配を扱える。
しかし加護持ちであるハザンは不可視には出来ていなかった。それがこの世界の共通認識であるというわけか。
そんなことはどうでもいい。
俺の手の内がバレてしまった。しかし俺はまだ祝福の外套の魔法を分かっていない。
…待てよ、探れないか?
もうサイディスが祝福の外套の魔法を行使しているという可能性を。
古代秘宝。
それは、神々が身を宿した至高の秘宝。
『癒し』を司どる神であるメルクリアは『原初樹の結晶』に。
『時間』を司どる神であるララーとロローは『二対の銀鏡』に。
…神々封殺杖剣は例外か?
ゼレスは『次元』を司どる神である。神光支配との協調性は全くないが…しかし考察する甲斐はあるはず。
祝福の外套はへティアが身を宿す物。
へティアが司っているのは…確か『誕生』。
何かを生み出しているのか?神光支配のような、戦闘に有利な何かを…
ええい、考えたって何もわからない。誕生なんて曖昧な概念だ。
癒しとかもっと分かりやすいものだったら考察のしがいがあったものを!
「気になるんだ、祝福の外套の魔法」
俺の心を読めるのか。と思ってしまう程にサイディスは的確に俺の気になる所を突いてくる。
読心術?まさかそれこそが祝福の外套の魔法?
相変わらず何も進展がないまま──否、こちら側の消耗が激しいまま打ち合いは続いている。
俺はそんな状態で、なんとか「気になる」と四音を紡ぎ出した。
そう言っておけば、お喋りなサイディスは勝手にベラベラと話してくれそうだ。
「残念だけど、教えないよ」
束の間の希望と、即座の一蹴。
本当に残念だった。
しかし希望も見えた。
サイディスのその言葉は、まるで祝福の外套の魔法が知られてしまえば不利になるとでも言っているかのようだったから。
おそらくは現在進行形で祝福の外套の魔法を行使している。だからこそここまで強い。絶対にそう。でなきゃやってられない。
全力で神光支配を纏わせた神々封殺杖剣を横薙ぎに一閃する。
狙うはサイディスが持つ剣の腹。
サイディス本体に攻撃が届かないのならば、武器を破壊してしまえばいい。
しかしその考えはまるで安直だとでも言いたげに、
「この剣は迷宮の壁と同じ、古代人の遺物でね。壊れやしないよ」
またもや俺の心を読むように俺の希望を両断するサイディス。
ただの鉄剣のように見えたが…その正体は一級品だったらしい。
しかし本当にどうする?
周りには戦闘に活かせそうな素材は何もない。
地面も土煙を上げさせることなど叶わない、硬い岩で造られたもの。
ただ互いの剣術と体術でしか、この戦いの決着は着きそうにない。
そして…明らかに俺の方が押されている。
読まれている。読まれているのだ。
俺の心が、動きが、全て。
全ての動きを先回りされているかのような錯覚に陥ってしまうほど、サイディスに俺の剣は届かない──
「ん?おかしいな」
ふと、俺が何もしてないにも関わらずサイディスはそう呟きながら眉を顰めて動きが鈍った。
まるで何か…動きに制約をかけられたかのような…そんな状態のように感じる。
いや、待てよ。
俺もだ。
なにかがおかしい。
神光支配の出力が──消えた???
体が重くなる。
動体視力が目に見えて落ちる。
剣がぶつかり合う音が軽くなる。
身に纏っていた神光支配が、突如として消えた。
圧倒的に不利な状況。
こんなこと、今の今まで一度だって無かった。
焦る、硬直する身体。
なぜ、いったい何が?
サイディスの魔法は魔道具には通用しないんじゃなかったのか?
