54. 恩恵と弊害
絶対的強者と思われた頭が一瞬の内に葬られたことにより、狼狽を隠しきれない様子のゴブリンたち。
ゴブリンキングの紋章魔法による狂化が切れたことを差し引いても、その焦り方はまるで感情豊かな人間のようだ。
俺はそんなゴブリンたちの首を次々と切り落としていった。
周囲に蔓延する血の匂い、不快な断末魔。
はたから見ればその行為は残虐と言われるかもしれない。
だが、このゴブリンたちは同じように人間たちに手をかけた。その報いを受けるのは仕方ないことだ。
とりあえず目に見えるゴブリンたちは殲滅した。
あと確認すべきはこの奥の空間にいると思われる残りの人質か。
「俺は先に行って他に人がいないか確認してくる。バーンガルドはどうする?」
「あ、ああ…私は少しここで回復を待つことにするよ…」
意外にもバーンガルドが受けた傷は深いものだったようで、ここで待機するようだ。別の理由があるのかもしれないが…
未だ唖然とした様子のバーンガルドを置いて、俺は先に進む。
ゴブリンキングの話を聞いた上でゴブリンたちを殲滅した俺に、幻滅したのだろうか。
一歩、また一歩と空間の奥へ進んで行く度に人の話し声のようなものが聞こえてくる。
やはりまだ人質が残っていたか。
怒りに任せてカチコミに行くのはいいが…結局このような結果になってしまうのでやめて欲しいものだ。
通路を抜け、やがて開けた空間に出る。
そこには見張りのゴブリンたち五体と五人の人質たちがいた。
中には女と子供もおり、どこからか連れ去られたようである。
男の一人が俺に気づいた様子で、「助けてくれ!」と叫んだ。
おい、折角見張りのゴブリンたちには気づかれていなかったのに余計なことしやがって!
俺は神々封殺杖剣を構え神光支配を練り上げながら、自分のことしか考えていない人質の男を睨む。
そいつのせいでこちらに気がついたゴブリンの一体が、刃こぼれの激しい大剣を振り回しながら突進してきた。
ゴブリンは片手のない俺のことを完全に舐めているのか、その動きには繊細さが欠けている。
そんなゴブリンに対して俺は即座に縮地し、できるだけ血肉が飛び散らないよう慎重に、そして確実に肉体を切り裂く。
悲鳴をあげる間もないままゴブリンは地に臥し、カランカランと剣が地面に転がる音だけが響いた。
ゴブリンたちもただ馬鹿であるわけではない。
無策に突っ込んできた一体のゴブリンを除いて、他のゴブリンたちは人質たちを盾にしてきた。
そこで先程真っ先に俺に助けを求めた男は悟ったように青ざめた表情になった。自分のした行動の愚かさに気づいたようだ。
というわけでその男を助けるのは最後にする。
まずは女性と子供からだ。
剣を下げ、敵意がないように見せかけてゴブリンの油断を誘う。
だが、ゴブリンも敵を前にして油断するほどやわな相手ではない。
お互い膠着した状態のまま数秒の時が流れた。
が、最初に沈黙を破ったのは人質の男だった。
「うぁああああ!!!」
突然大声をあげながら力任せに拘束を振り解こうとする男。
怯むゴブリンたち。
大声で錯乱しようと考えたのか。
このゴブリンたちの反応を見ると、悪い選択ではない。
実はその大声に俺も驚いたのだが、立て直したのはゴブリンたちよりも俺の方が早かったようで、その一瞬の隙に女性と子供を拘束していたゴブリンの首を切り裂くことができた。
切られたゴブリンから噴出した血を見て、更に騒ぎ始める人質たち。
残りのゴブリンがその人質たちを押さえつけられなくなったところで即座にそいつらも葬っていく。
ゴブリンキングがいた時のように急に凶暴化して助ける間も無く人質を握りつぶされる…なんてことはなく、なんとか全員無事に救い出すことができた。
「これはいったい…」
と、いつの間にかここまで来ていたバーンガルドが驚いた様子で辺りを見回していた。
「ああ、人質がまだいたんだ。それを助けてた」
「妙な声が聞こえたから急いで来たのだが…どうやら私はいらなかったようだな」
やれやれ、と大剣をしまうバーンガルドを見て、俺が助けた人質たちは安堵したようにその場にへたり込んだ。
「バーンガルドさんが来てくれた…」
男の一人がそう呟いている。
バーンガルドは数少ないAランク冒険者。
例え辺境の村に住んでいても知っている存在なのだろう。いや、バーンガルドは村に縁があったらしいし当然か。
なんだか少しだけ羨ましい気がする。
というのも助けたのが俺なのに俺に対する感謝よりもバーンガルドがいることによる安心感の方が勝ってしまっている感じがするからだ。
助けられたのも当然だとか思ってるのか?
