紫の花の園で
「んー……ちょっと足跡は分からないです。群生した薬草のせいで見にくくて……」
ユーネが彼の見よう見まねで地面から情報を読み取ろうとしている。けれどたくさん自生している薬草の葉が邪魔で、肝心の足跡は見つけることすら困難のようだ。
周囲を見回してみる。視界の範囲に魔物の姿は見つけられない。ゴブリンなら綺麗な花でもおかまいなく踏み荒らしているかと思ったけれど、そんなこともないらしい。
わたしでも分かるのはただ、昨日と一昨日、ここで採取した者たちの痕跡だけ。
風が通り抜けた。
紫の花たちが揺れ、甘やかな香りが鼻をくすぐる。この花は錬金術の調合材料になるが、香水にも使われるはずだ。花弁を採取するということは、もしかしたらそちらの用途が主なのかもしれない。
心地良い風と、美しい光景と、柔らかく包まれるような香り。
ここでわたしは、薬草採取の依頼をこなしたのだ。―――三人で。
「帰りましょう」
漏れ出た声は風に乗って幼馴染みに届く。彼女はやっと振り返った。
「おや、ゴブリンはいいんですかー?」
「わたしたちではこれ以上追えないもの」
「採取はしないのでー?」
「安全確認ができたわけではないわ。カゴが満杯になるまでずっと、手元を見ながら周囲を警戒できる?」
考えたそぶりも見せずユーネは首を横に振った。当然だ。町育ちで冒険者としても未熟なわたしたちにそんなことはできない。
「キリ君ならできるかもしれませんけど……そうですね。帰りましょうかー」
彼なら―――できるのだろう。なにせソロで採取依頼をこなしていたのだ。できて当然である。
つまり、そういうこと。わたしが本で予習した方法で薬草を採取しているとき、彼は周囲に危険がないかを気にしながら同じ作業をしていたに違いない。
こうして山中で彼と離れて、やっと理解した。わたしたちは冒険の最中ずっと、彼に守られていたのだと。
「今から急げば、彼に追いつけるかもしれないわ」
「それは無理かとー。キリ君の方が足早いですから」
小さな笑いを堪えるようにユーネが指摘してくる。……下唇を噛んで耐えた。これでは現状を冷静に判断できていないことが丸分かりだ。
気が急いているのは自覚している。もう一度、彼に会わなければならないという焦りが胸中で燻っている。会ってなにを言うべきなのかは分からない。それは歩きながら考えなければならないが、その考えがまとまらなくても会わないという選択肢はない。ただ、彼とこれっきりというのだけはダメだと感じていた。
とはいえ……ユーネの言うことは正しい。彼は明らかにわたしたちのペースに合わせていたし、どれほど急いだとしても彼の背中を見ることはできないだろう。
「……冒険者の店にはまだいるでしょう」
「どうでしょうね。お家に帰ってしまっていたらどうしますー?」
「彼は目立つわ。きっと家がどこかくらい、知ってる人はいるはず」
そういえば、わたしは彼がどこに住んでいるか知らない。田舎の出だと聞いているし、家ではなくてどこかの宿に泊まっている可能性もある。食事は冒険者の店で食べていたから、もしかしたらあの店で部屋を借りているのかもしれない。……いや、もしそうだとしたら彼の親御さんはどこにいるのだろうか、という疑問がでてくる。少なくともわたしはまだ見たことがない。というか、そもそもなぜ彼はあんなに臆病なのに、冒険者として一人で町の外に出ているのか。
分からない。分からなくて、一度気になると次々と疑問が湧いてくる。
歩きながらでも、休憩中でも、採取しながらでも、昨日屋台で果汁を飲んだときだって、聞くタイミングはいくらでもあったはずなのに。
「そこまでするんですねぇ」
クスクスと今度こそ小さく笑って、ユーネがからかうように言ってくる。―――たしかに住んでいる場所を探し出して訪問までするなんて、普通はしないか。
まったく。この幼馴染みのこういうところ、性格が悪い。