いや、違う。
サイディスは紋章を展開していない。それに加えて…
「これ、まずいな」
サイディスも頭をかいてそんな事を言っている。サイディスですら、この事態は想定外らしい。
やはりサイディスは祝福の外套の魔法を使っていて、俺の神々封殺杖剣同様魔法が途切れたようだ。
「お前も随分祝福の外套の魔法に頼っていたみたいだな」
挑発気味に、多少の焦りを見せるサイディスに剣を突きつける。
サイディスはそんな俺の様子を見て、余裕を取り戻したようだ。
「君もね。どうやら魔道具装置が不安定になっているらしい。おそらくは君の仲間たちがやってくれたんだろうけど、本当に僕の部下は使えない者ばかりで困るね」
魔道具装置。
きっと古代人が魔道具を作る際に使用していた装置のことだろうが、それが不安定になると魔道具自体が使えなるというのは予想外だ。
だとしたら、現存する魔道具の全てがつかえなくなっているというとでも?それとも近くにあるものだけ?
疑問に疑問が渦を巻く。
しかしそれを目の前の男に聞いているような暇はない。
この状況は決してピンチなどではない。チャンスなのだ。魔道具の魔法すらない、完全な身体能力のみの戦い。
俺はレベルという制限がない。
対してサイディスは神の力によって肉体を制限されている。…負けるはずがないのだ。
突きつけていた剣を、俺はサイディスの首筋目掛けて伸ばした。
すんでのところでサイディスの剣がそれを受け止め、そのままサイディスの右足が俺の脇腹に滑り込もうとしてくる。
俺はそれを体を捩ることで避け、一度しゃがみ、膝の屈伸を活かして再度サイディスの首筋を狙う。
サイディスからも余裕がなくなっていた。
それほどまでにサイディスは祝福の外套の魔法に頼っていたということ。
だが決して油断などできない。
言葉も忘れた、ただ剣と剣が弾け踊るだけの戦いが空間を支配し続けている。
何十回と剣を交わしたかはわからない。
魔道具の魔法が奪われ、何分経ったかはわからない。
もうどれだけの時間が経とうと決着が着かないのではないか。そんな疑問すら生まれ始めた頃。
事態は急変する。
神々封殺杖剣が、まるで意思を持っているかのように光り始めた。
対してサイディスが身に纏う祝福の外套にはそんな様子はない。
魔道具装置が安定し始めたのだろうか。
「君は神々封殺杖剣…いや、ゼレスにだいぶ気に入られてるようだね。僕は…祝福の外套から嫌われてるらしい」
感情のない表情を取り戻してそう語るサイディスは諦めたように俺から距離を取った。
最初は全くその意味がわからなかったが…溢れんばかりで俺の意思に関わらず出力し始めた神光支配を見て、俺は全てを悟る。
サイディスが纏う祝福の外套は…未だ魔法を取り戻していないのだ。
はたまた、サイディスの口ぶりからしてへティアの意思がそうなのか。
いずれにせよ、圧倒的に俺が有利な状況になったのは自明だった。
数分ぶりの縮地。
あり得ない程に漲り、もはや不可視にできない神光支配を纏わせた一撃を放つ。
まるで俺の行動全てを理解していたかのようなサイディスは、まるでこの一撃に反応できていなかった。
天高く舞う──サイディスの剣。
数刻、カランカランと音を立てて遥か後方に落下する。
「お互い古代秘宝の魔法に頼りすぎていたようだな」
硬直したサイディスの首元に剣を突きつけ、告げる。
まだ祝福の外套の魔法の性質を俺は知らない。だが、すぐに知ることになるだろう。
「まったく、そのようだね。残念だ」
その言葉を最後に、俺は剣を突き刺した。
もう二度と味わいたくないと思っていた人間の喉を切り裂く不快な感覚。
溢れる鮮血。ドクドクと激しい心臓の鼓動が徐々に弱まっていくのを感じる。
はたして殺す必要はあったのかと聞かれれば、そうでもないのかもしれない。
しかし、コイツらはミルの故郷を壊滅させミルを無惨に殺した。許せないのだ。許してはいけないのだ。
剣を抜き取り、サイディスは地面に崩れ落ちる。
勝てるとは思わなかった。あの瞬間まで。
俺は血をだいぶ浴びたというのに全く汚れの一つもない祝福の外套をサイディスの亡骸から剥ぎ取り、纏った。
それはまるで採寸したかのようにピッタリと俺の体に合う。
俺が着終わるのに合わせて、祝福の外套から紋章が現れる。
魔道具を使うのには認証が必要な場合がある。
俺は相変わらずの死人の紋章を展開し、紋章を重ね合わせた。
そうして双方の紋章が一瞬煌めき、すぐに収束する。
どうやら無事に認証は終わったようだったが──、
「母さん…??」
何故だか、俺が纏った祝福の外套からは…写真でしか見たことがない俺の母親の面影が感じられた。
理由はわからない。
もしかしたらかつて俺の母親…未来視の勇者は神々封殺杖剣と共に祝福の外套も装備していたのかもしれない。
とりあえず決着はついた。
後は…トモヒサたちを救うのみだが、果たしてサクラやレイたちは救出を完了したのだろうか?
