足跡の行く先
「本当に?」
リルエッタは地面に手も膝もつくのが嫌なのか、ひらひらのスカートの端を足首の辺りで絞るように手で握って、中腰で近寄ってきた。……やっと話したと思ったら、声には疑いの色が濃く滲んでいる。
「間違いない。横から歩いてきて、僕たちの足跡に合流してる」
背の低い木々の藪を掻き分けるようにして現れた足跡は、僕らの足跡と重なるように方向転換していた。
「わたしたちの足跡ではないの?」
「明らかに数が増えてるし、大きさは似てるけど僕たちは裸足じゃないよ」
足跡は離れていっている。周囲にゴブリンの姿は見えない。僕も地面に伏せるのをやめて膝立ちになる。
とりあえず今は大丈夫そうだ。少なくともまだ、僕らの姿は見つかっていないと思う。……とはいえ安心はできない。槍をいつでも構えられるよう、持ち手を確かめる。
「数はたぶん、五匹より多くはない。けれど確実に複数」
自分が言ってることに自信が持てない。
道悪の山で、横一列になって歩くなんてことは有り得ない。木々の隙間や段差の緩やかな場所などを選んで進むのだから、基本的に縦一列で移動する。だから足跡は足跡で踏み荒らされ、正確に数を特定することは難しい。二匹から五匹の間より絞ることができない。
ムジナ爺さんはやっぱりすごかったんだ。
「はぁー……なるほどたしかにあります。キリ君はすごいですよ、よく見つけましたねー」
素直に感心した声はユーネのものだ。しゃべり方は緩いがいつもより緊張している証拠に、彼女は長柄のメイスをギュッと握っている。……武器を持つときは力を抜け、とウェインは言っていた。そんなふうにガチガチに握ったらとっさの時に対応が遅くなるじゃないか。
「ふぅん、ゴブリンね。最初の戦闘としては手頃な相手だわ」
その言葉には、耳を疑った。
なんだろう。なんと言ったのだろうか。まさかリルエッタは今、手頃な相手などとのたまったのか?
最初の戦闘と彼女は言った。彼女のことはまだよく知らないけれど、ということは実戦経験もないってことだ。
背筋がゾワっとなった。危険に対する認識が甘すぎる。ゴブリンはたしかに弱いって言われているし、実際に僕も戦って倒したことがあるけれど―――侮っていい相手だなんて、露ほども思わない。だってあいつらはちゃんとこちらを殺しにくる。負ければ死ぬのだ。
ムジナ爺さんはそのゴブリンに殺されたのだ。
「この先にいるんでしょう? ユーネ、キリ。しっかりしなさいよ」
「うぇぇ……本当にやるんですかぁー」
彼女がなにを言っているのか分からなかった。ユーネもなぜ準備をしているのか理解できなかった。
どうして行くつもりなのか。なぜ勝手に話を進めているのか。
「……ダメだ。引き返そう」
絞り出すように僕がそう言うと、二人は驚いた顔でこちらを見る。……なんだその顔。驚いているのはこっちだ。
「どういうことかしら、キリ?」
丁寧な口調。けれど声は冷たくて、隠す気もない怒りがあった。
「ゴブリンは放っておけば悪さをする魔物よ。この辺りに来る狩人や木こりを襲うかもしれないし、街道に出て行商や旅人の荷を奪おうとするかもしれない。以前には町の壁を登って入ってきた魔物だっていたわ。この先にいるのであれば、今のうちに倒しておくべきでしょう」
彼女は真面目だ。とても真面目で、仕事に対して専門家としての自覚を持てと僕に説教をするほどに意識が高い。それにさっきの話を聞く限り町の人たちにも敬意を持っているから、そういう思考になるのは当然なのだろう。
けれどダメだ。それは人として、あまりにもまっとうすぎる。
チッカの言っていたことがようやく理解できた。彼女は冒険者に向いていない。
だって―――これじゃすぐ死ぬ。
「引き返して山を降りる。この先へは向かわない」
彼女の心根は正しくて、その論理は正論で、機嫌は最悪だ。心の片隅で説得は無理だと感じて、けれど僕は譲らなかった。
「ここまで来て?」
「どれだけ来たかは関係ない」
もう山頂付近。マナ溜まりの採取場所はだいぶん近い。僕だってもったいないという気はある。
けれど足跡から読み取れる状況は、きっと最悪。
「見て。僕らの足跡と合流しているところ。あの辺りだけ特にゴブリンの足跡が残ってる。……たぶん、あそこで立ち止まって仲間と相談するようなことがあったってこと。きっとこの道を人が通っていることに気づいたんだよ」