「……そこまでするわ。もう一度会う必要があるもの」
笑われても考えは変わらなかった。踵を返して来た道を戻る。早く戻らなければいけない。
―――わたしは、間違ったことを言ったとは思わない。ゴブリンから逃げてるようでは冒険者として話にならない。
けれど、彼がわたしたちを戦力として数えなかったのは当然なのだ。普通の人にとって魔術とは、よく分からない得体の知れないものなのだから。
わたしは探査しか魔術を見せておらず、ユーネは靴擦れを治しただけで、他にどんな術を使えるかなんて話もしていない。わたしたちが何をできるか、彼はほとんど知らないのである。
知らないものは作戦に組み込めない。
簡単な話だった。あの時の彼はリーダーとして当然の判断を下しただけで、なにも間違ってないのだから。
ユーネに指摘された今なら分かる。―――悪かったのはわたしの努力不足。信頼と信用を得るための努力を怠ったわたしを、彼がアテにしてくれるはずがない。
どんな失敗よりもショックだった。
靴擦れで出発してすぐ引き返したことも、水筒の水をもらったことも、格好をつけて説教した後に段差で足を滑らせたことも、これに比べれば些細なことに思える。
冒険者として未熟なのは仕方がない。けれど商人の子として生まれたのに、商人としての基本が一つもできていなかったのはなにも言い訳できない。
彼にとってわたしは、ただのワガママなお客さんでしかなかったのだ。
彼と話をしよう。じっくりと時間をかけて、今度こそ。
まだなにを言えばいいのかまとまらないけれど、いまさら遅いかもしれないけれど、このままで終わりにするわけにはいかない。
「―――お嬢様っ!」
普段では考えられないほど鋭い、ユーネの声。それに被さるように、獣と人の中間のような叫び声がして。
木陰から飛び出してきたゴブリンの棍棒が、わたしに振り下ろされたのだ。
油断していた。気を逸らしていた。彼のことばかりが気になって、その危険の存在を蔑ろにしていた。
少し考えれば分かることだ。わたしたちの目的地はここで、昨日と一昨日の足跡はこの場所で引き返している。
ゴブリンがわたしたちの足跡を辿っていて、なおかつ道中での待ち伏せがなかったのなら―――この場所に隠れ潜んでいて、襲うタイミングを計っている可能性が高い。
油断しなければ勝てると思っていた。奇襲さえ受けなければ大丈夫とたかをくくっていた。
わたしは油断して、奇襲を受けた。
とっさに短杖で棍棒を受ける。魔術をいつでも使えるように手に持っていたそれは、魔術のためではなく物理的に身を守るため使われた。
ガンッ、という強い衝撃が走った。杖を持つ手がジーンと痺れ、短杖の一部分がへこむ。
ゾッとする。なんだこれは。ゴブリンは力が弱いという話ではなかったのか。こんなのは聞いていない。こんなのに一撃でも当たったら、骨が折れるだけではすまない。
「下がってください、お嬢様―――きゃあ!」
ユーネがわたしとゴブリンの間に割り込もうとする。けれど新たに短剣を持ったゴブリンが二匹も藪の影から現れ、彼女に襲いかかる。
「ユーネ! こ……のぉ!」
短杖を構える。魔力を練る。呪文を唱える。
魔術を発動する前に、下から振り上げられた棍棒が短杖をハジき飛ばす。
「あ……―――」
目が合った。
イボのある鷲鼻。浮いた頬骨。黄ばんだ乱杭歯。醜い顔をした、緑肌の魔物。口角を吊り上げ、弱者を嘲るように見下すその目は、まごうことなくわたしへ向けられていた。
死ぬ。そう悟って、でも足は動かなくて、痛みで痺れる手がやたらジンジンして、頭が真っ白になった。
死ぬ。
殺される。
終わる。
「助けて―――」
棍棒が振り下ろされる。
身体が動かなくて、目を閉じることすらできなくて、わたしはただその光景を見た。
ゴブリンの首から槍の穂先が突き出てきた、その光景を。