そういえば…いつのまにかチェシャはこの空間から姿を消していた。
俺たちが戦闘に夢中になっている隙に奥の空間に消えたらしい。
魔法を使えなくなったチェシャの脅威性は無いと思うが、様子を見に行くか。
◆◇◆◇◆◇
《side : クラスメイト》
宙へ浮かび上がる身体、底無しに湧き上がる絶望──。
ショウたちを救出すべくレイたち三人とワタルの五人で古代の代理人と呼ばれる謎の組織の本部へと乗り込んだ村上サクラは、自身の魔法と剣技が趣味の悪いバンダナを頭に巻いた男に全く通用しなかったことを嘆いていた。
更には追い討ち──否、完全な敗北を意味するようにチェシャの魔法で自由を奪われる肉体。
レイたち三人がいれば、などという慢心は早々に打ち砕かれ、サクラは焦って深く考えずに敵の本拠地へと足を踏み入れた自分を責めている。
自分たちはこれからどうなるのだろう。
チェシャによって明かされた、ショウたちを捕らえた目的。それは、非人道的な実験。
魔道具は人間を素材にしているという事実、そしてその素材に選ばれたのがショウたちであるということ。
それが真実であるかどうかはサクラはわからなかった。
が、その話を聞いて驚愕に目を見開いているワタルを見て真実の可能性が高いと思った。
ワタルは何故だかサクラたちの知らない知識を沢山持っている。
ワタルの表情は、信じるに値する判断材料となり得るのだ。
まだショウたちを一瞬にして無力化したサイディスは現れていない。
それだというのに、指数関数的に加速するサクラの絶望と不安は頂点に達しようとしている。
自分たちを宙という名の檻へ閉じ込めたチェシャは、バンダナ男、死人のような顔をした虚目の男と共に何やら話している。
ふざけるなと言ってしまいそうな程に見せつけられている余裕。
レイは槍を伸ばす魔法を、チアキは火炎弾を、リョウトは紋章武器である短剣を。
それぞれの魔法を駆使して一矢報いようとしてはいるが、不安定な肉体から放たれる攻撃は全く脅威とはなっておらず、ただただ無駄に体力と魔力を消費する羽目になっている。
もはやどうすることもできない。
抗うだけ滑稽で無駄。
サクラやレイたちでさえそんな悲観的になり始めた中、ただ一人腰に差した剣を抜き取る男の姿がサクラの横目に映る。
ワタルだった。
本当に予期せずライラルの街で出会った、学校にいた時から相変わらず覇気のない顔を持つ男。
リオーネの屋敷を最後に消息が分からなくなり、銀鏡の蜘蛛と戦闘して死んだと思われていた男。
まさか魔法の使えない彼がDランク冒険者として謙虚にこの世界で生活を続けていたことなど、サクラたちは知る由もなかった。
しかしたかがDランク。
やはり魔法も使えない彼がこの絶望的状況においてできることなど何一つない。
サクラやレイたちでさえも。剣を握ったワタルを見て、心の底でそんな嘲笑に似た呆れのような感情を抱いたことに違いはない。違いないはずなのだが。
世界が震えた。
文字通り、空気が揺らいだのだ。
この何も身を預ける場所もない空中という場において、ありえない光景が繰り広げられた。
それはまさしく縮地だった。
サクラは何度も見たことがある。
そう、それはまるでショウが紋章魔法で空中を歩いた時のようだった。
ワタルは魔法を使えたのか?