俺がひねくれているだけか?
「とりあえずお前たちを拘束していたゴブリンたちの大半は殺した。まだこの巣の中に残っている可能性は高いが、この巣の主を殺した以上無闇矢鱈に私たちを襲ってくることはないだろう」
バーンガルドのそんな説明とともに空間には「死ぬかと思った~」「まさかAランク冒険者が来てくれるなんて」などの声が溢れる。
──そんな生半可な気持ちで魔物の巣に入るなよ。
そう言いたいのを我慢して出口の方へと踵を返す。
その時、俺の背中にかける声が響いた。
「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう…」
振り向くと、俺が先程助けた子供が母親と思しき女性に抱かれながら俺を見つめていた。
それで何かに気がついたように他の男たちも俺に頭を下げ始めた。
「すまねえ、助けてくれたのはバーンガルドさんじゃなくてあんただよな。改めて礼を言うよ。ありがとう」
次々に頭を下げる男たち。
いざこうなると返す言葉が分からないな。
俺は「ああ」とだけ言って再び踵を返し、索敵を開始した。
俺が受注した依頼の内容は、ゴブリンの巣の殲滅。それ自体はまだ完了していないからな。
「君たちだけで村まで帰れるか?今回の依頼はゴブリンの殲滅。私とワタルはまだこの巣に残っているゴブリンたちを皆殺しにする必要がある」
俺が説明せずともバーンガルドが説明してくれた。
それに納得したように男たちが頷く。
こうして、村に戻る元人質たちを安全に帰れる場所まで見送って、俺とバーンガルドは巣の中を駆け回った。
※
巣の中から生き物の気配が消えたのを確認して村に戻るなり、
「なんだ…これは」
バーンガルドが驚愕の声を漏らす。
壊滅的なまでに抉られた石の家屋。
散らばる数体のゴブリンの死骸。
息をあげて疲弊する男たち。そして恐怖に怯える子供たち。
それらの光景は、ここで何があったかを悟るには十分な情報だった。
おそらく男たちがいなくなった村を襲えというゴブリンキングの指示が出ていたのだろう。
迂闊だった。
俺とバーンガルドに気づかれないようすれ違い、無防備なこの村を襲ったのだ。
つくづく、嫌に頭の回る奴だ。
しかし──人間の死体は一つも見られなかった。
それはこの村特有の厳重な石家屋と、一足先にこの村へと帰った男たちの功績だろう。
だが、この村の食料源と思われる畑や工芸品の数々なんかはことごとく破壊しつくされていた。
それらを破壊することで怒りを引き出し、村人たちを外へと誘おうとしていたのだろう。
だがその誘いに乗った村人たちはいないようだった。
「…ようやく来ましたか」
人が集まっている場所まで駆けつけた俺たちに、村長が落胆した様子でそう呟いてきた。
返す言葉もない。これは俺たちの過失だ。
「索敵は完璧だったはずだが…ゴブリンたちの方が一枚上手だったみたいだな…」
そんな村長を見て独りごちるバーンガルド。
村長は尚も落胆の言葉を続ける。
「それに…助けられたのはこれだけですか…」
村長が言っているのは俺たちが助けることができた人質のことだろう。
確かにこの小さな村にとって、ゴブリンに挑みに行くような屈強な男たちの存在は必要不可欠なものであることはわかる。
だが、あの状況下ではこれが精一杯だった。
「俺たちが悪いんだ…ゴブリンくらい余裕だって思ってた俺たちが…」
村長を宥めるように語る村の男の一人。
それを聞いても村長は納得いっていない様子である。
よほどの信頼をバーンガルドに置いていたのだろうか、その落胆の目は紛れもなくバーンガルドに向けられていた。
そんな視線を受けてもバーンガルドは依然として毅然とした態度のままだ。
「ゴブリンの巣を壊滅させるという依頼は完了した。私たちはギルドに戻る。また何かあればギルドに頼んでくれ」