たぶんとかきっととか、そんな自信のない言い方をしてしまうのがもどかしい。ここは間違ってても言い切るべきだったのではないか。
ムジナ爺さんやチッカなら、もっといろいろなことが分かるのだろう。それもかなりの確信をもって言い切るのだろう。自分の能力のなさと要領の悪さが嫌になる。
「ゴブリンどもは僕たちの足跡を辿って行ってる。襲いやすい場所で待ち伏せしようとしてるんだ」
ユーネが目をまん丸に見開き、リルエッタが疑わしそうに目を細めて、それぞれ足跡を眺める。……これで、納得してくれるといいんだけれど。
状況は悪い。絶対に引き返した方がいいと頭の中で警鐘が鳴っている。
ムジナ爺さんとこの山に登ったとき、僕らは五人もいたのに下山を選んだ。
ウェインたちとゴブリン討伐に向かったとき、ゴブリンどもはこちらに気づいていなくて、いくらでも戦闘の準備ができた。
今回は三人しかいなくて、ゴブリンはこちらを襲う気で待ち構えている可能性が高い。
「単純に歩きやすい道を選んだだけかもしれないわ」
ギリ、と奥歯が軋んだ。
「たしかにそうかもしれない。けれどそう考えて行動するのはただの油断だよ」
「待ち伏せされてるって分かってるなら警戒して行けばいいのよ。いつでも対応できるようにしてればすむ話だわ」
「山は視界が悪いし、ゴブリンは小さい。木の陰に隠れられたら見つけるのは難しい。いきなり襲われたら対応は無理だ」
「多少手傷を負ったとしても、わたしたちにはユーネがいるわ。治癒術士の彼女なら怪我は治せるでしょう」
「僕は治癒術士のことをよく知らないけれど、全滅したら治せないのは分かる」
「ゴブリンは魔物の中でも弱い種類よ。よほどヘタを踏まない限り全滅なんてしないわ」
「僕たちはその弱いゴブリンよりも弱い」
ふぅ、とリルエッタはため息を吐く。呆れた目で僕を見る。
そこにはもはや怒りはなく、いっそ可哀想なものを見るようなそれは、ただただ失望の色をしていた。
「よく分かったわ。貴方がただの臆病者だってことが」
手が痛くなるほど拳を握る。ゴリ、と嫌な音がするほど奥歯を噛み締める。
自分は死なないとでも思っているのか。ゴブリンの振るう武器や爪が綿でできているとでも勘違いしているのか。
「わたしたちは冒険者よ。危険を避けているだけではなにもできないわ」
肩書きなんかで強くなれるはずもないのに、冒険者だからと危険に飛び込むのか。死にに行くようなものだ。
説得は失敗した。もう納得してもらうのは無理だ。
「僕がリーダーだ。君たちは一番最初に、僕の方針に従うと約束したはずだよ」
最後の手札を切る。―――できれば使いたくなかった。
リーダーとして、ほんのわずかでも冒険者の先輩として、新人である二人を上から目線で従わせる。そんな最低のカードを、僕は振りかざした。
リルエッタが眉をひそめる。ユーネですら渋い顔になった。
これで僕と彼女たちとの関係は壊れるだろう。もう二度とこの三人で冒険に赴くことはないに違いない。残念だけれど、嫌だけれど、それは仕方ない。だって僕にはこの先へ進んで、彼女たちを無事に帰せるだけの実力はない。
三人で生きて帰れるのであれば、死なせるよりよほどマシだ。
「そう」
リルエッタの顔から感情が失せた。
二人ともとても真面目な性格だから、効果は疑わなかった。最終手段として間違いなく有効だと思っていた。
「そうよね。貴方にとってわたしたちは、臨時のパーティメンバーでしかない。そしてそれはわたしたちにとっても同じこと」
彼女はもはや語ることはないとでも示すように、僕に背を向ける。
「パーティ解散よ。行きましょう、ユーネ」
リルエッタは歩き出す。道の先へ。―――なんでそっちへ行くんだ。
「ま……待って。方針に従えないなら帰っていいとは行ったけど、進んでいいとは行ってない!」
「パーティを解散したんですもの。そんなこと指図されるいわれはないわ」
僕の制止を意に介さず、魔術士の少女は歩いて行く。進んでいく。
ついてくるなと、その後ろ姿が僕を拒絶する。
「ま、待ってくださいお嬢様ー」
ユーネが慌てて追いかけていく。彼女は困った顔でちらりとこちらを振り向いたけれど、結局僕にはなにも声をかけずにリルエッタと共に行く。
それをただ呆然と、その背中を見送ることしかできなかった。
ただ一つ、分かったことがあった。
……僕は、ムジナ爺さんのようにはできなかったのだ。