そんな疑問が、サクラ、レイ、チアキ、リョウトの四人全ての頭に同時に浮かび上がる。と同時にワタルの神速の一撃がチェシャの魔石に届き、サクラたちの両足は再び地面の感触を取り戻す。
未だ四人の頭には懐疑心が渦巻いていた。
Dランク冒険者で死人の紋章であるワタルが、一体どういった原理で先の動きを実現したのか。
考えられる可能性は二つ。
一つは何らかの手段で魔力を取り戻し、魔法を使えるようになった。
もう一つは魔道具の存在。
ワタルが紋章を展開していないことから、後者の可能性が高い。
もちろん、サクラと同様に紋章を展開せずとも紋章魔法を行使できる体質、無顕現行使者であるという可能性も無い訳では無いが…可能性は限りなく低い。
「何してんの?」
チェシャから魔力が消えた歓喜束の間。
突如として奥の通路から聞こえてきたその声は、サクラには聞き覚えのあるものだった。
そして、聞きたくない声でもあった。
声を聞いただけで震えが止まらなくなる。
思い出してしまう。ショウたちがなす術なく蹂躙された、あの光景を。
その声は少年じみているのに威圧感は並外れていた。
まるで逆鱗に触れられた龍の咆哮のように…場の全てを支配する声。
「お前がサイディスか?」
臆することなく、ワタルがそう尋ねた。
その様子を見て、サクラは思う。
ワタルが想像以上の実力を有していたのは分かった。
しかし絶対にサイディスには敵わない。
だから自分から関わりに行くような真似はやめてくれ、と。
しかしチェシャの一言で、否応なくワタルはサイディスと剣を交わすことを余儀なくされる。
交錯する殺意。
サクラたちは理解できていないが、ワタルはサイディスに対して言いようも得ない確実な殺意を持っているのだ。
サイディスとワタルは剣を交えながら何やら言葉を交わしている。
サクラたちの目では視認できないレベルの剣撃が繰り広げられながら、断片的に言葉が耳を通過する。
古代秘宝、狐人族、百万足。
そんな脈絡のなさそうな言葉が両者の口から溢れ、話を紡いでいる。
サクラたちは、何が何だかまるでわかっていなかった。
聞こえてくる言葉についてはどうでもいい。ただ、目に目えて入ってくる情報だけは止まる身体に対してサクラたちの心を動かした。
何秒、何分経ったかはわからない。
戦闘の最中だというのに時間を忘れてしまうほど、サクラたちはその『美しい』と思ってしまうほどに洗練された攻防に見入ってしまっていた。
しかし。
魔王レヴィオン。
その言葉が聞こえた瞬間、ワタルの雰囲気が変わった。
なんの因縁があるかはわからない。だのに、まるで親の仇だとも言うかのようにワタルの動きの暴虐性は目に見えて跳ね上がった。
「お前らはトモヒサたちを助けに言ってこい!」
ハッとした。
ワタルとサイディスのやり取りに見惚れてまるで忘れていた、ここまで来た真の目的。
サクラは同じように立ち尽くしていたレイたちを引っ張って、サイディスが現れた奥の通路目指して駆けた。
ワタルなら…サイディスに勝てるのかもしれない。
そんな僅かながらの希望を胸に抱いたまま。
「なんだよワタルのあの力…あいつ、魔法使えないんじゃなかったのかよ…」
ショウたちを探すべく薄暗い通路を突き進む道すがら、リョウトがそんな言葉を溢しながら額の汗を拭い取る。
その言葉はこの場にいる全員があの戦闘に魅入る最中、考えていたことだ。
全員、どこか心の奥底でワタルの事を見下していた。
自分たちよりも弱い。魔法の使えないDランク冒険者というレッテルを貼り付けて。
まず疑問に思ったのは、どうやって魔法も使えないのに短期間でレベルを十まであげたのかということ。