このバーンガルドの言葉は村長にとっては薄情なものだと受け取れたかもしれない。
しかし俺にはこの言葉からAランク冒険者が背負わなければならない『どうしようもないもの』の存在を感じとった。
それは──過度な期待。
絶対的安心感のようなものを向けられるストレス。
やはりAランク冒険者であることによる不自由は紛れもなく存在するのだ。
「あの…ありがとうございました」
ここで、剣呑な雰囲気を壊したのはメルトだった。
メルトは幼いながらもバーンガルドが精一杯のことをしたことを理解しているのだ。
そんな自分の孫の姿を見て、村長はこれ以上何も言ってくることはなかった。
「これはゴブリンの巣の中で拾った…言わば君の母親の形見のようなものだ。受け取ってくれ」
突然バーンガルドはそう言って、メルトに両掌が埋まるくらいの大きさの包を差し出した。
何故か「それを開けるのは私たちが村から出た後にしてくれ」などと言いながら。
それにメルトは「わかりました」と返し、村には静寂が戻る。
この壊滅状態の村を見て、何もせず帰るという俺たちの様子に不満げな村人たちの視線を多数感じながら、フイオンの方向へと歩みを進めるバーンガルドについて行くしかなかった。
数十分歩き、村の気配が完全に消えたところで、通りかかった馬車を捕まえる。
バーンガルドの顔パスで馬車に乗り込んだところで、俺はバーンガルドに先程メルトに渡した小包の中身を確認した。
「いいのか?あれ、ゴブリンキングの魔石だろ?売れば一億リピルはくだらないくらいの代物なんじゃないか?」
「構わん。金には興味がないからな」
馬車に揺られ、虚空を見つめながらどこか切なげな表情をするバーンガルドは、沈黙する俺に尚も言葉を続ける。
「恐れいったよ。ワタルのあの強さ。まさか有声種のゴブリンキングをああも容易く倒してしまうなんてね…君は一体何者なんだ?」
一体何者。
そんなことを問われても答えられるようなことはない。
復活した魔王を倒すために奮闘精進している異世界人である。
そう答えてもいいが、疑問を生むだけで良い回答とは言えないだろう。
バーンガルドの性格からして信じてもらえるとは思うが、いかんせん説明が面倒くさい。というより、俺の情報を無闇やたらに話すのは得策ではない。
何故ならレヴィオンをはじめ、魔族の連中は俺の情報を欲しがってるだろうし、ましてやアルカイドの王や魔剣術学校の人たちも俺を探しているかもしれない。
バーンガルドが情報を漏らすとは思えないが、もしどこからか情報が漏れてそんな奴らに身元がバレたら厄介なことになるのは間違いなく、俺の行動にも制限がかかってしまう。
ここはテキトーにはぐらかしておくのが正解だろう。
「ただの駆け出し冒険者さ」
「そんな答えは求めていない」
だが、そんな俺の答えはバーンガルドに一刀両断に斬り伏せられた。
いつの間にかバーンガルドは視線をこちらに向けていて、その透き通った眼差しを俺に突き刺していた。
その目からは真剣なものが窺える。本当に俺のことを知りたいのだろう。
──知りたいのは俺の強さの秘訣か。
だとしたらバーンガルドに教えられることは本当にない。
俺の今の力は神によって得られたものなのだから。
「…知りたいのは俺の強さのことだろう?だとしたら話せることはない。すまない」
レベルという『制限』のことを話してもいいが、バーンガルドに話すことで得られるメリットは何もないので口には出さない。
「…そうか。だとしたら一つだけ聞きたいことがある。ワタルのその剣は…アルテナ五大古代秘宝の一つ、神々封殺杖剣ではないか?」
「……」
バーンガルドの予想外の問いに、思わず言葉が詰まる。
