最終話
虫の描写が出てきます。苦手な方はご遠慮ください。
重たい足を引き摺りながらアパートの自分の部屋に続く階段を、一段一段昇っていく。靴の裏に磁石がついてるみたいに、足の裏が鉄製の階段にいちいち貼り付く。
重い。
今夜はいろいろありすぎて心と頭の整理がつかない。
世界が狂っているのだろうか。それとも私が狂っているのだろうか。
もうすぐだ。
階段を昇り切り、自分の部屋まであと5〜6メートル。大した距離ではない。
なのに、ものすごく遠くに見える。あんなに遠かったかしら。疲れているから遠くに見えるだけなのかしら。
いろいろと考えるのも億劫なのだが、この状況は考えずにはいられない。考えることで、自分がいちばん恐れている事態を思考回路から外して、少しでも安心感を得たいと逃げているんだ。
でも…自分の家に辿り着いたら、中は前と変わりなく自分の部屋なんだろうか。私の痕跡すらなくなっていたらどうしよう。
そう思うとただでさえ重たい足取りが、よりいっそう重くなる。
部屋に入る前に、もう一度だけ『アリ』を検索してみようかな。部屋に入るのが少し怖くなって、その恐怖心を払拭してくれるんじゃないかと、淡い淡い希望を抱いてスマホを取り出す。
何もかもが重たい。スマホでさえ重く感じて持つ手が震える。
ロックを解除して検索ブラウザを立ち上げる。
ああ、ダメだ。
並んでいる文字列が、まるで意味がわからない未知の文字になっている。もしかしたら日本語なのかもしれないのだけど、今の私にはまったく解読不能なのだ。
もはやショックを受けるという感覚を通り越して、何も感じない。
これは夢じゃないのかな。今更だけど、夢であってほしいな。
思考が朦朧としてきた。身体全体に靄がかかっているようだ。
私の部屋まであと少し。あの扉を開けたら何かが変わるかもしれない。重たい身体をずるり、ずるり、と引っ張りながら少しずつ部屋に近付く。私が、私自身の意思で動いている気がしない。何かに引っ張られて、部屋に引きずり込まれるような変な感じだ。
アリが私の部屋に現れた日から歪みが大きくなったんだ。あの日アリが私をどこかへ導こうと、私の部屋に現れたんだ。きっときっと、そうなんだ…
あんなにアリのことが嫌で嫌で仕方なかったのに、今はアリのこと以外など考えられない。アリが私の脳内を、身体を、すべて蝕み支配している。
本当に、嫌だなぁ、アリ。
私は自分の部屋の扉を開けるのをいつまでも先延ばしにしても仕方ないと、鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくり右に回す。いつもと同じ行動だ。今朝だって変わりなく同じことをしたはずだ。なのに今はまったくの別人が私の中にいて、まったく違う部屋を開けようとしているような錯覚に襲われる。
開ける?どうする?
まだ私の中には迷いがある。でも希望もある。
ガチャリ
いつもより重たい音がする。世界のありとあらゆるモノ、ありとあらゆる音、ありとあらゆる現象、すべてのものが重い。
ねっとりとしたアスファルトが空気全体を埋め尽くし、漆黒の闇が世界を覆い尽くしている。
重い。重い。重い。
ドアノブに手をかける。回す手が重い。ドアノブ自体も重い。
ああ、お母さんに電話しておけばよかったなあ。
今更そんなことを考える。
私の存在は私を産み落とした母がいちばんよく知ってるはずなのに。『アリ』なんて検索せずにお母さんに電話すればよかったなあ。
お母さんの声が聞きたいなあ。
私は新しい世界に足を踏み入れる決心をして、扉を開ける。
ギ、ギ、ギギー
油が足りていないような、嫌な重たい音を立てて、扉が開く。
私と同じ大きさのアリが、部屋中無数にいる。アリはどこから運んできたのかエサを手際よくさっさと幼虫のいる部屋へと仕分け、幼虫はそれをムシャムシャと貪るように食べている。
女王アリはひたすら卵を産み、働きアリはあちらこちら仕事を分担し、忙しなく動き回っている。
一匹のアリが私に気付く。
女王アリだ。
彼女は大アゴを最大限に広げ、笑顔を作る。そして優しく私に言う。
「おかえり」
《完》