ワタルの紋章を確認してはいないが、あの戦いを見てワタルのレベルが九以下であることなど確認しなくても良い自明の事実だった。
よもや、レベル十を遥かに超越しているのではないか、そんな疑問すら生まれるほどに。
「とりあえず一番厄介なサイディスはワタルが足止めしてくれてる。私たちはこの隙になんとしてでもショウたちを助けないと…!」
サクラは焦燥を隠し切らぬまま、奥歯を噛み締めた。
サイディスは何も言っていなかったが、今まさに実験とやらが進んでいる可能性だってあるのだ。
もう手遅れの可能性すらある。
通路はサクラが想定していたよりも幾分短かった。
時にして数秒駆けただけにすぎないが、一気に開けた空間へと出る。
分岐点も何もなくただの一本道。
サクラは逆にそれが不気味に思えてしょうがなかった。
ここは明らかに古代の遺跡を利用して創られた基地。
松明が転々と埋め込まれた無機質な岩壁。
何百年…何千年前から置いてあるのかわからない苔むした木彫りの何か。
そんな得体の知れない遺物が溢れる環境。
サクラは古代人について殆ど何も知らなかった。
現代よりも進んだ技術を持っていた事など、微塵も知らなかった。
だからこそ今目の前に広がる光景を前にしてサクラは絶句している。
開けた空間には、意味不明と言わざるを得ない景色が広がっていた。
機械、機械、機械。
ゴウンゴウンと不気味な音を立てて稼働し続けるそれらは、まるで無防備にそこに存在していた。
きっと、先の戦闘を繰り広げた空間で大半の侵入者は排除できる──排除してきたのだろう。
だから古代の代理人にとっては貴重と思われるこの機械群は無造作に設置されてちる。
レイたち三人も本来の目的や急いでいることなど忘れて足を止めていた。
この世界、アルテナは紛う事なき剣と魔法のファンタジー世界。そんな今までの常識を覆す、異常な光景に。
「なんなんだよこれ…実験って、マジだったのかよ」
リョウトが呟いたその言葉に一行は絶望を加速させる。
『実験』。
どこか曖昧だったその言葉の意味。
この機械群を見たことによりその曖昧さは薄れ、イメージを鮮明で確実なものにしていく──。
ふと、サクラの胸には込み上げるものがあった。
それは決して何を対象に動いているかもわからない機械に対する恐怖心や、手遅れかもしれないという絶望から来る吐き気ではない。
もはや忘れかけていた、戻る気も薄れていた『日本』の存在を鮮烈に思い出したがゆえの心情変化だった。
もうこの世界に順応してしまっていた。
私たちを貶めるものはもう何もない、そんな傲慢からくる…この世界で生き抜くことへの楽観的思考。
機械というあまりにも科学じみている媒体を前にして…サクラは己の無知蒙昧さをありありと悟ったのだ。
「急ごう」
サクラには機械を破壊するなんて考えも浮かんだが、それを実行に移す勇気はなかった。
無意味に攻撃して爆発…なんてことになったら洒落にならない。
周囲を見回す。
この部屋からは通路が三つ分かれているようだった。この場にいるのは四人。実に中途半端な数。
しらみ潰しに探そうかとでも思ったが…それは無理そうだった。何故なら──、
「逃げるなよ」
サクラたちを追ってこの空間までやってきバンダナ男と虚目の男が、剣を構えて立ち塞がったからだ。
別に想定外ではなかったが、厄介極まりない。
サクラはバンダナ男と対峙したからわかっているのだ。
再び剣を交わしあえば、時間がないのに泥沼の戦いを強いられることになる。だからこそサクラは自身の魔法を行使した。
隠密魔法の最高峰、まるで使用した瞬間に目の前から消えたかのように錯覚してしまうほど洗練された魔法。
バンダナ男は、サクラが殺意をぶつければその殺意に反応して防御をとれてはいたが、始めから逃げのみを考えたサクラの気配は感知することができない。