そんな俺の態度を肯定の合図と解釈したバーンガルドは、察したように頷いた。
「そういうことか…だとしたら話したくないのもわかる。理由はわかった。……この後行く場所はあるか?」
俺の態度を見て、バーンガルドは自分から話を逸らす。
…行く場所か。
バーンガルドとしては一刻も早く俺を連れて百万足の根城まで行きたいところだろうが…一応聞いてくれるんだな。
「百万足討伐の前に…北の魔女、カーミュラって知ってるか?その人の元まで行きたい。もしかしたら俺の失った左腕を治せるかもしれないんだ」
「カーミュラ?知ってるぞ。一度会ったこともある」
「本当か?いる場所まで案内とかできたりするか?」
ダメ元で聞いてみたが…まさかの展開だ。
「ああ。住んでる場所が変わっていなければ、だが」
バーンガルドは顎に右手の拳を持っていき、考えるような素振りを見せる。
一週間おきにギルドを訪れるカーミュラの弟子、ネルンに道案内を頼もうと思っていたが…これは僥倖だ。
「助かる。じゃあ案内してくれないか?」
「いいぞ。まさか魔女とはいえ、左腕を治せる可能性があるなんてな。そっちの方が私としても願ったりだ」
と、いうのも単純に俺の左腕が治れば百万足討伐隊の戦力が上がるからだろう。
「よし、じゃあフイオンに着いてギルドにゴブリンの討伐報告をしたら、カーミュラの元まで案内よろしく頼む」
「わかった」
こうして、次の目的地は決まった。
一刻も早く百万足を討伐したいであろうバーンガルドには悪いが、しばらく俺に付き合ってもらおう。
※
「ゴブリンの巣の殲滅、Cランクの依頼ですね。はい確かに」
バーンガルドが麻袋に纏めた雑魚ゴブリンたちの魔石をギルドに提出し、それが確かな証拠となったところで依頼完了が正式に受理されたことを告げられる。
バーンガルドとしては俺がほとんどのゴブリンを倒したことにしたかったらしいが、いかんせん俺はDランク冒険者で、バーンガルドはAランク冒険者。
ギルドの解釈としてはこれほど早く依頼が達成されたのはバーンガルドがサポートをしたおかげだと思ってるらしく、今回の依頼の成果は殆ど俺のものとはならなかった。
最初から覚悟していたことだし、そこまで冒険者ランクを上げようとしているわけではないので俺としては別に構わないのだが……
「だから言っているだろう。私は殆ど何もしていない。ワタルの成果にはもう少し色をつけてやってくれ」
先ほどからバーンガルドは何か譲れないものでもあるのか、ギルド職員と揉めていた。
俺としては人だかりを作ってしまうのでやめて欲しいにも程がある。
「いいから、早く行くぞ」
バーンガルドの袖を引っ張り、小声で耳打ちする。
そうこうしているうちになんだなんだと様子を見に来た冒険者の輪が出来てしまっていた。
「む。ワタルは不服ではないのか?私は前々から思っていたのだ。今のギルドのやり方は古臭く、新しいやり方に変える必要が──」
少し強引だが喋り続けるバーンガルドの防具の端を引っ張り、そのまま引きずってギルドの出口へと向かう。
少し視線が痛いが、こうする他無かったのだ……
「早く、カーミュラの元まで案内してくれ」
呆れたように語りかける。すると、バーンガルドはすまないと言うように俯いた。
「…そうだな。少し熱くなりすぎた。…北の魔女の元まで行く前に飯にしないか?」
バーンガルドは堅苦しいところがあるが、すぐに自分の非を認められるのがいいところだ。
確かに腹が減ってきたな。時間的にも丁度いいし飯にするか。
「わかった。ここらはバーンガルドの方が詳しいだろ。なんかいい場所を見繕ってくれ」
「ああ…ここらでは魚を生で食べる文化があるんだ。刺身というらしい。私も一度食べたことがあるが、美味かったぞ」
「刺身か。いいな!」
そういえば久しく海鮮を食べてない。
