第六話
虫の描写があります。苦手な方はご遠慮ください。
ほとんど一睡もできないまま朝を迎えた気がする。重たい頭と身体が布団にこびり付いてなかなか剥がれない。
夜中はまったく眠たくならないのに、朝日が昇った途端に眠りに落ちるということがときどきある。
今朝が正にそれだった。
暗い夜の間にもアリは働き続ける。寝ている間にアリがキッチンを埋め尽くしていたら?キッチンだけでなく、他の部屋にまで侵入していたら?
考えれば考えるほどに気味が悪く、そのせいで頭も冴え、眠気など訪れるはずもない。
でも、今日も仕事だ。行かなきゃ。そして今日こそアリの駆除剤を買ってこなくちゃ。
私はのそりと起き上がり、ベッドの下と周りをぐるり見渡し、アリがいないことを確認する。
大丈夫。
恐る恐るキッチンへ向かうと、アリが一匹。
一匹だけだったと胸を撫で下ろす。いや、一匹だけだったからとほっとしてはいけない。こいつだってフェロモンを撒き散らして仲間を呼んでくるやつに違いないんだから。
小さいくせに、腹立たしい。
私はいつも通り、その一匹のアリを押し潰し、同じようにシンクへ流した。
できれば仕事に行かず、店が開いたらすぐにでも駆除剤を買いに行って家にそれを設置したい。
だけど今日は絶対に仕上げないといけない仕事があるから、仕事に行かなくちゃ。
そうだ、昨日掃除機で吸い取ったあの紙パックも捨てなきゃ。あの中でもし生きているアリがゾロゾロ出てきたらと思うだけで寒気がする。
散々だな。
私は憂鬱な気分をズルズル引きずりながら駅へと向かった。
アリの駆除剤を絶対に買わなければと思っていたからか、集中して恙無く仕事を終え、定時には退勤できた。すぐに職場からいちばん近いドラッグストアに寄る。
アリの駆除剤を探すが見当たらない。オフィス街だからかな、需要がなくて置いていないのかもしれない。
仕方ない。もう一軒当たろう。
少し歩くが、違うドラッグストアストアに入る。
ここにもない。
家の近くの店の方が置いてあるかもな。
そう思ったが、一刻も早く駆除剤を手に入れたくて、職場の最寄り駅の駅ビルにある店に入った。
だが、やはりない。店員さんに聞いてみようか。
「あの、すみません」
「はい、何でしょうか」
愛想のいい中年女性の店員だ。
「あの…アリの駆除剤を探しているのですが、どこにありますか?」
「え?何の駆除剤ですか?」
「アリです」
「アリ?」
「そうです、アリです」
女性店員は露骨に戸惑いながら聞き返してきた。
「アリ…とは」
「アリですよ、アリ。小さくて黒い昆虫」
「申し訳ございません。少々お待ちいただけます?」
在庫確認しに行ってくれたのかな。それにしても、彼女はどうしてあんなに困ったような顔をしていたんだろう。やっぱりこの辺りではアリなんて無縁のもので、扱っている店も少ないのだろう。
ここになかったら、家の近くの店に行こう。時間の無駄だ。
やがて女性店員が、少し年配の男性店員を連れてくる。
名札には『店長』と書かれている。そんな上の人を連れてこなくても…別に苦情を申し入れているわけでもないのに。
今度はこっちが困惑する。
「お客様、お待たせして申し訳ございません。何の駆除剤をお求めで?」
「え?さっきも申し上げましたがアリです。アリが部屋に出てきたので駆除したいんです」
「大変恐縮なのですが、アリとはどのような虫で?被害は大きいのですか?」
何だか話が通じない。
「当店ではご覧の通り、ここに置いてあるだけの昆虫駆除剤しか扱っていませんで…アリ…とやらの特徴がわかれば似たような商品で代わりがきくかもしれません」
「?」
アリの特徴を教えろって言ってるの?この期に及んで大嫌いなアリの説明をしなきゃいけないの?
私はバカらしくなって「あ、もう結構ですので」と短く告げ、そそくさと店を出た。
もう嫌だ。アリは嫌だ。