しかもサクラの魔法は紋章を展開せずとも発動できる。
レイたちもその事実を知らない。
誰からも姿を認識されなくなったサクラの声が、レイたち三人の耳に届く。
「私はショウたちを探してくる。そいつらの相手を…お願い」
「わかった…絶対見つけてこいよ」
レイは柄にも無くそんな言葉でサクラを送り出した。
レイの心持ちがこうも変化したのは、ワタルの勇猛果敢なあの戦闘を目の当たりにしたからに他ならない。
そして三体二という有利な状況。
──俺たちなら…チェシャさえいなければ勝てる。
レイはワタルによって奮い立たせられたその確固たる意志を噛み締めて…紋章を展開した。
対してサクラはこの状況下でショウたちさえ自由にしてしまえばチェックメイトだと高を括る。
特にマサキを見つけてしまえば転移魔法で逃げることができる。
マサキが何故転移魔法を使って逃げ出していないのか。それはサクラの心からの疑問だったが、マサキだけ別室で監禁されているなどの可能性も考える要因となった。
そしてサクラは片っ端からこの広大な遺跡基地の探索を始めた。
長い通路、短い通路、意味不明な遺物が陳列されている部屋、何を原動力にして稼働しているかわからない機械、さっきまで誰かが寛いでいたと思われるようなコーヒーが置かれた部屋。
確実にショウたちへ近づいている。
耳を澄ます。
人の気配を感知すべく感覚を研ぎ澄ます。
──その時、何か音がした。
それは明らかな足音で、この先に確実に人がいることを示している。
しかしその足音は奇妙だった。
まるで生まれて初めて歩いたかのような、そんな奇天烈な足音。
サクラは姿を消したまま、足音が聞こえた空間目指して全速力で駆ける。
この先にショウがいる。そんな不鮮明な予感を抱いたまま。
空間が開けた。足音を出していた者の正体が判明する。
そこにショウたちはいなかった。
代わりにいたのは…一際大きな装置の前で血走った目をしているチェシャ=フォルスティアド。
サクラは落胆した。
しかし、チェシャが一人でぶつぶつと呟き続ける言葉を聞いて戦慄する。
「この魔道具装置さえ稼働してしまえばっ…!僕の魔法も…」
魔道具装置。
サクラはその言葉を聞いただけで全てを察した。
ショウたちが捕えられるに至った元凶。
これを稼働させるため、実験に耐えれる個体を見繕うためショウたちは捕まってしまったのだ。
だとしたら絶対にチェシャにあの装置を稼働させるわけにはいかない。
サクラは隠密魔法を解いてチェシャの背後から声をかけた。
勝算はある。相手は魔法を使えない。
「それ使って、何するつもり?」
突如気配を表したサクラにチェシャはギョッとして振り向いた。
そしてサクラに答えを返さず、焦ったように装置の操作を始める。
チェシャの片手には砕け散った自身の魔石が握りしめられている。
魔道具装置が今の今まで稼働できなかった理由…それは、稼働するための莫大な魔力が不足していたからだ。
チェシャは何も考えず、サイディスが何故ショウを捕らえてからすぐに装置を使わなかったのかということも知らずして、我武者羅に装置を稼働させた。
鼓動するように動き始める、装置。
装置の稼働音はまるで誰かが泣いているかのような、そんな悲壮感漂う奇怪な雰囲気を纏っていた。
サクラは両腕に鳥肌が立ち始めるのを感じる。
──絶対にあれを動かしてはいけない。
そんな直感が脳を突き刺し、サクラはその小柄な体で全力でチェシャに向かって駆けた。
片手には短剣。最悪チェシャを殺しても構わない。そんな気概を持って──、
しかしそれは叶わなかった。
「うひひ」
チェシャが溢す壊れたような微笑。