この街の周りに海は見えないが、交通網は発達しているようなのでどこからか取り寄せているのだろう。楽しみだ。
「なんだ。知っているのか?だったら別の料理にするか?」
「いや、刺身でいい。というか刺身が食いたい」
「そうか。ここらで有名な刺身の店は…あそこだな」
バーンガルドが指さす先にはそこそこの行列が。
並ぶことになりそうだが…週末の寿司屋によく行っていた俺にとっては雑作もないことだ。
というわけで行列の一番後ろに並ぶ。
店の大きさはさほど大きいようには見えないが、中には意外と人が入るようである。
回転率も悪くないようなので、並ぶ時間はあまり長くならなさそうに思えたが、
「バーンガルドさんじゃねぇか!是非俺より先に並んでくれ!Aランク冒険者様の時間は貴重なんだろ?」
「バーンガルドさん、私の前にどうぞ!」
などと言って、次々に並んでいた人たちが前を譲りはじめた。
恐るべきAランク冒険者。
バーンガルドの連れである俺にもその恩恵は適用されるようで、あっという間に列の先頭まで辿り着いてしまった。
このためにAランク冒険者になるのも悪くないな…
「いっつもこんな感じなのか?」
「ああ。最初は断っていたのだがな。毎度のことで慣れてしまった。今では遠慮なく先に行かせて貰っている」
バーンガルドの性格的に断りそうなものだと思っていたのだが、そんな経緯があったとは。
と、ここで俺たちの順番が来た。
案内された席は謎のVIP仕様で、逆に落ち着かない。
だが、これまたバーンガルドは慣れた様子で出されたお茶を啜っていた。
「いっつもこんな感じなのか?」
二度目の問い。もはや驚きより呆れの部分が多い。
「ああ」
置いてあった暖かなおしぼりで手を拭きながら、こなれた様子で防具を外していくバーンガルド。
外された防具は横に置いてあった豪華な荷台の上へと置かれ、店員と思しき人物が磨き上げている。
ついでに神々封殺杖剣を置いてみると、少し嫌な顔をしながらも店員は神々封殺杖剣も磨いてくれた。
「凄いサービスだな。他の人たちにはやってないように見えるが」
「まあな。Aランク冒険者も利用する店と、周囲に売り出すためだろう」
「はあ…」
なるほど、宣伝効果も兼ねるためウィンウィンの関係なのか。
「注文は決まったか?ここの店は少し高めだが値段は気にしなくていい。私が全額払おう」
「わかった。じゃあ……この『刺身盛り合わせ・神』で」
横にいた店員にメニューを指差しながら注文する。
それを聞いた店員は一瞬驚いたように目を見開いたもののすぐさま接客の態度に戻り、厨房へと駆けていった。
「……それを選ぶか」
神妙な顔立ちで呟くバーンガルド。
どうせならということで一番高いものを選んだのだが…
「ダメか?」
このバーンガルドの感じからして、値段が問題ではないような気がする。
だとしたら考えられるのはただ一つ。
それは俺が初めて訪れた街、ライラルで愚かにも『死のカツ丼・ゼレス盛り』を頼んでしまった時と同じだ。
あの時は本当に地獄を見た。
あの地獄をもう一度見ないためには、一刻も早く注文を取り消すべきだろう──。
「ああ、あれはとても人が食うようなものではない。現に、二人いるというのにワタルだけの注文を聞いて店員は行ってしまっただろう。つまり、そういうことなのだ。私も他の客が頼んでるのを見たことがあるだけなのだが…」
そう語るバーンガルドの表情には絶望のようなものは見て取れなかった。
それどころか、どこか高揚していた。
それはつまり、バーンガルドは『刺身盛り合わせ・神』なるメニューに挑戦することを楽しみにしているということ。
……バーンガルドには悪いが注文を取り消させていただこう。俺はもうあんな地獄は二度と──、
