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2022.4.17 九州大学文藝部・三題噺

海中

作者: 常夜

幼いころ、両親に水族館に連れて行ってもらったことがある。そこでたくさんの魚が悠々と泳いでいるのを幼い私は憧れの目で見ていた。帰りの車で魚になりたいと両親に話して苦笑いされたことも覚えている。あれから毎年水族館に連れて行ってもらうたびに、私は嬉々として魚を眺めていた。やがて、年がたつにつれてその憧れは小さくなっていったが、それでも子供のころは水族館に行くのが好きであることは変わらなかった。しかし、そこから時がたって中学生、高校生となると生活が忙しくなり、行く回数は自然と減ってしまった。そして、成人になってからは一度も行っていない。他にするべきこともあったからという理由もあるのだが、自分が住んでいた場所と水族館の間の距離が中々あるというのも行かなくなった理由の一つだった。そして、社会人として働いている今では水族館に行こうと思う事さえなくなった。


「君、しばらく休んだ方がいいよ。」


大きい仕事をいくつか終わらせた後に、上司からそんな言葉を言われた。彼は私が多く残業をしていることを見てあまりに多く仕事を背負わせているのではないかと不安になったようだ。その残業は別に仕事が多いからではなく、自分が石橋を叩いて渡る様な性格なので不安で仕方なく細部まで確認しているためなのだが、どうも上司はそう思わなかったらしい。君の仕事ぶりはきちんと評価されているから焦らず英気を養いなさい、と上司は言い、一週間ほどの休暇をもらえることになった。


さて、何をしよう。


こんな急な休暇を予想できるわけでもないので、私はこの休みで何をするか全くもって思いつかなかった。平日の休みだったので、映画館やら観光地やら比較的空いている場所も多いだろうとは思っていたのだが、別に見たい映画があるわけでもなければ、行きたい場所があるわけでもない。そんなこんなで、私は休暇のほとんどを家でダラダラ過ごすことに費やしてしまう事となった。

 休暇が終わるにつれ、せめて休暇中に休暇と呼べるような何かをしなければという謎の焦りが私の心にあった。自分の休暇だから好きに過ごしていいのだが、何せ休みというと別の場所に行ったり新しいことを始めたりとそういうイメージがある以上、せめてそういう事をしてみたいという思いもあるのである。といってもさっきも言ったように別に行きたい場所もしたいこともあるわけでもない。私はこの二つの思いに挟まれながらも「休暇中にすること」を探していた。そして見つけたのが「水族館に行くこと」だった。

水族館。前に行ったのはいつだっただろう?ここ数年行ってない場所を思いついた私はすぐそこに行くことを決めた。昔の魚に対する憧れは無くとも、今でも十分に楽しめるはずだ。そう思うと、私は近隣の水族館について調べ、そして明日の朝から出発できるようにその日は早く寝た。

気づけば私は海の中に立っている状態だった。私は大いに混乱したが、体は物理法則に従うかのように沈んでいく。上にはぼんやりと光がさしていたが、沈むにつれその光も暗くなっていった。やがて完全な闇に包まれ、私は自分が今どこにいるのかさえも分からなくなった。その時かすかに何かが自分の横をすり抜けていく感覚がした。私は手を振り回し何がいるのかを確かめようとした。やがて、手は何かに当たったものの、それは泡を立てて逃げてしまった。そこで私はここが海の中である以上魚が泳いでいるのだと気づいた。それが私の横を泳いでいったのだろう、と私は思った。すると、闇だった視界が少しずつ開けていくのを感じた。

視界の先では大量の魚が自由に泳いでいた。群れの中でまとまって泳ぐ魚や一匹で移動し速く泳いでいく魚などたくさんの魚がいた。それを眺めていると、私はかつての憧れを思い出した。魚になりたい、という子供のころ願ったたわいもない夢。決してかなうことない夢がここでは叶うのではないかとそう思ったのだ。ゆっくりと体を横にする。魚のように、思いっきり水を飲み込む。本来なら自殺行為に等しいが、今はそれがとても気持ち良かった。水を掻き、海の中を泳ぐ。最初は拙かったが、時間がたつにつれて速く泳げるようになった。他の魚のようにすいすいと泳げるこの時が夢だと分かっていても、とても楽しかった。泳いでいる間は全てを忘れ、ただ海の中を泳ぐことだけに集中できた。

このまま、夢が覚めなければいいのに、と私は思った。そうすれば、ここでずっと、ずっと泳いでいられる。たとえここで死んでしまっても構わない。そう思って泳いだしばらくたったころ、不意に私は視線を感じた。どこかから見つめてくるそれの正体を見ようと思って私は泳ぐのをやめ周りを見渡し、そして視線の主を見つけた。

巨大な何かがまるで私を責めるかのように私を見つめていた。私はその視線に動揺したが、これは夢だと自分に言い聞かせ、睨み返した。次の瞬間だった。胸に激痛が走り、体があらゆるところから潰されるような感覚に私は陥った。痛さのあまり悲鳴を上げようとするが、口から出るのは泡だけでさらにそこへ塩水が流れ込み、より痛みはひどくなった。絶えず続く苦痛の中私はなぜと疑問を抱いていた。どうして、と。笑い声が聞こえる。痛い、苦しい。さっきまで私を受け入れてくれたはずの海が今や自分の敵となって襲ってくるように感じられる。少しずつ暗転していく景色の中で声が聞こえた。


「この先は、輪廻の後に願うがいい。」


はっと身を起こす。はぁはぁと息を荒げ今ここがベッドの上にいる事に気づいた。さっき見たのはただの夢だったようだ。あの夢の中にいた巨大な何かは何なのだろうか。神とかそういうたぐいの存在だろうか。分からない。分かりたくもなかった。とりあえず、思うのは一つだった。

「水族館に行く事はやめにしよう。」


次の日、私は水族館に行くのはやめた。といっても、出る準備をしていた以上どこかに行きたいという思いはなくならず、結局の近くの美術館に行くことにして肖像画やら何やらをずっと眺めていた、水族館よりはいささかつまらなかったが、少なくとも溺れることはないだろうと思うと少し安心できた。


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