徐々に徐々にサイディスの手によって地道に溜め込まれていた、純粋で洗練された魔力。
それがチェシャの魔石という莫大な力を持った不純物の存在で混沌と化し──装置は暴走を始めた。
チェシャは首を刈ろうと体を滑りこませてきたサクラを、あり得ないほどの瞬発力をもって素手で捕らえた。
サクラの右手を尋常ならざる握力でへし折り、地面に落ちた短剣を蹴って拾いに行けない距離まで飛ばす。
人間は狂うとここまで意味不明な力を得ることができるのか。
恐怖によって制限されない感情の存在。それは戦闘において最も重要なものなのかもしれない。
そんなことを考えながらサクラは自らの失策に奥歯を噛む。
「まずは手始めにお前を素材にしてやる」
光のない瞳。不気味に合わない焦点。
そんなチェシャから放たれた不穏な言葉に、サクラは恐怖に顔を引き攣らせる。
道具との合成。
それすなわち死と同義。
──否、一生動けないまま意識を閉じ込められるのだとしたら死ぬよりも恐ろしい。
果てない恐怖にサクラの脳が支配され始める。
意図せず溢れる涙と共に、口から幼子のような言葉も漏れる。
「いや、いやぁ…!」
「いいねぇその表情。今まで調子に乗って過ごしてきたツケを味わうといいよ」
チェシャはそう言って、魔道具装置の一端にサクラの体を押し付けた。
魔道具装置はまるで天秤のように左右に台座が設けられている。
その片側には素材となる人間を、一方には魔道具となる道具を置くのだ。
既にサクラの対となる台座にはサイディスが見繕ったリング状の遺物が置かれている。
サクラの体が、光に包まれる。
得体の知れない力がサクラの体を覆い始める。
サクラは未だ抵抗しようと四肢をジタバタと動かしてはいるが、どこにそんな力があるのかと言ってしまうほどに強いチェシャの力に押さえつけられ抵抗も虚しい。
絶望。
サクラは狂気じみた笑みを向けるチェシャを見て、自らの運命を悟り目を閉じた。
異世界に来てからというもの、ここまで明確に死を感じることはなかった。
──もう、私はショウやユナとは会えない。さよなら、みんな…
目を閉じ、その時を待つ。
止めどなく溢れる涙、そして糸の切れた人形のようにだらしなく垂れる四肢。
誰か、助けて。
そんな希望は届かないと理解しながら、ひたすらに願い続ける。
しかし一向に意識を奪われるような、そんな感覚は訪れなかった。
恐る恐る目を開ける。
「なに…これ…」
そして見えたのは、困惑に目を見開くチェシャと、白くぼやけた…二人の人間の影だった。
サクラはその白い人影にまるで見覚えがない。
サクラを守るように立ち塞がっているが…誰かの魔法によって生み出されたものでもないように思えた。
──祈りが届いたのか?
サクラはあり得ない光景に未だ脳の理解が追いついていない。
「ギニャ⁉︎」
突如、サクラの体が魔道具装置の台座から浮かび上がる。
代わるように台座へと吸い込まれて行くチェシャ。
その理解不能な力は明らかにこの影によるものだった。
わけもわからないまま、サクラは目の前で繰り広げられる光景に目が釘付けになる。
光り出すチェシャの体。
動けないまま、耳を塞ぎたくなるような絶叫を上げて悶えるまま、チェシャの体は収縮していき──消えた。
代わりに残ったのは紋章を展開するリング。
そして白い二人の人影も、何も言わずに消える。
サクラは何がなんだかわからないままだったが、助かったことに一先ず安堵した。
そして二人の人影の正体が何なのか…見たことはなかったが何故だがわかったような気がした。
ゼレスとへティア。その二柱の神。
何故だかそんな気がしたが、へティアと思われる影から…ワタルのような面影も垣間見えたのが不思議だった。