「「「お待たせしました。『刺身盛り合わせ・神』です!」」」
俺が再び店員を呼ぶ間もなく、それは突然に降臨した。
『神』などという大層な名を冠した料理は、三人のウェイトレスに支えられている。
そう、Aランク冒険者を待たせてはならないという焦りが、厨房で料理を作る職人たちの腕を加速させ──この悪魔を作り上げる速度を尋常ではないほどに早めた…早めてしまったのだ。
俺は驚愕に目を見開く。
絶望する。死のカツ丼なんかと比べ物にならないくらい凶悪なその魔神を前にして。
対してバーンガルドはそれを見て口元を綻ばせていた。
強者は常に強者と対峙することを望む。
バーンガルドは己を破滅へと導く程の強者と出会えたことに歓喜しているのだ。
赤、白、黄色。
色とりどりの刺身が並べられた巨大などんぶりは、一メートル四方はあるテーブルを優に覆い隠し、いかなる隙も与えない。
覚悟を決めた俺が箸を握ったところで、バーンガルドも箸を握った。
「いただきます」
手を合わせ、目の前の強敵に敬意を示す。
それを見たバーンガルドは、俺を真似して手を合わせ、「いただきます?」とぎこちないながらも呟いていた。
「俺の故郷に伝わる魔法の呪文だ。これを言えばいかなる食材も感謝して召し上がることが可能になる。例え腹がはち切れそうになって、目の前のものが食い物に見えなくなったとしても、な」
テキトーなことを吐かしていることはわかっている。
だが、バーンガルドはそれを真に受けたようで、「ほう」と言っては「いただきます」と言い直していた。
ロートやサファなんかはいただきますを知っていたが、知らない人もいるらしい。
──それでは参る。
こうして俺はこの世界に来てから何度目かわからない、死闘へと身を捧げたのだった。
※
数時間後。
とても食べ物が入っていたとは思えないほどのどんぶりも中身がすっかり消え、机の上には腹がパンパンに膨れ上がった瀕死の俺とバーンガルドが突っ伏していた。
「はぁはぁ…私たちはやり切ったのだな…私がこれまでしてきたどんな冒険よりも苦しかったぞ…」
「そうだな……今俺の胃の中では数百匹の魚たちが再構築され…泳いでいるぜ…」
「私もだ……」
もはや意味のある言葉を交わすことすら難しくなっていた。
この状態になる前に会計は済ませてあり、後は店を出てカーミュラの元まで行くだけである。
「今日のところは…ここらの宿にでも泊まろう……この状態で馬車にでも乗ったら…終了だ」
俺の声はもはや呻き声になっている。
「そうだな…賛成だ…だが…もう少しだけ…待ってくれ…トイレに行ってくる」
力なくそう言って、よろめきながらも立ち上がるバーンガルド。
俺はそんな光景を見て、バーンガルドがよくないことをしようとしているのを悟る。
「おい…お前…行くな…言っちゃダメだ…」
バーンガルドが行ってしまわないように手を伸ばして抵抗する俺だったが、瀕死状態の俺の手が届くことはなく、バーンガルドはヨロヨロと歩きながら行ってしまった。
──数分後に戻ってきたバーンガルドは…生気と元のスマートな肉体を取り戻していた。
「何故そんな所でくたばっているんだ。とっととカーミュラのところに行くぞ」
何事もなかったかのように、毅然とした態度で振る舞うバーンガルドを見て、どうしようもない悲しみ、そして怒りに襲われる。
いてもたってもいられなくなって、気だるい体をなんとか持ち上げて、俺は叫んだ。
「お前、まさかトイレでオロロロロロ」
立ち上がり、急に声を荒げた衝撃。
それは俺の胃の中のものを逆流させるには十分なものだった。
「ふっ…醜いな」
巨大な空のどんぶりが俺の出したモノを受け止めていく光景を見て、バーンガルドは呟いた。
そして俺はただただ悔し涙を流しながら「今日は宿に泊まろう」と呟く他、無かった。